ブレアのイラク戦争: イギリスの世界戦略 (朝日選書 766)

制作 : 梅川正美  阪野智一 
  • 朝日新聞出版 (2004年12月1日発売)
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国際的にも国内的にも必ずしも支持されない戦争を行ったブレア政権。
それを8人の人間が解説したものをまとめた本です。かなり脳味噌が安定します。

第一章「バスラへの進撃」
イギリス軍のイラク進撃の実態について。

開戦三ヶ月前。
当初はトルコから南下予定だったイギリス軍は
第一次世界大戦時のローザンヌ条約からくる不信感からトルコから反対されて断念。
イラク第二の規模を誇る南部の都市・バスラの攻略と占拠を目指すこととなっていました
南部を押さえることで、石油施設とその積み出し港を手中に収めようとしたんですね。
しかしバスラという年は素直に米英を受け入れがたい都市。
1991年の反乱の大虐殺において米英が一切介入をしなかったことと、
フセインを支えるバース党の強い支配があったことが原因と言われています。
そのため総攻撃の際も市民の悪感情を刺激しないように
爆撃場所や兵士の態度などに規律を求めたそうです。
あとはバグダッド陥落までの流れの説明です。
イラク人犠牲者は1万~1万5千、イギリス軍犠牲者数十人、アメリカ軍犠牲者千人以上。
2003年7月13日にはイラク統治評議会が、9月3日には暫定政府が発足。
イラクは米英の「支持」を受けることとなります。

第二章「ブレアの世界戦略」
ブレアの求める世界秩序とイラク戦争も目的について。
(イギリスのアメリカ追随姿勢と大英帝国のリーダーシップの復活)

2001年10月の労働党大会でブレアはこう演説した。
「万華鏡は振られてしまい、目に見える破片は混乱」している、と。
万華鏡は世界秩序。
ブレアが最も恐れたのはこの「混乱」が米英が世界の隅に追いやられ、
米英の勢力と、ヨーロッパ勢力との二極構造になることでした。
この構造が発生し、両者の溝が深まった際の他諸国の暴走を警告しつつ、
アメリカとイギリスが中心とした両陣営の「均衡」を述べたのです。
これがブレアの求める世界秩序。

イラク戦争に話題を移します。
ブレアは大量破壊兵器の査察を受け入れなかったことをイラク戦争の原因としています。
しかし査察に関する最後の国連決議より数ヶ月前にブレアはブッシュに対し、
アメリカのイラク戦争に従うと約束を取り付けていました。
ブレアは世界の問題の多くを起こす二大悪の片割れ、ミロシェヴィッチとの戦いにて
「もしコソボで失敗すれば、次の独裁者は、われわれの力を信じないだろう」と言いました。
まさにイギリス軍の活動は「見せしめ」であり、世界第二の警察としてのアピールだったのです。
アメリカとイギリスの指導下に置かれる地域が増えることが、
ブレアにとって安定した世界の形が作られることなのでしょう。

第三章「大英帝国の形と米英関係」
イギリスの歴史について。

第二次世界大戦直後まで大英帝国は世界に膨大な植民地を持っていました。
しかし大戦は終わり、植民地は独立し、イギリスは植民地を持たない普通の国家になりました。
けれどイングランド君主と教会、市民、植民地の三層構造を解体することは
国家の破壊に近いほどの大改革。
だからこそ大戦直後の帝国の政治家はその凋落を自覚し得なかったのです。
チャーチルはアメリカとヨーロッパを同等に重要視していましたし。
そしてスエズ危機で漸く単独で問題を解決できないことで大いに自尊心を傷つけられたのです。
チャーチル・ルーズベルトの「特別な関係」が、イードゥン・アイゼンハワーの「断絶」に直面することで、
もはやアメリカの支援なしにイギリスの軍事が動けない現実に直面したのです。
その後、サッチャー・レーガンがフォークランド諸島で
「国民でも議員でも内閣でもなくアメリカの意向を最重要視」することで、
アメリカ大統領とイギリス首相の密接な関係を再びうみだすことに成功します。
しかし今回の戦争はフォークランドのような自己防衛戦争でなく、
世界の指導権を握るための戦争であったため、
イギリスの主張は薄く、アメリカに引き摺られる印象を最後まで拭えなかったのだと言えます。
帝国の誇りと、アメリカの軍事力の保護という名の支配。
イギリス側の行動に意味や理由付けがなければアメリカの影は拭えない現実が露呈する。
そんなイギリスの現在に至るまでの流れが読めます。

