偉大なる時のモザイク

  • 未知谷 (2016年4月1日発売)
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まず構成。この小説「偉大なる時のモザイク」は4部構成。「すべてのはじまり」、「偉大なる時のモザイク」、「最後の影」、「終りのあと」。といっても、「偉大なる時のモザイク」(2部目)が全体の9割。
で、読み始めるのだが、物語はアントニオ・ダミスの語りから始まる。

 風に向かって、炎に包まれた村のことを話していた。男たち女たち子供たちが、焼け落ちる村から逃げだしてくる。誰もが、俺たちと同じ名を持ち、俺たちと同じ言葉を話している。輝きを放つ眼差しさえもが、俺たちのものとそっくりで、けれど当然、俺たちの瞳にはない大きな恐れに満たされている。
(p8)

状況は、南イタリアのアルバレッシュ(アルバニアから15世紀以来移民してきた人々)の村ホラ…アバーテの創造した村…で、アントニオ・ダミスが軽トラに乗って移動する前、何かを話している。どうやら彼はこのままアルバニアへ渡って何かを探すらしい。恐らく、彼らホラの人々が逃げだしたその村へ。
このp8の文は、アルバニアから南イタリアへ渡る時の描写なのだろう。たぶん、作品最後と呼応しているのだろう。
一方、この時期(ダミスが話している時期)、アルバニアからまた移民が来だしている。
そして、また一方、ダミスの企てを快く思っていない誰かが、脅迫状をダミスに送り付け、そしてこの軽トラに細工し事故を起こさせる(運転手や他の乗客数名も乗っていた)…と少なくともダミスは思っている(この抗争のモティーフは「二つの海のあいだに」でも使われていた、アバーテの基本モティーフなのだろう)。

…というダミスの話は、実は次の「モザイクの工房にて」のゴヤーリ(「金の口」という意味のニックネーム、ゴヤーリは自身がアルバニアから移民してきた…けれどイタリア語もアルバレッシュ語もうまく話す)が語っている話だった…外枠だらけだな…たぶんゴヤーリが今話しながら作っているのが「偉大なる時」というモザイク画なのだろう、と今は踏む。一方聞き手は若者たち。そこに語り手(たぶんこれまた推測だが、作者アバーテに近い人物)とその父がいる。ゴヤーリがこのダミスの話をするのは初めて(普段もその名の通りいろいろ話をする人物なのだが)で、そしてその話に対し、語り手の父は異常に反発する。

 このモザイクは俺の魂を奪おうとする。たぶん、これはいつまでも完成しないだろうな
(p19)

モザイクは作家アバーテにとっては物語。その物語がモザイク構造となっていて、そのモザイクはいつまでも完成しない。アバーテにとっての物語もそうなのだろう。ホラというアルバレッシュの架空の村の連作を書き続けるのはそうした思いからだろう、と感じた。
続いて聞き手たちが工房から出てきたところから。

 僕らは全員、六月の生ぬるい空気のなかへ歩を進め、それまで呼吸をとめていたみたいに、肺の奥までいっぱいに息を吸った。広場に人影はなかった。クリキの方から、子供たちの一団の叫び声が聞こえてきた。イカをして遊んでいるのだとすぐに分かった。鬼の目から逃れるため、あちこちの壁の背後に身を隠しているところだった。やんちゃ坊主どもの喚き声は、旅立ちを控えた燕のさえずりのように、夕暮れ時の空に響きわたっていた。
(p23)

太古の声が誰もいない村の広場に響いているみたいな印象的な場面。イカというのは、アルバレッシュ風鬼ごっこ(クリキは場所か建物の名前だろう)。何かから身を潜めるため、あちこちの壁に隠れているその図は、「偉大なる時」というゴヤーリのモザイク画にも、そして「偉大なる時のモザイク」というこの作品にも当てはまる図式なのだろう。
この後、一人の娘がホラを訪れてくる。語り手は、ゴヤーリがこの娘の来訪を知っていたはずだ、と考えている。

 電話か手紙で、あらかじめアントニオ・ダミスから知らされていたのだろう。ひょっとしたら、アントニオ・ダミスが夢枕に立って。ゴヤーリにその知らせを届けたのかもしれない。浮かばれない死者の魂や、死の床にある人物は、遠く離れた親しい人への郷愁に駆りたてられ、しばしば夢のなかに姿を現す。二度と会えないだろう相手に、せめて夢のなかで会おうとするから。
(p24)

