十牛図入門: 「新しい自分」への道 (幻冬舎新書 よ 2-1)

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  • 幻冬舎 (2008年3月1日発売)
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禅の教えを伝えるものとして、「十牛図(じゅうぎゅうず)」というものがあります。
 とても印象的な連続した絵なので、どこかでお目にかかった方も多いかと思いますが、牧人が牛を探している「尋牛(じんぎゅう)」という場面から始まり、牛の足跡を見つける「見跡(けんせき)」。そしてその足跡を辿っていって、尻尾を垂らした牛の後姿を発見し(見牛(けんぎゅう))、そしてその牛を何とか無理矢理にでも手中に納め(得牛(とくぎゅう))、次に牛を手なづけて自由自在に操ります(牧牛(ぼくぎゅう)。牛と一体化するほどになった後は、牛の背中に乗っかって家に帰ります(騎牛帰家(とくぎゅうか))。牛と牧人が一体化すると、もうそこには何もわだかまりがなくなったかのような、真っ白い図が、人牛倶忘(にんぎゅうくぼう)。真っ白になった後に、周りの自然の姿に改めて気づき、その自然をいとおしむかのような、自然の姿を現した返本還源(へんぽんげんげん)。そして最後はまちへ出て行く入障ミ垂手(にってんすいしゅ)。
 今言葉で長々と説明しましたが、これは絵を見て瞑想するものなので、言葉であれこれ説明してもなかなか伝わるものではありません。禅の境地を絵で表したものですから、それは当然なことです。私はこの十牛図を長年不思議に感じ、いつか解説書を読んでおきたいと思っていました。先日ふらっと本屋さんに行きましたら、この本が平積みされておりました。まるで牧人が牛の尻尾を見つけたときのように、「お!」と何かが閃きました。すぐに手に取りぱらぱらとめくり、これはいいなぁと即購入しました。難しく敷居の高い禅の用語をわかりやすく解説しており、そして本書のテーマである十牛図も、十分な解説があります。
 筆者の横山紘一氏は、それぞれ丸い十牛図を、さらに円のように並べて、「観想十牛図」というものを発案したそうで、その写真も出ています。なるほどこれなら見ているだけで何か心持が整理されそうだなと感じます。

 私が感じますに、禅というものは、どこか山深いところで瞑想をするものではなく、常に自分がいるところで行われるものだと思います。それは自分の仕事を通してであったり、自分の家庭を通してであったり、自分が接する社会や人々のつながりの中で、普通に淡々と行われるもので、特別なことではないと思います。
 私はかつて(ついこの間まで・・・)、修験道というものをやっておりました。滝に入ったり、山行をしたり、各地の山へ出向いては門を叩いて参加したことがあります。マイ法螺貝も持っていたりします。しかし、今年に入り様々な心の変化がおきまして、修験道を辞めることにしました。20歳との時から滝に入り、今年の6月まで約18年間やっていまし、一時はこの道だけにしようかと思ったくらいです。辞めることに怖さもありますし、敗北感も感じたりもしました。
 しかし、日常生活にあることアタリマエのことに気づくこと、そしてそこに感謝することをしなくては、山で修行しても仕方がありません。日常生活をきっちりこなせない人間が、山でいくら修行しても、里へ戻ってくれば何の役にも立たないと思うに至りました。メーテルリンクの『青い鳥』のように、戻ってきたのは再び“自分”でした。遠回りをしましたが、自分探しの大きな旅であり、それはそれで大きな収穫であったと思います。

 十牛図は“観ること”が大切だと思います。“観る”とは、“生活の中で観ること”に通じると思います。目に見えないものに触れようと、目をつぶって瞑想するのではなく、見える範囲から感謝していくことが、本当の瞑想であり、修行だと思うようになりました。こう感じましたら、鍼をすることがまた楽しくなり、患者様と接することが楽しく、そして、その結果、いい鍼が出来て、ようやく病態を回復するお手伝いを出来るようになってきたかな、と思う今日この頃です。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 東洋思想・東洋哲学・東洋史
感想投稿日 : 2010年5月13日
読了日 : 2010年5月13日
本棚登録日 : 2010年5月13日

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