商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)

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  • 光文社 (2012年5月17日発売)
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目次
序章 商店街の可能性
第1章 「両翼の安定」と商店街
第2章 商店街の胎動期(一九二〇〜一九四五)―「商店街」という理念の成立
第3章 商店街の安定期(一九四六〜一九七三)―「両翼の安定」の成立
第4章 商店街の崩壊期(一九七四〜)―「両翼の安定」の奈落
第5章 「両翼の安定」を超えて―商店街の何を引き継げばよいか
 
第1章 「両翼の安定」と商店街
 かつての日本の繁栄は「企業」と小売零細業を中心とする「自営業」の両翼にささえられていた。
 しかし、既得権益を守るための圧力団体と化した自営業、つまり商店街陣営は数々の規制を政府に求めた。
 が、その蜜月は長く続かなかった。

第2章 商店街の胎動期(一九二〇〜一九四五)―「商店街」という理念の成立
 商店街の萌芽は、まずは第一次世界大戦後にみられる。離農した農民が、都市に大量に流入した。工場の労働者として雇われるものもいたが、近代官僚制が進み学歴重視の社会となったため、就職できなかったものも多くそこで食い扶持を稼ぐために、零細小売業となった。
 だが彼らが増えることにより、物価の乱高下を招くとして消費者と対立することもあった。そのひとつが「米騒動」である。
 消費者は小売業に対抗するため、協同組合を作り、また政府も公設市場の設置を目指した。
 「協同組合」は最初は小売業のためであったが、零細業の組織化に転用され、「商店街」の理念の形成に一役買うことになる。
 第一次世界大戦後、百貨店が登場した。それは買い物と娯楽を組み合わせた施設で、小売り零細業と対立した。
 しかしこれら「市場の公共性」「協同組合の協同主義」「百貨店の娯楽性」の要素を合わせ、規模の拡大と専門性の獲得を目指し、「商店街」が誕生した。
 誕生した背景に、物質不足を乗り切るための官の統制があった。
 そこで、個人事業主を適切な地域ごとに割り振るため、免許性、距離性を実施しひとつの地域に、酒、米一軒ずつという統制を敷いた。政府には商店街を生活インフラとして整備する思惑があった。 
 だが、それは徐々に忘れ去られ、商店街は既得権益を主張する団体へと変貌していく。
 彼らは、20世紀前半に大規模な企業が現れるまで、相対的に経済的地位は高かった。
 
第3章 商店街の安定期(一九四六〜一九七三)―「両翼の安定」の成立
 第二次世界大戦後も闇市などが乱立し、経済はしばらく混乱していた。
 しかし政府は、製造業中心の社会へと経済を立て直していく。
 主婦の倹約貯蓄を奨励することで、その貯蓄を工業のインフラ投資へと回し、ハード面を整えた。
 または第3次産業に規制をかけ、第2次産業に安価な労働力が回るように、ソフト面も整えたが、それは商店街の保護政策へとつながっていった。
 だが、スーパーマーケットが誕生し、商店街は、流通やコスト最適化し得ていない保守的で不合理な存在だとする論が登場する。
 その代表者はダイエー創始者の中内功氏であり、彼は製造業ではなく消費者が価値を決定する「バリュー主義」を唱え、商店街を旧来の悪癖の象徴として攻撃した。
 すぐには商店街の既得権が切り崩されたわけではない。
 第3次産業が受け皿となり、日本の完全雇用を実現しているとされていたからである。
 が、社会構造は大きな変化を迎えていた。一つは、経済の復興・成長に伴い、「サラリーマンとその家族」が日本を支える典型的な有り様とされたことである。そして、男性サラリーマンと専業主婦の家庭を前提とした社会保障政策が次々と実施されていく。
 その中で、商店街は旧来の悪習の象徴とされていった。

