魔女の宅急便 [DVD]

監督 : 宮崎駿 
  • ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント (2011年10月17日発売)
4.16
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感想 : 603
5

駿再鑑賞月間ここにきて最大級の「特殊な幸福感」。
駿はいつも子供に向けて作っていると言うが、子供だけに見てほしいというわけではない。
おそらく駿自身も含む、かつて子供だったすべての人の、いまでも子供の部分に見せたい、ということだろう(ユーミンとの対談において、子供だった自分ができなかったことを、登場人物にしてほしい、とも。だから教育的に理想的な少女像になってしまう……このあたりはルイス・キャロル「不思議の国のアリス」が、大人が子供に教育したいお話として流通していることと、合わせて考えてみたいところ。大人にとっての理想的子供の「押しつけ」と、大人になってからでないと考えられない後悔や「かつての自分がこうであったならば」という想像と)。
だから見た後の幸福感は凄い。
ただし根底にあるのは人類の愚かさへの絶望が深いからこそ、子供への希望や子供時代への郷愁が深い。
ぎりぎりのところで大人の子供時代を肯定する、というところが、ただの娯楽作やカタルシスと違う「特殊な幸福感」につながるのだろう。
自分流にいえば、頭の鉢が開いたんだかトレパネーションされたんだかわからないくらいに、上方からの光に包まれたような感覚。(山本英夫「ホムンクルス」というよりは、中島らも「翼と性器」のサードアイ・上方に窓を開く)
この興奮に浸ってメモしたことを箇条書きしてみる。
(ジブリの教科書や岡田斗司夫の解説の影響あり)

