とにかく読みやすい。くだけた訳で、こんなにすらすら読めていいのかしらと思うほどである。実は前から一度は読んでみたいと思っていたのだが、名にしおうミシェル・ド・モンテーニュ、ちょっと尻込みしていたところもある。何しろ、堀田善衛が『ミシェル 城館の人』で書いていたモンテーニュは、ナントの勅令で知られる後のアンリ4世を自分の城館に招いて投宿させるほどの大物でありながら、その公人としての役目もほどほどに、早々と城館の一室に隠遁し、せっせと運び入れた古典籍を読むことに余生の楽しみを見出した、いわば憧れの人でもあった。
「抄本」であることも、とっつきやすさの原因のひとつだろう。長短取り混ぜて12編、行間を比較的広くとったゆったりした版組み、訳者による改行や一行あけの工夫も「大人の本棚」と銘打ったこのシリーズならではである。それにしても、この本を通じて見知ったモンテーニュその人の肩肘張らぬ気さくな人となりはどうだ。何もかくすことなく胸襟を開いて、まるで十年来の知己のように自室に招き入れ、自分の思うこと考えることを語り尽くす。しかも難しいことは何ひとつ言わないで。
「エッセイ」の語源となったのが『エセー』である。読んだ本の欄外に、覚え書きのように自分の考えを書き入れているうちに、そちらが本編となった、いわば自分の考えを試す「試論」であると聞かされていたから、もっと堅苦しいものを想像していたが、食べることから排泄すること、性に関することまで、実におおらかに開けっぴろげに語るそのあけすけさ。歴史家リュシアン・フェーブルは、王から庶民に至るまで16世紀人はプライバシーなど持たない「吹きっさらしの人間」だと言ったといわれるが、この風通しのよさは半端でない。
『エセー』の愛読者であったパスカルでさえ「モンテーニュの欠陥は大きい。みだらなことば。(略)彼はその著書全体を通じて、だらしなくふんわりと死ぬことばかり考えている」と書いているそうだが、この自然な放恣さが、この本の魅力である。功成り名遂げた人物だから、当然といえば当然なのだが、徹底的に自分を材料にしつつ、あるがままの自分を肯定し、自分の身の丈にあった生き方を通すことが、けっきょく生老病死のいずれに対処するにしてもいちばん適ったことなのだという考え方に至るというのは並大抵の人間のできることではない。
せちがらい世の中である。俗事を嫌って書斎にこもり、本ばかり読んで暮らしていたとしても、書き手も読み手も時代から自由でいることはできない。時代や世相というものはその紙背を透して入り込んできて、読む者の息を苦しくさせる。ときには、開けっぴろげな時代精神に触れ、風通しのよい空気を胸一杯深呼吸してみるのも悪くない。モンテーニュの『エセー』は、どんな時代にあっても生きること、そして死ぬことについての対処法を教えてくれる妙薬のような書物である。モンテーニュの言葉をみごとなまでに平易な現代日本語に移し替えた宮下志朗の訳業に感謝したい。
- 感想投稿日 : 2013年3月10日
- 読了日 : 2003年8月17日
- 本棚登録日 : 2013年3月10日
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