…ここに引用した文章の最初の一文では、なるほどと読んでいく。ところが、そこから続く文章はアントニオ・ダミスが死んでいるか、生死の境にいることになっている…あれ、先のダミスの話ではあの事故では誰も死んでいないことになっているのだが…この場面がゴヤーリの創作?あるいは、この後ダミスが殺されたのか?
と適度な謎を入れつつ物語が進むいい展開。でも、まだ第一部「すべてのはじまり」…
(2024 01/03)

 「今日まで生きてこられたことを、わたしたちはジャン・ヤニ・パガゾルに感謝しなければならない。生きているだけではない。そう、わたしたちは自由なのだ。大切なのはこのことだ。わたしたちは誰なのか、わたしたちはどこから来たのか、その記憶を失わずにいるかぎり、これまでも、この先も、わたしたちが道に迷うことはけっしてない」
(p33)

第1部第3章「逃亡」…ここは、15世紀アルバニアから南イタリアカラブリアへ、逃亡していった人々を語る。最後の文はそのまま第1章のアントニオ・ダミスの台詞になっているから、この第3章はアントニオ・ダミスの語り…かと思いきやそうでもない、何故ならこの後で「アントニオ・ダミスは…」とかいう言葉が出てくるので。
さて、p33の上記の引用の言葉を喋っているのはヂィミトリ・ダミス。パパスと呼ばれる正教会の聖職者。ジャン・ヤニ・パガゾルというのは聖ヨハネのイコン。ここは、ヂィミトリが(ここに村を建てるという彼の言葉を聞いて、故郷の村には戻れないといよいよ悟った)一緒に逃亡した仲間に、そしてアントニオ・ダミスがアルバニアに出発することを村人に、言い聞かせているのだろう。そう、ダミス一族(実は第2章のゴヤーリもその一人)はこのヂィミトリに遡る。最も多くの人は村の外へ出ていっているらしいが。
というわけで、第1部「すべてのはじまり」読み終え。前回読んだ時より少しは前に進んだ。それぞれの章が、それぞれの話の層の「はじまり」になっている文字通りの部。
(2024 01/04)

第2部の1章では、アントニオ・ダミスの娘のラウラとその息子がホラにやってきた。これ以降、ラウラと語り手の青年(大学卒業して夏の間にパーティを開く。秋に職探し始めるまでの最後の夏、らしい)の掛け合いが始まる。第1部でも出てきたゴヤーリに対する語り手の父の反発はまだ続いている。これも謎だが、ラウラの家の隣のツァ・マウレリアという老婆(この人もなかなか楽しそうだが)の娘の一人、ロザルバという人物、家から一歩も出ないで、浴室で石鹸の泡とずっと戯れているというかなり謎めいた人物。本のカバー袖の登場人物簡易一覧に名前出ていることもあるし、意外に重要人物?
謎も多いが、解かれた謎もあって、第1部最初のアントニオ・ダミスの後日談が第2部第3章で語られる(語るのはもちろんゴヤーリ)。ダミスは再びアルバニアに向けて旅立つ。今度は列車で、また恐喝の手紙を持って…

 それはホラと、じきに僕たちを呑みこんでいくだろう別の土地のあいだで、絶え間なく揺れ動き続ける生だった。ひとりはミラノ、ひとりはドイツ、またひとりはヴェネトへと去っていく。
(p69)

ここはやはり「ふたつの海のあいだで」を思い出してしまう。「偉大なる時のモザイク」は「ふたつの海のあいだで」の前史でもあるわけだ。

 はじめのうち、村人たちは熱をこめてアルバニア人を歓待した。けれどその熱は次第に薄れ、やがておたがいへの興味が尽きると、疑り深い冷ややかさが村を覆った。夕方、アルバニア人たちは広場をぶらつき、寄る辺ない眼差しであたりをぼんやり見まわしていた。外国に移住した経験のあるホラの多くの村人は、この眼差しをよく知っていた。
(p75)

1990年、アルバニアから亡命してきて人達の一団。時と場が変われば、自分達があの眼差しをしているだろう、とここの住人は交換可能性を考えている。ちなみに、この時最後までホラに残ったアルバニア人がゴヤーリ。
(2024 01/09)

モザイク職人ゴヤーリと、それに反発する語り手ミケーレの父。父の反発は、ゴヤーリ自身というよりアントニオ・ダミスに向けてらしい。彼のいうところによると、昔からダミス一族が「教会建てるため」に村人から預かった財産を、アントニオ・ダミスは掘り出して、そしてアルバニアへ向かった。踊り子ドリタに一目惚れし、元々の婚約者と無理やり別れて…そして、この婚約者が(やはり)ロザルバ。
父が言うには、アントニオ・ダミスを殺したい人はこの村に相当多いのだそう。あの脅迫手紙もその筋から?
(2024 01/11)

まずは「海と山のオムレツ」(新潮クレストブックス…ちなみにこれは未読)も出しているアバーテの面目躍如、というかお腹が空いてくる文章を二つ。大学卒業記念パーティーの招待をしに家々を回っているところから。

 僕はほうけた目つきで人々の顔を見つめていた。僕らの土地では「クラチ」という、中に穴の空いた柔らかいパンをよく食べる。あの日に訪ねた人たちの顔は、クラチみたいに丸くておいしそうだった。
(p88)

別のところ(p94)では、サルデッラ(イワシの稚魚と唐辛子を混ぜてペースト状にしたもの)を挟んで食べるともある…
続いてはツァ・マウレリア(ロザルバの母)が語り手を家まで連れて行き、そこで語り手の母親と話す箇所から。父親は今までも出てきたが、母親出てくるの初かも。

 何を言っているのか分からなかったけれど、二人ともなんだか楽しそうだった。あたりにはバジリコや唐辛子や大蒜や、たっぷりのオリーブオイルで炒められた焼き肉や生のトマトの匂いが充満していた。
(p92)

…「世界のキッチンから」はこれくらいにしておいて、この母親フィロメーナにも惹かれる。父親を立てておいてしかし村のことは一番よくわかっているような実直な女性。父親とその仲間(アントニオ・ダミス含む)のことをよく知っていて遠目に見ていながら、息子(語り手)が「(アントニオ・ダミスの)トラックの事故に、父さんも絡んでいたと思う?」という問いに対しては全面否定する(一読者としては、これまでの父親の描写から今のところ「蚊の一匹、南京虫の一匹にも悪さできない」とは思えないのだけど)。
このあと、語り手は村のヴァシャリア地区を通る。ここはどんな地区? 小さな円形広場で低い壁に年配のゾニァたち(老婆たち)が腰掛けて「ずいぶん久しぶりだな」と声をかける。前日にパーティー招待のために家々回ったとか言ってたけど、このヴァシャリア地区というのは例外的なのか。アルバレッシュの村の構造がまだわからないけれど、意外と複雑らしい。

続いては「ヤニ・ティスタとリヴェタの旅立ち」。物語3つの層の最古層。ヤニ・ティスタは始まりのパパス、ヅィミトリの息子、リヴェタは老臣。彼らはアルバニア(この当時1499年はアルベリア)に戻ってトルコの侵攻に対抗しようとしていた。ただし、英雄スカンデルベグは既に亡く、スカンデルベグの孫を頭領にした反乱軍に加わろうとしていた。ヂィミトリは反対するが、もう説得は諦めている。
さて、この章では、物語の核となる思想が出てくる。

 旅立ちが秘める悪意を、彼はまだ知らなかった。旅立ちの眼差しは刃物のように鋭利で、抗いがたく蠱惑的だった。この眼差しは誰にも気づかれないうちに、旅人があとにしてきたあらゆる橋を切り落とし、吹雪のごとくにその足跡を消し去ってしまうのだった。
(p103)

 ゴヤーリの物語は、目を凝らして見れば分かるとおり、海の底に沈む財宝のように僕らの内側に埋まっているから。ゴヤーリの声と巧みな手さばきが、その財宝を海面に浮かびあがらせる。その物語を無視するか、気の向くままに役立てるかは、僕たちにかかっている。ゴヤーリは「現在」を、「まやかしとごまかしの時」と呼んでいた。けれど、たとえそうであったとしても、それは僕たちの生きる「時」にほかならないのだ。
(p105)