第4章 商店街の崩壊期(一九七四〜)―「両翼の安定」の奈落
 1970年代、オイルショックが起こり、世界経済は大混乱となった。
 その中で日本だけが欧米より一足早く立ち直った。
 それは「日本的経営」の賞賛とつながっていった。
 それは具体的には、終身雇用と年功序列をおもとする、企業中心の日本のイメージであった。
 企業が男性サラリーマンを中心とした雇用者の家族ごと丸抱えし、国家を頼らない福祉モデルとされた。
 S60年には3号被保険者が制定されている。
 だが、それら、サラリーマン以外の自営業や地域が排除されたモデルであった。
 そのモデルは、一定以上の成果を収め、日本は強大な貿易黒字国となる。
 しかし、バブル期の終わり、日本の過剰な貿易黒字を憂慮したアメリカは日本国内の内需を促すため、「規制緩和」と「公共事業の拡大」を求めた。  
 アメリカの圧力に屈した政府により、商店街を守っていた、流通の規制が緩和された。
 さらに「公共事業の拡大」により、高速道が急速に整備され、人々は土地代の高い都心部から、郊外へとうつっていく。
 こうして、消費空間が変化をしていき、人のいない都心部に商店街は取り残さていった。

 追い打ちをかけたのはコンビニである。
 コンビニは1970年代の終わりから急速に増えていた。
 当時のコンビニの本部は、イトーヨーカ堂やダイエーなどのスーパーマーケットである。大型店舗の出店が「大店法」という規制(大型の店舗を出店する場合には、地域の商店街の許可が必要)により、制限されたため、彼らは戦略を変え、
1大店法に引っ掛からない
2フランチャイズ
3郊外型店舗
を目指した。彼らは商店街と真っ向から対立するのではなく、スーパーマーケットの理論に塗り替えることにした。
 このコンビニのチェーン展開は、商店街の後継者問題を解決するとして、跡継ぎ不足に悩んでいた商店主たちに歓迎された。
 商店主たちはタバコや酒は、免許制なので、子供以外に継がせたくないと考えていたが、子供は将来性のなさから店を継がない。
 そして、商店街は長時間労働が問題である。
 が、コンビニ化により、パートや人材の確保が容易になった。
 こうしてコンビニは万屋として、たばこ屋、酒屋、八百屋、米穀店などの存在意義を奪い、崩壊を促していった。


第5章 「両翼の安定」を超えて―商店街の何を引き継げばよいか
 商店街が滅んだ理由は、圧力団体となっていったこと、免許制が制度の硬直化と権益の私物化を促したことにある。 
 そして、政府の政策も変化した。
 1980年代以降、個人の給付と地域の給付、規制緩和は積極的に行われたが、適切な規制は両者に行われなかった。
 商店街だけでなく、数々の「規制緩和」は、競争力の弱い地方を苦境に陥れる。
 結果、地方を潤すためには、有力な企業を誘致するか、公共事業を誘致するしかなくなっていく。
 国も地方の苦境は知ってはいるから、「景気対策」という名目で助成金をバラまき、公共事業をあてがい、それをアテにした地方はそれなしにはやっていけなくなるという、まさにマッチポンプな状態となっていった。
 規制緩和が景気をよくするとは限らない。
 適切な規制が今後は求められる。
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最近、政治・経済に興味の出てきたワタシです。こんばんは。
 読み解くのが難しいし、ノイズが多いので敬遠してたんですが、年のせいでしょうか(多分、そう)。

 滋賀県知事選挙、終わりましたね。
 前カダ政権を引き継いだ三日月氏が当選しました。
 一応無所属、って触れ込みだったけど、民主党が応援してた候補です。かつては滋賀県は「自民党王国」だったらしいんですけどね。
 
 早速、テレビで「カダ前知事が以前白紙撤回をした、新幹線の駅の再誘致も前向きに検討」と言われてたけど・・・。
 すでにJR東海は以前撤回された栗東駅の件があるから冷ややかなんだとか。
 けど、県内では栗東以外に候補として手を挙げている場所がいくつかあるらしく、そのひとつは東近江市の「五個荘町」。

 ・・・五個荘町・・・

 いや、綺麗なところですよ。田園風景の広がるね。

 で、そんな田んぼの真ん中に新幹線の駅、作ってどうするんだ・・・。快速の駅も止まったっけ?(五個荘町の方、スミマセン)

 よく田舎の「どうしてそんなとこに?」っていう場所に大仰な施設が出現することがありますが、別に、ココだけの話じゃなくて、地域振興といえば公共事業っていう発想になっちゃうんだろうなぁ・・・ 
 
 最近、読んだ本の影響ですね。
 

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 本・雑誌
感想投稿日 : 2018年12月22日
読了日 : 2014年7月17日
本棚登録日 : 2018年12月22日

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