反省させると犯罪者になります (新潮新書 520)

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  • 新潮社 (2013年5月17日発売)
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 人は、自分がされたことを、人にして返すものです。優しくされれば、人に優しくすることができます。冷たくされると、人に冷たくしたくなります。そう考えると、人を傷つける人は、自分自身が傷ついていると理解できます。自分自身が傷ついているから、自分自身を大切にできないのです。自分自身を大切にできないと、当然のことながら、他者も大切にできません。自分自身を大切にできず、自分の「心の痛み」に鈍感になっているから、他者の「心の痛み」にも気づけなくなります。和子が犯罪行為を重ね覚醒剤を使用したことにも罪悪感を抱かなくなっていった背景には、和子の心が長い時間かかって深く傷ついていった過程があるのです。

 こうしてみると、2つのケースとも、問題行動が出たときは、反省文を書かせるのではなく、受容的な対応をすれば、その後の子どもの人生は良い方向に向かうことが分かります。だからこそ、繰り返しになりますが、問題行動が出たときは「支援のチャンス」なのです。どこかで誰かが介入して、負の連鎖を断ち切らないといけません。

 どうしてこういうことになるのでしょうか。受刑者は、入所したときと出所したときでは考え方が変わっていないと書きましたこのことも問題ですが、さらに注目しないといけないことは、入所しているとき「まじめに務めていること」が受刑者の心に重大な影響を与えているのです(もちろんまじめにめないで、規則違反を連発し、仮をあきらめている受刑者も少なくありませんが)。まじめにめることは、自分の思いや感情を誰にも言わないで、抑圧することになります。それが長く続けば続くほど、抑圧は大きなものとなります。そうすると、彼らは抑圧している分だけ「パワーアップ」して出所していくと言うこともできます。出所した受刑者が大きな犯罪を起こす場合はこれに当てはまることが多いと思います。
 また、刑務官の評価を気にするだけでなく他の受刑者に心を開かない状態が続けば、社会に出ても常に他者の目を気にする人間になります。そうした態度は、容易に人間不信となり、人とうまく付き合って生きていく意欲を奪います。結果として、元受刑者は、社会で良好な人間関係をつくれず孤立してしまい、仕事を得たとしても、すぐに人間関係でつまずき、せっかく手にした職さえも辞めてしまいます。何十年も受刑生活をまじめに務めて、「二度と刑務所には戻ってこない」と固く誓った元受刑者が、金に困ってパンを1個盗み、刑務所に舞い戻ってくるという「悲劇」が現実に起きています。刑務所が「福祉の最後の受け皿」と揶揄されるのは、こうした問題が背景にあるのです。

 …なぜ受刑者は殺人など重大な事件を起こせるのでしょうか。殺人という行為は、言いかえれば、「他者を極めて大切にできない気持ちがあるからできること」と言えます。ではなぜ他者を大切にできないのか。それは自分自身を大切にできなくなっているからです。自分を大切にできない人間は他者を大切にすることなどできません。逆に言えば、自分を大切にできるからこそ、他者を大切にできるのです。
 次に考えないといけないことは、なぜ自分を大切にできなくなっているかという点です。自分を大切にできない理由は、自分自身が傷ついているからです。自分が傷ついていることに鈍感になっている場合もあります。自分の傷つきに麻痺していると考えてもいいでしょう。いずれにしても自分自身が傷ついているから、他者を傷つけられるのです。自分の心の傷に気づいていない受刑者が被害者の心の痛みなど理解できるはずがありません。彼らが被害者の心の痛みを理解するためには、自分自身がいかに傷ついていたのかを理解することが不可欠です。それが実感を伴って分かったとき、受刑者の心に自分が殺めてしまった相手の心情が自然と湧きあがってくるのです。そして、そのときこそはじめて真の反省への道を歩み出せるのです。幼少期に虐待を受けていた受刑者が私に言ったことがあります。「私は父親に殴られて育った。だから痛みには強いんですよ」と。私は「痛みに強いのではなくて、痛みに鈍感になっているのですよ」と返しました。受刑者はハッとしました。自分の痛みに鈍感になっている人間に、被害者の心の痛みを理解させることなどできません。自分の心の痛みを理解しそれを吐き出して、はじめて被害者の心の痛みが心から理解できるようになってくるのです。その逆はあり得ません。
 だから、受刑者の話をさかのぼって聞いていくことが必要なのです。どの時点で、受 刑者は寂しさや悲しみを持つようになったのか。 また、そうした感情をどのようにして 閉じ込めたのかをみていかないといけないのです。その作業は、過去を振り返ることに なるので、受刑者にとってはとても辛いものとなります。しかし本当に更生するためには避けて通れない道なのです。険しい道だけに、1人で歩いていくことはできません。支援者が寄り添うことによって、はじめて受刑者は過去の自分の心の傷に向き合えるのです。自分の心のなかにあった否定的感情を吐き出し、それを支援者に受け止められることによって、受刑者は、心の傷が癒され「大切にされる体験」をします。「大切にされた経験」に乏しかった受刑者が、支援者によって大切にされることによって、罪と向き合えるのです。したがって、支援者の存在は不可欠です。自分1人で過去の心の痛みに向き合うことはできません。
 問題行動が起きたとき、その直後に反省させることがいかにダメなことか。真の反省は、自分の心のなかにつまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみといった感情を吐き出せると自然と心のなかから芽生えてくるものです。自分の心の痛みを全部吐き出せた後に書けた反省文こそ、けっして表面的ではない、心の奥底から自然と湧きでてきた謝罪の言葉です。非行少年であれ受刑者であれ、問題行動を起こした者に対して支援するのであれば、反省をさせるのではなく、なぜ犯罪を起こすに至ったのかを探究していく姿勢で臨むことが、結果として彼らに真の立ち直りを促すのです。

 受刑者にとって、出所後に絶対にあってはならないことは再犯です。再犯しないためには、「二度と事件を起こしません」と固い決意をすることよりも固い決意も必要ですが、何より人に頼って生きていく生き方を身に付けることです。そのことだけでも理解できたら、再犯しない可能性が高まります。
 人に頼って生きていくことができれば、彼らは「人」の存在の重要性に気づくことが期待できます。そのとき、自分が殺害した被害者の「命の重み」にも思いが至ります。自分の生き方の問題に気づき、人に頼ることの大切さを実感できた受刑者は、出所後に自然と罪の意識が深まっていくのです。そして、真の「更生」への道は、刑務所内での刑務作業をりっぱに務めることではなく(社会的な罰を受ける意味では刑務作業は必要ですが)、出所後に待ち受けているのです。

 本章では、これまで受刑者の問題を取り上げてきましたが、受刑者の問題は普通に社会で暮らしている私たちの内面の問題とけっして無縁ではありません。すでに述べてきたように、受刑者は抑圧し我慢を繰り返し、最後に爆発しているのです。私たちは、爆発とまではいかなくとも、抑圧し我慢をする生き方をしていないでしょうか。少なくとも、「我慢すること」がいいことと思い込んでいないでしょうか。「1人で何でもやり抜くこと」が絶対に正しいと考えていないでしょうか。実は、当たり前だと思い込んでいる価値観が、私たちに生き辛さをもたらしている場合があるのです。

 確かに「我慢できること」「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観は、社会生活を送るうえでは必要なことです。ほとんどの者は、これらの価値観を何の疑いもなく「正しいもの」と受け入れているのではないでしょうか。
 しかしこれらの価値観は、子どもに大人にとっても)生き辛さを与える側面があることに気づいている人は少ないでしょう。「我慢できること」は、見方を変えれば、「自分の気持ちを出させないこと」になります。そうするとストレスがたまっていき、爆発(犯罪か心の病気を引き起こすことになります。
 また、我慢をすることは、「人に頼らない態度」を身に付けることになり、他者との間に良い人間関係を築けなくなります。人に頼らないということは、「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」という考え方に通じます。人に頼らないで弱音を吐かず1人で頑張ることを人は賞賛しがちですが、実は犯罪者のなかには人に頼らない生き方をしてきた結果、自分に無理をして強がって犯罪を起こした者が多くいます。本当は寂しくて苦しいのに、それを言うと「恥ずかしい」とか「格好悪い」と考えて、逆に強がって生きてきたのです。犯罪者になる人は、強い自分を見せることで、人に承認されていると考えます。したがって、弱い自分を出すことは「絶対に許されない」と思い込んでいます。そして、弱い自分を出すことで、人が離れていくと考えています。彼らの心の奥底には、人が自分から離れていくという恐怖感が常にあるのです。孤独になること、言いかえれば、愛されなくなることを最も恐れるのです。こうしてみると、犯罪者が抱く価値観は、それらが生まれる背景や表現の仕方こそ違えども、私たちが抱いている価値観と大差ないと言えます。
 人は皆、弱い生き物です。だからこそ、人は人に頼って生きていかないといけません。しかし、素直に自分の気持ちを表現することが不得手な人は、人に頼ることが苦手となります。そして、人は人に頼れなくなると、「モノ」に頼る、すなわち「依存」するようになります。本来なら「人」に頼ると「心」が満たされるので健康的になれるのに、それができないからモノで満たされない部分の「埋め合わせ」をしているのです。ある覚醒剤使用の受刑者が「人は離れていくけど、薬は逃げないですからね」と私に本音を言ったことがあります。人に裏切られた経験を持つ人がよく言う言葉です。

 私は、講演会などで子育てに関する話をするとき、「小さい子どもが大人の振る舞いをすることは大変危険です」と言います。そうならないための方法として、「両親が仲良くすること」を一番に挙げます。両親の価値観に多少偏りがあったとしても、仲が良ければ大丈夫です。両親が不仲であると、子どもは「自分が悪い子だから、お父さんとお母さんは仲が悪いんだ。いい子になろう」と考えます。子どもは常に親が気に入る態度を取ろうとして、大人の振る舞いをするのです。家が暗い雰囲気なので、無理して明るくしようとするかもしれません。子どもながらに「大人として」懸命の努力をするのです。その姿を見て、「小さいのに偉いね」と褒めてしまうと、後々に必ず大きな問題が起きます。昨日までまじめだったのに、突然非行に走るケースも珍しくありません。非行や心の病気という形で、一気に爆発する場合もあります。爆発に至らない場合でも深刻な事態を招きます。普通に生活しているようにみえていても、成人になってから本人は大変な生き辛さを感じることになるからです。
 どんなに幼くても、子どもは親の態度に敏感に反応するものです。したがって、子どもが大人の振る舞いをしていると感じたときは、なぜそのような態度を取らせているのか、親は我が身の言動を振り返らないといけません。

 普通、問題行動を起こした子どもは、叱られるものと思っています。 そこで大人が、「今回、問題を起こしたことは、君がいい方向に向かうためのチャンスとしたい」と伝え、「今回、なぜこのようなことが起きたのか、いっしょに考えよう」と問題行動を起こした背景を子どもといっしょに考える姿勢でいることを伝えます。
 家庭と学校とでは、少し言葉がけが違ってくるでしょう。しかし基本的な進め方は同じです。いずれも、叱るという態度ではなく、受容的な態度で臨みます。まずは「日頃から思っていたことを自由に話してくれないか」と切り出してみましょう。
 本音を言ってもかまわないという気持ちに子どもがなれば、時間がかかるかもしれませんが、子どもは少しずつ本音を語り始めます。本音を語り出したら、大人はしばらく口をはさむことは控え、子どもの言葉にひたすら耳を傾けます。途中で、子どもが間違った考え方を言ったとしても、それを指摘せずに、子どもの語りをさえぎらないようにしてください。話のなかで、子どもが不満やストレスを話し出せば、それが問題行動を起こした要因と捉えることができるでしょう。親が聞き手であった場合、親自身が否定されるような言葉を聴くことになって、耳の痛い思いをするかもしれませんが、親も自分の気づいていなかったことを子どもから教えてもらう気持ちになって、子どもの話を最後まで聴いてください。
 そして、大人は、子どもが不満やストレスといった否定的なことを話すためには勇気が必要であることを知っておいてください。子どもでなくても、誰もが自分のネガティブな感情を人前で話すことを恥ずかしく思うものです。だからこそ、子どもが本音を言えたら、大人は「よく話してくれたなあ」と子どもが話してくれたことをねぎらいます。「辛い思いをしていたんだな。1人でずっと悩んでいたのではないの?話してくれてありがとう」などと言ってください。親が自分に問題があることに気づいたら、「お父さん(お母さん)にもまずいところがあったんだなあ。ごめんな」と言って素直に謝罪しましょう。本音で話し合えれば、親子関係はぐっと深くなります。問題行動をきっかけに親子関係が好転し、その後は素直に本音を言い合える豊かな関係になります。
 また、教師であれば「そんな嫌な気持ちでいたのか。それはしんどかっただろう。長い間、誰にも言えなかったのではないかな。話してくれてありがとう」と伝えたいものです。このように共感してもらえると、生徒は教師を信頼するようになり、その後の生徒の人生も変わってきます。生徒は教師を通じて大人という存在を信頼するようになります。子どもが自分の不満やストレスを言語化し、苦しい思いを受け止めてもらうことによって、子どもも問題行動の過ちに自ら気づくことができます。
 子どもが本音を話しているときに、絶対に言ってはいけないことがあります。正論です。「お前の考えは間違っている」「未成年なのにタバコを吸うことは許されない。身体にも悪い」や「このままだと、いい学校に行けなくなる」などといった説論です。大人の言っていることは間違っていません。間違っていないからこそ、子どもは何も言い返せなくなるのです。そうすると、子どもはようやく開きかけた心を再び閉ざします。子どもは本音を話したことを後悔し、結局反省の言葉を引き出すパターンに陥ってしまいます。下手をすると、それ以降、子どもは親や大人に対して「絶対に本当のことは言わない!」と心のなかで決意し、二度と本音を話さなくなるかもしれません。あるいは、面従腹背の態度になるかもしれません。表面上はまじめな態度を取りながら、心のなかで舌を出しているのです。こうなると最悪です。ピンチがチャンスとはならず、さらなるピンチを招き、それが爆発(非行や犯罪)へと向かう出発点となります。
 正論を言えば、親が勝って子どもが負けるという構図に必ずなります。結果として残るのは、親子関係の悪化です。正論は、相手の心を閉ざす「言葉の凶器」と考えてもいいでしょう。親と子どもの関係にとどまらず、あらゆる人間関係において、正論を言うことは相手との関係を悪くする可能性があることを理解しておきたいものです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2022年11月10日
読了日 : 2022年11月8日
本棚登録日 : 2022年11月10日

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