アバーテの「待つ幸福」という、アバーテの祖父の体験を基にした作品には、アウグスティヌス「告白」からの省察がエピグラフに引かれている。

 「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。
(p312 訳は山田晶、中公文庫)

「未来」への眼差しは旅立ちの眼差し。ゴヤーリの語りから海面に上がってくる財宝は記憶。そして、それぞれの直観によって現在を生きる。この構造が物語を動かす。
(2024 01/13)

一日開いて今日は第10章「アルバニアへ」、第11章「ブリュッセルにて」、第12章「重なり合う影」。
第10、11章はアントニオ・ダミスのパート。イタリア観光客のアルバニアツアーに参加したダミスは、ティラナ滞在中にドリタの舞踏団がブリュッセル滞在中であることを知る。そしてホラに戻ってすぐブリュッセルへ。ドリタは舞踏団を抜け出しオランダにダミスと一緒に行くことになる。「亡命」ではなく「誘拐」ということにして(の方が、残された家族への害が少ないらしい)。個人的には、アルバニアツアー(まだエンヴェル・ホヂャがいた頃)の描写が非常に興味深い。バーリからドゥブロヴニクまで船でそこからバスでドゥラスへ(アルバニアには当時大型船が入れる港がなかった)。国境保安検査で「プレイボーイ」没収くらいならわかるが、その場で床屋が髭を剃るというのは想像できない。ドゥラスの海水浴場はイタリアからの観光客用と、地元アルバニア人用のとでかっちり分かれているとか。昔アルバニアで戦ったことのある老人(カダレ「死者の軍隊の将軍」思い出す)が昔思い出しつつ散歩に出かけたら、パトカー3台集まる騒ぎになったり。一方、アルバニア人は平気で道の真ん中に座っている(車自体が珍しい?…)。

第12章は語り手ミケーレパート。ピッツェリアでラウラとゼフを見かけるが、暗くなってもゼフが見当たらない。結局、ミケーレが木の上にいるゼフを見つけたのだが…

 まだ小さかったころ、祖母の菜園に生える大きなアーモンドの木の下に、僕はよく隠れていた。誰も僕を見つけられず、けっきょく最後は、自分で木を降りて出ていったものだった。
(p131)

前に挙げたp23の文と合わせ、この小説にはぽつぽつ隠れんぼのテーマが現れるのだが…小説全体では何が隠れているのかな。
章の最後はラウラとゼフと一緒に歩くというミケーレにとっては最高の展開になる。家まで来てラウラとキスまでする。とそこでラウラは「そのじゃまくさい髭、剃ってみたら? その方が男前になると思うけど」とまで言う。ここはひょっとして第10章でアルバニア保安検査で剃られてダミスの髭と呼応している? 章最後は、あのロザルバがミケーレにカーネーションを贈るという新たな展開。
(2024 01/15)

今日も3章分。第13章「カーネーションと濡れそぼつ髪」、第14章「アッティリオ・ヴェルサーチェ先生の証言」、第15章「ひとつめのホラをめざして」。
新たな登場人物としてアッティリオ・ヴェルサーチェ先生というのが出てくる。昔村長を2期勤めたこともある学校の先生、かつ詩集も出しているという。この先生が村長の時期、アントニオ・ダミスが書記やっていて、村の事業(それが具体的に何かは何故か示されない)の事前入札(という言葉で合ってる?)を脅しで得ようとしたところをダミスが断る。どうやら、数々のダミスへの脅迫はこの時の「筋」だったらしい。一応設定としては、父親ダミスのことを聞きたいラウラだけに話しているのだが、庭で遊びに付き合っている語り手ミケーレも全て聞いている。設定無理ある…とかは言わないでおこう…

第15章はアルバニアに渡ったヤニ・ティスタとリヴェタの足取り。これもどうやってわかったのか(ゴヤーリの父が話してくれたと、ゴヤーリはいうのだが)…
昔の湖のほとりのホラに着いたのだが、村は廃墟に。通りがかった老人に聞くと、生き残った僅かな人々は、湖の反対側に村を作ったという…その村に入って歓迎受けるが、オスマン帝国の追手が来てヤニ・ティスタとリヴェタは村の広場で残酷なやり方で殺されてしまう。この場面で引くのは、彼ら二人が新しい村に入る時、最初に目についたのが、子供たちの隠れんぼイカ。第1部のイタリアのイカと、ここのアルバニアのイカが呼応する。こうなると最後付近にもう一度このイカが出てくる予感…
(2024 01/16)

今日も3章、第16章「ヤニ・ティスタを待ちながら」、第17章「卒業パーティー」、第18章「ホラとアムステルダム、そして帰郷」
真ん中に語り手ミケーレの卒業パーティーを挟んで。イタリアの田舎町では大学卒業するだけで村総出のパーティーするのか…とそれだけで興味深いが、その章で特に印象深かったのは、ラウラとゼフを(例によって)送った時に見たロザルバの姿と、そこから家に帰った時の父とゴヤーリ。この二人って仲悪かったのでは、と親密に何かを話している二人が意外だったのは、読者だけでなく、ミケーレ自身もそうだったらしい。
その前の章では、また「世界のキッチンから」。母親が用意した「とびきり辛い白いんげんのソースのパスタ(それも手打ち)…しかしラウラのことで頭いっぱいのミケーレはすぐ出かけて、父はこれが嫌いなのだそう…気になる…
パーティーの後の、ラウラとの話し合い。アントニオ・ダミスがもうすぐ来る? ラウラに「ホラとアムステルダム、どちらが好き?」と聞いたらアムステルダムと即答(笑)。
ラウラが語る、アムステルダムでのアントニオ。アルバレッシュ、アルバニア語、オランダ語、イタリア語(カラブリア方言?)が飛び交う環境。ところが、アントニオの父ニコラの訃報を知らされる。アントニオは一人帰郷を決意する。
(ラウラは母とともにアムステルダムにいたのだが、語り手ミケーレはこの時どこにいたのか。仮にラウラと同年代だとすれば10歳くらい。その記憶はあると思うのだが)

 天気はすぐれなかった。二つか三つの黒い雲が海の上を流れ、油の染みのように広がっていた。彼は強く息を吸った。湿った空気が、林から漂ってくる腐った葉の匂いをいっぱいに孕んでいた。ちょうどそのとき、空一面が暗くなり、わずかに雨が降りはじめた。
(p181)

アバーテの文章力は食べ物だけではない(笑)。細やかな自然描写もそそられる。そしてこの後、また例によって何者かに銃で狙われる。
(これ、アントニオはあとで家に帰って家族に話して、それを今ラウラが語っているという設定なんだよね。結構描写が細かいが…それとも、誰が語っているか、どの時点で話しているか、などの設定は気にせず、モザイク画のように、全ての主題を同一平面上に同じ大きさで描くからそれを楽しめ、ということだろうか)
(最初、読む前のこの本の印象は、南イタリアのアルバニア移民の村を、神話的に重層的に語る…と思っていたけれど、結構青春の甘酸っぱい物語要素が予想以上に強い…)
(2024 01/18)

実は今日は2章分のみ。
第19章「〈ベサ〉と黄金の短剣」、第20章「財宝を守る者」

 ホラ・ヨネは氷山のようなものだ。半分は海面から顔を出し、陽の光に照らされている。しかしもう半分は暗がりのなかに、俺たちの中に沈んでいる。
(p187)

氷山の海面上の体積は、海面下を含めた氷山全体の1/7くらいだ、と何かの本で読んだが…
前回の「世界のキッチンから」で出てきた、白いんげんのソースのパスタ…シュトリヅァラトが出てくる。でも特に父も嫌がってはいない印象。ポルペッタはいつも多量…
後半の章では、またイカが出てくる。始まりのパパスの孫とその息子は、この土地の領主サンタ・ヴェンネラ候のところに向かった。その邸宅の前で、(別行動の息子を置いて交渉をして戻ってきた時に)息子が周囲の子供たちとイカが出てくる。
イカの次の出番はラスト付近、という読みは外れ…これからイカ(出現)濃度が上がるのか。
(2024 01/19)

今日は何とか3章。「いやな夢とほんとうになった夢」、「パオロ・カンドレーヴァの証言」、「傷」。
母親にラウラと付き合わない方がいいと暗に夢の話で諭されたり、パオロ・カンドレーヴァという父とアントニオの元友人に昔話されたり、ゴヤーリのモザイク工房が襲撃されたり。どちらかというとあんまり良くないことが続いている期間だけど、ミケーレはラウラと毎晩過ごすようになっている(そいえば、ゼフの父親って誰?)。というどちらが表でどちらが裏かわからない展開に。

 これはアントニオ・ダミスとゴヤーリのお遊戯なんだ。お前は自分でも気づかないうちに、遊びの駒にされてるんだぞ
(p215)

これは、パオロ・カンドレーヴァの言葉。この人物は父とはずっと仲良しだが、ミケーレ自身とはほとんど口をきいたことがない、という設定。こういう田舎の村でそういう設定の間柄は無理あるようにも思えるが、それはともかく、前の章の母親の夢の話に引き続き村の人側の忠告。物語の書き方、及び読者の受け取り方はかなりラウラ-アントニオ側に偏っているように思えるが、作品最後の着地点が「アントニオの勝ち、村人(特に父親)の負け」というようまではならないと思う…どこに着地するのか。

 あなたがホラを知らないとは言ってない。でもあなたは、見えているはずのものを見ようとしないの。これは眼差しの問題なのよ。あなたに分かってもらえるか、わたしには分からないけど
(p220-221)

こちらはラウラの言葉。やはりミケーレはラウラ側と村人側の狭間というか調停人の役割らしい。物語の筋の着地点がどうであれ、これから進む村の姿はミケーレに投影されるのだろう。
この、ラウラ側と村人側という構図。どこに違いがあるのか考えてみると、ラウラ側(アントニオ、ゴヤーリ…)は移住(出稼ぎ以上の居住地を完全に変える意味での)者、村人は定住者。その意味でもミケーレはその中間で今は佇んでいる時期。ミケーレの友人、ゴヤーリのモザイク工房で話聞いてるコジモとかエマヌエーレとかはどうだろう、彼らもその位置にいるのだろうか。
(2024 01/20)

「美しきロッザニーザ」、「ドンナ・マルタの証言」は昨夜寝る前に、その後は、今日読んでなんとか1月中に読み終わり。

 誰にとっても、時は同じように過ぎていく。富める者も、貧しき者も、子供も、老人も、時の流れからは逃れられない。
(p227)

この文の少し前に、また「イカ」が出てくる。(読み終わった今思えば隠れていたのは「風の影」(死)であるとも思う)。逃れられないけれど、その外部に何かを残すことはたぶんできる。

 ホラではその後、こうした物語のすべてが、不信の火種となりくすぶりつづけた。果たされなかった約束が引き起こす、憎しみの薄片だった。遠い過去、霞がかる太古の時、ある者はそれを「モティ・イ・マヅ」、偉大なる時と呼ぶ。
(p232)

パパス、ジャンバッティスタとその妻エレオノーラ(ロッザニーザ…ロッサーノから来た娘)。ロッザニーザは終始カトリックだったが、ホラのアルバレッシュ共同体では正教の慣習を守った。作者アバーテにとって、このよそ者との混淆が重要なテーマ。
さて「偉大なる時」という作品タイトルがここで出てくる(前にも出てきていた気も)。何か昔の共同記憶が村の人々の奥底に埋没しているイメージかな。普段は表面化しないが、何かのきっかけで…

今日読んだところでは、「海を前にしての叫び」や、第3部(この第3部の章名は実は第1部の章名が逆順で出てくる)の「逃走」などでは、1990年からのアルバニアからの難民事情が、史実とともに語られる(ティラナの大使館立て篭もりや、南イタリアバーリのスタジアムでの難民キャンプ上のヘリでのパンばら撒きなど)。「海を前にしての叫び」は海水浴に行った語り手、ラウラ、ゼフ、そのゼフが泳げないのを無理やり海に入れようとして、ゼフに絶叫させられる。ゼフとその両親(実はドリタの弟夫妻)が難民ボードで遭難しゼフだけ助かるという過去があった(ちょっとアトウッド「またの名をグレイス」の母親の死も思い出す)。

 かつてと今のあいだには、記憶の空白が横たわっているのかもしれない。なら俺たちには、その空白を埋める義務がある。物語の震えを感じて、前に進む責務がある。
(p256)