・父に「オトウサン、高い高いして」と、おソノへの「オソノサン、ううん何でもない」が対になっている。
・オソノへ「どうしても食べなきゃだめぇ?」と甘え。またオソノのほうも、あえて気づかないふりをする「他人ならではの優しさ」。
・甘やかし父母を駿は批判的に見ているらしいが、同じ親としての共感もある。4歳娘の父としては、想像するだけで悶絶。たった数分なのにこの情感よ。
・一年修行して、帰る。帰るかも。帰らないかも。でも帰る場所はある。と序盤から終盤にかけて描かれる。この「大・帰る場所」がひとまず地元にあるけれども、すぐには帰れないから、「小・帰る場所」=自室とか信頼できる人とか、を作るのが、社会に出たての課題……魔女は少女期に一足先にそれをするのだ、という設定。
・場所や舞台を作る、それもまるっと。これも駿の作家性だろう。
・印象的な場所は徹底的に何度も出す、と「カリオストロの城」で言っていたが、同じく時計台が印象的だと思っていたら、ラストで。もう初見の感想は思い出せないが、驚いたことだろう。
・自由には飛べない、と、受け入れられてない感じ。
・オソノの「かっかっか」という笑い方、ウルスラも同じ笑い方。キキは基本的には「うふふー」と笑うが、トンボと一緒に自転車で崖から落ちたときに、同じ笑い方をする。三人は同じ人物の現在、近未来、遠未来なのだろう。共通するのは「しなやかさ」か。
・オソノの店はグーチョキパン屋というらしいが、看板にもイタリア語?で、GhouThaokiPhanja、みたいにとスペルされている。面白い。
・あと、荷物にIMOとか。
・トンボやガールフレンドへの嫉妬→逆に考えて恋心、という図式は、もちろん今までも判っていたが、内田樹が「飛行船への嫉妬」と論じていて、なるほど。「トンボはじめ町の人が飛行船に夢中になるとき、キキにとって私事であった飛行能力は、公共的なフレームの中で格付けされ、数値化される」と。駿がインタビューで「身近なアニメーターの女の子」について言及しているのと同じだろう。ちょっと絵の巧い子が、好きなことを仕事にして独り暮らしし、才能のピットフォールに陥る→自分をコントロールする術をなんとかかんとか身に着ける、という。それが駿自身の話でもある、と。
・恋の季節に、ジジと話せなくなり。魔法が弱くなり。こういう重要事や危機はいっぺんに来る。
・助けになるのは、分身たるウルスラ。確かに才能の行き当たりについて、ウルスラは語る。少年時に見たころから、この人は印象深かった。
・他者と影響し合うということ。不定形だからこそ。
・素敵、とか、あたし好きよ、とか。いう台詞が、少女・女性の「軽やかさ」を描き、作品に甘やかさをまぶしているが、そのハニーに隠された重みらるや。
・百合映画としても。
・親切とお礼のやりとり。好意や好もしさはこのように伝播するのだ。
・ハイファンタジーでなく、車も飛行船もあるのに、魔女だけがいる。そこがいい(「ドラえもん」と似たリアリティラインか)。
・中盤からキキは「歩く」。魔法が弱まった結果だが、結果的に歩くことで見えるものや出会える人がいる。トンボの危機を知って「走る」、このもどかしさ、そして「飛ぶ」それも無音で! 風の音だけ。
・ラストでウルスラは現れない、確か。テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンしてジンテーゼとなったとき、アンチテーゼは「存在しなくていい」。錬金術と同じく。ていうか現れる女は全てキキの分身や未来やだ。ウルスラやオソノだけでなく、先輩魔女や、感じ悪い女の子や、お婆さんや、もちろん母親も。
・同じくジジとは、「もう話せなくてもいい」のだ。ジジの存在は単純にツッコミ役や批判役としてもいいし、このアニメの中でかなり大きな感情の起伏を作っている(子供が見て、単純に猫さんと話せてウレシイ! 猫さんと話せなくなって寂しい)が、駿はきっぱりと「もう話せなくてもいい」という話にした。ジジの言葉はキキ以外には通じないから、魔法であり、心の声であり、イマジナリーフレンドであり、キキの闇やぼやきの部分であり、見る人によって捉え方は異なるだろうが、異なってもいいように作られている。イマジナリーフレンドぎりぎりの魔法、ということで個人的には納得。「トイ・ストーリー」でも「ドラえもん」(主に劇場版のゲストキャラ。ピー助とかロップルとか。あ。いわばドラえもん自体もそうか)でも「プレ思春期限定の友達」が描かれ、それらとの別れには弱い、という自覚がある。イマジナリーフレンドとの別れ→成長→イマジナリーフレンドへの愛惜、もう必要ないんだ、という、喪失感と綯い交ぜになった未来への期待感、悲しさと幸せと、この作品のラストは言葉にすればこういうことなんだろう。
・さようなら幼年期、はじめまして思春期の疾風怒濤=シュトゥルム・ウント・ドラング。
・以上のような感情を、アニメーション=動くことを通じて作り出す、凄まじさ。キキに感情移入することはもちろんだが、同時に誰かへの共感ベースで見なくとも人や背景やが動いているだけで=アニメーションしていることだけで、同じ感情が湧いてくる。「この世界の片隅に」でも感じたが、アニメが動くだけでもう泣きそうという。
・毎度、駿のインタビューを思い出す。「トトロ」で「子供は辛いときに、ただ寝る」。「耳をすませば」でベッドに沈み込むように寝込む雫も印象的。本作でも、貨物で寝る、風邪で寝る、トンボに嫉妬してふて寝する。
・真っ赤で巨大なリボン。ショートだから本来要らないのに。鈴木敏夫いわく、アイデアに煮詰まっていたが、あるとき喫茶店でさらさらっと描いて「このリボンが少女を守っているんだな」とキャラ設定が生まれた、と。岡田斗司夫は「リボン=自意識の重さに右往左往している子、パンツ丸見えのくせに」と言っている。どちらにせよ、でっかいリボンがライナスの毛布=安心毛布≒秘密基地であることに変わりない。小澤俊夫が「シンデレラ」を評して、少女は行きつ戻りつしながら、前進と交代をして、一歩進んで半歩戻って、さらに一歩進んで、成長する、と。
・正直、永遠にキキのことを考えていたいが、少女愛であると同時に自己愛であるという構図に、嵌り込みすぎるのは危険だ。醜悪だ。ここで一区切りしよう。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: アニメ
感想投稿日 : 2020年6月30日
読了日 : 2020年6月30日
本棚登録日 : 2020年6月30日

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