人類は「宗教」に勝てるか 一神教文明の終焉 (NHKブックス)

著者 :
  • NHK出版 (2007年5月26日発売)
3.66
  • (7)
  • (10)
  • (17)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 127
感想 : 17
3

 過激なタイトルに目を引かれて手に取った本。著者は臨済宗の僧侶を経て渡米し、ハーバード大学神学部などに学んだ比較宗教学者だ。

 そうした経歴からもわかるとおり、これはリチャード・ドーキンスの『神は妄想である/宗教との決別』のような、無神論者による「反宗教本」ではない。
 著者は宗派を超えた「宗教性」と祈りのたいせつさを認めつつ、既成宗教、とくに一神教を批判する。

《俗に「色メガネで見る」という表現があるが、透明な光を独自の色メガネで見させようとしているのが、おおよその宗教ではなかろうか。ましてやその色メガネに度が入っていたりすれば、真っ直ぐなものも真っ直ぐに見えなくなってくる。私の宗教批判は、その色メガネに向けられているのであり、透明な光を否定するものではない。》

 「比較宗教学者として世界各地を飛び回るようになり、仏教やキリスト教以外の宗教にも、直接触れる機会を多くもつことになった」という著者の宗教体験の豊富さは、群を抜いている。本書は、著者のそうした経験をふまえた、評論色の濃いエッセイという趣の本である。
 著者が「ほかならぬ『宗教』こそが、人類最大の敵だ」と考えるに至ったさまざまな体験が、随所で紹介される。それらの体験はいずれもすこぶる興味深く、私はそこにこそ本書の価値を感じた。たとえば――。

《中東諸国を旅していると、ユダヤ教徒とイスラム教徒が、それぞれに相手を犯罪者のように語るのを耳にすることがある。日本人のわれわれの目からすれば、どちらも善良な人間のように思われるのだが、彼らの間に会話は成立しない。
 そういえば二○○七年、東京で開かれた外務省主催の「第五回イスラム世界と文明間の対話セミナー」の席上で、ここにイスラエル代表も招いて対話の糸口をもつべきだという私の提案に対して、ある著名なイスラム教徒作家がイスラエルについて、「存在しないものなどと対話などする気は毛頭ない。あの地域に存在しているのは、ただのホットエアー(熱気)にすぎない」と怒気を込めて反論したのには、驚かされた。》

 ただ、体験ではない著者の意見には、極論、過渡に情緒的で意味不明瞭な箇所、そして学者の言とは思えないトンデモ話が散見される。傾聴に値する卓見も多いが、首をかしげるくだりも多い。玉石混淆の一冊なのである。
 
 そもそも、「宗教こそが人類最大の敵」という本書のテーマ自体、極論そのものだ。
 宗教がときに平和の妨げになること、腐敗した聖職者も多いこと、独善に陥りやすいこと……などというマイナス面をもつのはたしかだが、そのマイナス面をもって既成宗教(の大部分)を全否定するのはいかがなものか。

 著者は教団などに生じやすいさまざまな組織悪をさかんにあげつらうのだが、組織悪があるなら「組織善」(という言葉はないが)もあるはずで、宗教組織そのものを頭から否定してしまうのは「角を矯めて牛を殺す」ことにならないか。
 
 著者は「無神教」なるものを提唱している。「無神教」とは無神論のことではなく、人智を超えた存在への畏敬の念をもちつつ、既成の宗教団体には所属しない信仰のありようを指す(と、私は理解した)。
 
《私がいう無神教は、神仏の姿が消えてしまって、われわれの体内に入り込んでくることである。それは神仏を礼拝したり、論じたりすることもなく、神仏とともに生きていく生き方のことである。》

 まあ、オバマ大統領も就任演説で「この国はキリスト教徒とイスラム教徒と、ユダヤ教徒とヒンズー教徒と、そして信仰をもたない人たちが集まった国です」と述べたくらいだから、著者のいう「無神教」が“最大の世界宗教”となる日も遠くないかもしれない。いつの間にか無党派層が多数派になったように……。

 だが、教義も戒律も儀礼も組織もない、「宗教のオイシイとこ取り! メンドイところはすべて省略!」みたいな都合のいい“信仰”に、人を救う力などないと私は思う。

 トンデモ的記述の例も挙げておこう。

《地球は、つねに見返りのない〈愛〉で、地表にあるすべての生物を支えているのであり、片時も休むことなく自転しながら、太陽の周りを公転してくれている。そのおかげで昼夜の区別と四季の移り変わりがあり、われわれは、いつ息絶えてもおかしくない生命を今日も享受しているわけである。地球は「〈愛〉の生命体」であるどころか、祈りの心さえもっているのかもしれない。》

 ううむ……。安手のスピリチュアル本に出てきそうな言葉である。

 もう一つ挙げる。
 著者はジョン・レノンを、直観によって「無神教的コスモロジーの本質を一気につかみとった」人物として持ち上げ、「イマジン」を「無神教的コスモロジーのテーマソング」だとしている。そこまではまあよいのだが、つづけてこんなことを書いている。

《ありもしない国や宗教のために、何千年もの間、殺し合いをやって来た人間の愚かさよ。もういい加減に、目を覚ましたらどうなのか。
 そういう呼びかけをストレートにしつづけていたジョン・レノンは、一九八○年、熱狂的ファンの凶弾に倒れた。当時、彼とオノ・ヨーコは、ベトナム戦争反対運動の先頭に立っていたから、ファンの仕業と見せかけて、彼を抹殺してしまいたかった勢力があったとしたら、それこそ恐ろしいことである。》

 1980年にはベトナム戦争はとうに終わっていたし、当時の米大統領は、「彼の下でCIAは極度に弱体化した」と評された「人権派」ジミー・カーターであった。学者なら、陰謀論レベルのいいかげんなことを書かないほうがいい。
 そもそも、かりに「イマジン」の歌詞のように国家も宗教もない世界がやってきたとして、その途端に人類が殺し合いをやめ、愚かでなくなるとは、私にはとても思えないのである。

 以前読んだ類書、安田喜憲の『一神教の闇』のほうが、私には面白かった。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宗教
感想投稿日 : 2019年4月12日
読了日 : 2009年3月17日
本棚登録日 : 2019年4月12日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする