海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム (講談社選書メチエ)

著者 :
  • 講談社 (2014年11月11日発売)
3.89
  • (7)
  • (4)
  • (5)
  • (2)
  • (0)
本棚登録 : 119
感想 : 7
5

西洋史を専門とする経済学教授による、ヨーロッパから見た帝国の興隆を海運・貿易の視点から読み解いたもの。ローマからポルトガル、オランダ、イギリスへと派遣が移る歴史をバルト海、北海の海運が影響していること、奴隷制による砂糖の生産よりも綿花栽培に着目したイギリスが産業革命をもたらしたこと、電信が覇権確立に極めて大きな貢献をしたことなど、今までにない切り口から論述している。研究、分析が深く、内容の濃い素晴らしい研究成果だと感じた。
「11世紀から12世紀にかけ、世界的に平均気温が1度ほど上昇する温暖期が続いた。そのため海水面の上昇が各地で生じた。これをダンケルク海進という。そのため低地地方では、洪水により、大きな被害を被った。その影響はイギリスでは低地地方ほど大きくはなかったが、イングランド南東部はその被害を受けた」p13
「北方ヨーロッパへは、アメリカ大陸からの海流が流れ込んでいる。それに加え、偏西風の影響もあって、ヨーロッパ人にとって、大西洋横断はきわめて難しい事業になった。ただし、ひとたびイベリア半島から下るならば、ヨーロッパからアメリカに向いた海流に乗れる。したがってイベリア半島の国々の方が、アメリカ大陸に向かうには有利である」p15
「地中海はバルト海と比較してはるかに大きな海であったにもかかわらず、より早く統一した商業圏を形成できたのは、メソポタミアという文明の揺籃の地に近かったという地理的要因も無視できない」p17
「ヨーロッパは、自然の恵みという点では、決して豊かな地域ではない。近くの森に行けば、天然の果実が簡単にとれるということはなく、増大する人口を養うためには、農業の発達が不可欠であった」p22
「ヨーロッパ人は、みずからの貧しさ、弱さを自覚していた。ヨーロッパの拡大とは、強くなろうとしたヨーロッパ人の意志の表れと、とらえることができよう。ヨーロッパは自らの貧しさを克服するために、もっと強くなるために、他地域に行って、その地域の産物を略奪し、ヨーロッパにもってくる必要があった。ヨーロッパの対外的拡張は、このような自然環境が大きな要因となった。ヨーロッパが豊かになろうとするには、他地域に向かうほかなかった」p23
「われわれが生きている資本主義社会は、たえず利潤を生み出さなければ存続できない」p28
「ヨーロッパ経済は、商人がどんどんヨーロッパ外世界にマーケットを拡大することで成長した」p30
「アジアの船が、ヨーロッパの海上まで進出したことは一度もない。それに対しヨーロッパは、世界中に船を送ったのである。この相違は、忘れるべきではない」p34
「イタリアにはイギリスと比べるとはるかに少ない石炭生産量しかなかった。したがってイタリアの経済成長は、天然資源の付与という点で大きな限界があった。こうしたことからもイタリアから、世界最初の産業革命が生み出されたとは思われないのである」p81
「オランダを中心として生まれたヨーロッパ世界経済は、北方ヨーロッパの海運業の発達により、地中海を呑み込んでいったのである」p86
「日本人の研究者は、ヨーロッパの経済成長におけるアジアの重要性を強調することが多い。しかし、ふつうに考えれば、アジアではなく大西洋経済の形成こそが、ヨーロッパの経済成長に大きく寄与したとなろう」p91
「新世界の発見から18世紀後半まで、大西洋経済とは基本的には中南米経済を意味した。北米経済の重要性はそれと比較すると非常に小さかった。本質的に大西洋経済形成にとって重要なことは、西アフリカから奴隷を持ち込み、新世界で砂糖を生産させるシステムであった。このシステムが形成されていく過程で、大西洋はヨーロッパ人の内海となったのである。やがてイギリスが輸入した綿花がイギリスで綿製品となり、産業革命を引き起こすが、大西洋貿易全体をみれば、それはまったく例外的な現象であった。イギリスの大西洋貿易だけが、産業革命を生み出したのである。それが世界の歴史に大きな変革をもたらしたのである」p100
「大西洋から砂糖や綿花を輸入する一方で、イギリスの貿易相手としてロシアが台頭し、とりわけサンクト・ペテルブルクからの造船資材の輸入が増大することとなった。しかも、この都市から輸入された鉄は、イギリス産業革命のためにも使用された。サンクト・ペテルブルクから鉄を輸入することがなければ、イギリス産業革命は不可能ではなかったにせよ、かなり遅れたであろう」p120
「(喜望峰ルート発見により)喜望峰ルートを使用して、香辛料をアジアからヨーロッパへ運ぶようになった。それによってイタリアは、インドと東南アジアのルートから切断されることになった。17世紀初頭には、イタリアから陸上ルートでインドや東南アジアへとつながる異文化間交易圏からイタリアが切り離され、その代わりにイギリスやオランダ、さらにはポルトガル商人が一翼を担うようになった」p130
「オランダは、帝国を形成することなく、商人自ら海運業を拡大していった。それに対しイギリスは、まず帝国内部の海運業を自国船でおこない、ついでイギリスの勢力下にあった非公式帝国で、最後に世界中でイギリス船を使用するようになった」p178
「インドからイギリスに送られた資金は、本国費(home charges)と呼ばれ、イギリス帝国のみならず、19世紀には本国の財政にとって極めて大きな位置を占めた。それと比較するなら、たとえばオランダ財政におけるインドネシアの重要性は、それほど高くなかったであろう。財政面からみても、イギリス帝国は他の帝国の追随を許さないほどの一体性があった。多くの植民地が、本国経済のために奉仕したのである。これほど強力な本国の権力を、イギリスの前のヘゲモニー国家であるオランダはもっていなかった。イギリス帝国は、極めて凝縮性の高い帝国であった」p180
「(スーザン・ストレンジ「カジノ資本主義」)すべての国に同一のルールが適用される公平なシステムの代わりに、極端に非対称的なシステムが発展していたと述べた。そもそも世の中に、(ストレンジのいう)公平なシステムなどありえない。ヘゲモニー国家に有利なシステムが存在しているのである。それを構造的権力と呼ぶべきであろう」p182
「イギリスは、電信によって、世界の情報の中心となった。イギリスは、いわば情報の帝国になった。そのため、金融の中心になり、世界の人々は、イギリス流の経済の運営方法=ゲームのルールに従わざるをえなくなった」p198

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2018年10月24日
読了日 : 2018年10月24日
本棚登録日 : 2018年10月24日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする