スピノザ よく生きるための哲学

  • ポプラ社 (2019年12月12日発売)
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 著者はフランスのノンフィクション作家。主に宗教や哲学に関する一般向けの著作をもち、そのうちキリストに関するものは何度か書店で目にしたことがあるが、個人的には本書が初読。決して早いとは言えないスピノザとの出会いにより大きく影響を受けた著者が、非プロフェッショナル向けにその魅力を伝えるべく書かれた入門書だ。著者は必ずしも哲学の専門家ではないが、付録にあるように複数のスピノザ専門家の査読を受けており、平易さを指向しながらも正確性の担保も期した信頼のおける内容となっている。

 前半は、世俗的にも宗教的にも孤立の悲哀を経験したバールーフ・デ・スピノザが、政教一致を提唱し当時のネーデルランドを牛耳るカルヴァン派の意に背いてまで発表した「神学・政治論」の主張を軸に展開される。スピノザの主張によれば、「神の掟(儀礼ではなくより本質的な至福と善を追求すること)」を知る上では、自然的光明(=理性の力)による一般人の解釈は預言者のそれに劣るところがない(人間イエスが神の叡智を体得できたように)。聖書の本分は人間の理性に既に備わっている神の掟への方法論を用いて「公正さ」と「愛」の実践を伝えるところにあるのだから、戒律で人々を縛り付け「自発的隷属」強いる宗教の掟など不要だということになる。ここで意識されているのは間違いなくアリストテレスの「観照知」であることに注意したい。アリストテレスが「不動の動者」たる神が理性を持って対象を思惟することが世界の原動力であるとしたことと、人々が理性を持って神を愛することが至上とされていることは、多分鏡像の関係にあるのだと思う。
 一方、シオニストたちが期待した政教一致の旗頭としての役割に反して、スピノザが宗教(従順さと熱意の発露)と哲学(真理の追求)を峻別した政教分離を指向していたこと、さらには公共の福祉を信条・表現の自由の上位においていたことはやや意外だった。政治権力は個人の契約により委託された自然権の表出であり、神の本質を自然の掟と同一視していたスピノザにとっては、政治権力も理性に従っているうちは神の掟に従う存在だということなのだろう。

 後半はいよいよ主著「エチカ」の概説。自然の幾何学的構造を模した構成をもつこの著作は、すべての定理の拠って立つ起点として、唯一の実体(その存在のために他のに何ものも要しない存在)としての神を定義する。目的原因論的な万象の説明に依拠することで心の平安を保つ人間の要求を排し、あらゆる因果の矢の射出点として神を対置したものだ(この辺りもアリストテレスの不動の動者を想起させる)。有名な「神即自然」もここから来るのだが、著者はこれをもって「スピノザは神を自然に還元した唯物論者である」とする一般に流布する解釈を一蹴し、スピノザの「自然」とは物質的/精神的なものを総括的に内包する宇宙全体であるとしている。スピノザはさらに「能産的自然(自然を産出する潜在能力)」と「所産的自然(現実に生起した自然)」を峻別し、前者こそが神の本質だという(三度、これもアリストテレスの可能態と現実態に相似する)。この能産的自然のもつ人間に認識可能な二つの「属性」、すなわち「思惟(精神)」と「延長(物体)」が人間に表出したものを「様態」と呼んでいる。個々の事象は神の属性が様態として現れたものに過ぎないというわけだ。
 この辺りを見ても、スピノザのいう「神」が一神教的な人格を伴う神とはかけ離れた存在であり(本書ではなぜか言及が注意深く避けられているようだが)「汎神論」という言葉で表現されるより広範な対象を表象する概念であることがよくわかる。付録のロベール・ミスライとの往復書簡でも議論されているが、これを「無神論」と呼ぶか否かは個人的には皮相的な問題でしかないように思う。むしろ、一神教が完全にデファクトスタンダードだった時代に、このように斬新な「神」を提唱したスピノザのトリックスターぶりに驚かされる。
 さらに嘆息すべきはスピノザの身体知に関する洞察力である。生命に共通の原動力「コナトゥス」に基づき、生命は進歩、成長してより完全な存在に至ろうと努める。その過程では、外界からの刺激(アフェクティオ)がコナトゥスに促進的にも阻害的にも作用する。このアフェクティオが喜びや悲しみといった感情/情動(アフェクトゥス)を惹起し精神に影響するため、理性で刺激との出会いを制御しより大きな完全性を指向することが可能になる、というのだ。これは本書でも触れられているアントニオ・ダマシオのソマティックマーカー仮説をはじめとする理性/感情一元論の概説と言ってもいいくらいで、これをfMRIも何もない時代に直観したスピノザはまさに天才だと思う。
 ただ、プラトニズムやデカルト的二元論からスピノザが完全に自由であったかと言えば、そうではないような気もする。例えば主観の表象により歪められた「第一種の認識」の裏に、理性により認識されるべきすべての人の共通概念である「第二種の認識」があるという考え方には、プラトニズムと似たような匂いを感じてしまう。また、「受動的」で不適切な情動を理性で「能動的」で適切な情動に変換せよというが、受動と能動を区別する我々の能力は本当に信頼に足るものなのだろうか。これを理性でコントロールせよというのは、デカルトと同じように理性=意識の座を人間の精神内部に定めることと、本質的に違いはないのではないのだろうか。

 考えさせられたのは、スピノザが政教分離と軌を一にして主張する「内面の自由」と、神により全てが決定されているとする「機械的決定論」の折り合いをつけるくだり。真の自由は「唯一の実体」たる神しか持ちえず、人間が持ちえるのは自身の動機(「個別的本質」=神の属性の様態)について自覚的である時にのみ持つことができる「第二段階の自由」だというのだ。自らの動機を宇宙全体と同期させた時のみ自由になれる、ということだが、しかしこれはもはや自由と呼べるものなのだろうか。個人的には、公共の福祉を個人の自由に前置したことや、全ての公理の起点に唯一実体を置いたのと同じく、「神即自然」を絶対視するスピノザの心性のあらわれであると見たほうが自然なような気がする。

 全般的に、スピノザの哲学が「正しいもの」ではなく「善きもの」を追求したそれであることが極めて明瞭に示されており、その論理の展開も一貫しており読みやすい。また前半でスピノザを論ずるにあたり避けることのできない宗教/世俗との関わり、特にスピノザが個人的に経験した宗教的孤立と世俗的挫折に触れており、読むものを惹き込む力を持った良書だと思う。「エチカ」の「QED(証明終)」連発に面くらい途中で放り投げた経験のある僕だが、著者の狙い通り再び「エチカ」にトライしてみようという気になった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2020年8月11日
読了日 : 2020年8月10日
本棚登録日 : 2020年8月10日

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