先のp232の文と共通する文章の後で、こう続ける。先のジャンバッティスタのパパスの後、よそから派遣されたパパスが来て、それ以降どんどん周りのカトリック寄りになっていく。ここで「空白」と言われているのは、こうした語られなくなった時間なのだろうか。
さて、物語はついにアントニオ・ダミスが妻ドリタと共に帰郷してくる。前に出てきたパオロ・カンドレーヴァのように強硬な人もいるが(そういえば、ミケーレの父親はどうだったのだろう、特に表の筋には出てこなかったが)、だいたいは表面的には穏便に村人に迎え入れられる。そこでダミスはあの教会で見つけていた財宝を村長に引き渡す。ただ、そこには前にあったスカンデルベグの短剣だけがなかった。
こうして続く一見平穏な帰郷の日々。ダミス夫妻、ミケーレ、ラウラ、ゼフでまた海水浴に行く。平穏な日々は、ゼフにも影響したのか、あれだけ怖かった海に少しずつ慣れてきている。一方、ミケーレはダミスを眺めている。ダミスはこの平穏がいつか終わりを迎えることを知っていたようだ。

 彼はまばたきを繰り返していた。瞳を閉じ、すぐにまた開き、太陽の光に満ちた光景を何度も網膜に焼きつけていた。そんな彼を見て、僕は小さな子供を思い浮かべた。その少年は暗闇を恐れている。けれど同時に、それに惹きつけられている。光から闇への移り変わりは、果てしのない、謎に満ちた夜空に浮かぶ、星々の瞬きのように思えるから。
(p291)

この少年はアントニオ・ダミスだけではない。おそらくミケーレ自身も、そしておそらく作者アバーテ自身も、そんな少年なのだろう。だからこうして物語を紡ぐ。
…こんな平穏の終焉は、やはりアントニオ・ダミスの死で幕を閉じる。ダミスの旨に、見つからなかったスカンデルベグの短剣が刺さっていたのだ。そして、ロザルバが浴槽で自殺しているのも見つかる。
…読んでいる自分は、アントニオ・ダミスを殺害しようとした(今まで出てきた軽トラ事故や銃で狙われるなどは、おそらく違う、脅迫グループの仕業だろうと思うけれど)人物とは、ミケーレの父親(前半でミケーレの母親に否定されているが)かロザルバかどっちかしかないだろうと思っていた。こうしてロザルバがダミスを殺して自死した…と思いきやそうではなかったらしい。順番は逆で、ロザルバが自死した後、ダミスが殺されたのだった。では誰が?ロザルバの母、ツァ・マウレリアだったという…
p292から294のその時の描写によると、一回目のダミス殺害は、一緒にいたゼフの眼を見て遂げられなかった。ここで殺そうとしていたのはやはりロザルバ。しかしゼフの眼によって諦めて手紙を郵便受けに入れて帰宅し自死する。それを見つけたツァ・マウレリアが娘の意思を引き継いだという。語り手ミケーレが偶然見かけた、ゼフと遊ぶロザルバの場面など、ロザルバの閉ざされた心を引き出しかけたゼフがこうした展開を生んだ(でも、それだとツァ・マウレリアでも事情は同じという気もするが)わけで、p252でゴヤーリが言っていたように、ゼフは「この物語をよく知っている」…

 輝く灰の最後のひとつかみを、ラウラが風のなかに撒いた。指先を這う迷路のような線のあいだに、灰の粒が奥深くはまりこむまで、僕は指をこすり続けていた。
(p301)

灰は亡くなったアントニオ・ダミス。最後はやはり風…
解説からも一箇所。

 わたしたちの知覚する世界は、母語とは異なる言語の学習をとおして、複数の言語に「汚染」されていく。アバーテの文学は、そうした「汚染-混淆」に彩られている。心の言語とパンの言語がさまざまに絡まり合い、織り合わされ、色とりどりの「言葉のモザイク」が生みだされている。
(p312)

他のアバーテ作品でも、もっとこの「汚染-混淆」文体があるという。混淆の例文があげられている「帰郷の祭り」とか、アバーテの祖父がアメリカへ渡った体験の作品「待つ幸福」など他も読みたくなってきたけど、翻訳どうなのかな。
…アルバニア事情については、「アルバニアインターナショナル」の井浦氏に。そして表紙はみやこうせい氏の撮影したアルバニアの遺跡の写真らしい。
(2024 01/23)

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2024年3月3日
読了日 : 2024年1月23日
本棚登録日 : 2023年8月6日

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