第四章「フランスやドイツとの対立」
仏独との関係犠牲の上でのブッシュ援護の代償

仏独に比べてEU加盟の遅れたイギリスはそのなかでは周辺的存在でした。
統合に前向きになりさえすれば指導権を握ることは不可能ではありませんでしたが、
ユーロ参加問題がブレア政権をEUに対して曖昧な位置づけに終わらせてしまったのです。
もちろん指導権という意味からはブレアにとってもユーロ参加は悪い話ではなかったのですが、
国民の多数の反対とメディアの反対キャンペーンが、
ブレアに国民投票を足踏みさせました。失敗すれば政治的に酷い打撃を受けるからです。
また、EUが独自の防衛力強化を目標とするなかでNATO重視の姿勢も問題でした。

同時にヨーロッパとアメリカを結合した「大西洋共同体」で架け橋を演じるイギリス、
それを青写真としたブレアはイラク戦争で二者の板ばさみとなっていました。
当時誕生したブッシュ政権は
ミサイル防衛構想の推進・京都議定書への否定的立場・国際刑事裁判所への反対、
これによってヨーロッパを幻滅させ、その自国中心主義に反発をさせていました。

そんななかのドイツとフランス。
特にシュレーダー首相は公然と反旗を翻し、選挙では反戦を大きく主張しました。
当初アメリカは選挙後のシュレーダーの軟化を期待していましたが、
僅差での過半数獲得により選択肢を狭めたシュレーダーは態度をますます軟化させることに。
同時にシラク大統領は米ソの二極世界への異議を唱えるための絶好の場と捉えていました。
シラク大統領は別に徹底した反米主義ではなく協調維持は望んではいましたが、
シラクにとって許せなかったのはアメリカの一極世界が成立し、
ヨーロッパがその追随者に成り下がることでした。だからこそ挑戦状を叩きつけたのです。
そしてそれまで「蜜月は終わった」と言われていたこの二国が協力しあい、
フランスが反戦諸国を束ねてイラク戦争の押さえ込みにかかることになります。
それは結果としてドイツを米英に引き入れフランスの指導権を奪おうとする
ブレアの目論見は外すこととなり、ブレア政権は窮地に立たされることとなります。

この地点でブレア政権には、かつでのベトナム戦争と同様の、
アメリカを支持しつつも軍の出動はしない、という選択肢もありました。
しかしブレアの世界秩序において帝国復権のためにブレアは軍事力を示す必要がありました。
その野心が、米欧の架け橋であるはずのイギリスを、
アメリカの意向を欧州に伝えるが、欧州の意向をアメリカには主張しないという姿勢にし、
ヨーロッパの一員としてのイギリス、架け橋としてのイギリスの異議を薄める結果となりました。

『アメリカ追随ではなく、
基本的な指示を与えながら批判すべきところはきちんと批判するヨーロッパ、
そのなかで指導権を握るイギリスという構図は、
イラク戦争で見られた米欧の亀裂とヨーロッパ内の対立という構図よりも、
はるかに望ましい』
この通りだと思います。帝国の権威か、世界の秩序か。ブレアの世界では難しい選択でしょうが。

第五章「労働党内部からの批判」

ブレア政権の外交政策の特徴は「倫理外交」と「国粋主義」と「国際主義」。
労働党が正しいと判断し、世界の安全のために必要ならば、
戦争や軍事介入も否定しないという方針です。
実際にブレア政権はイラク戦争以前に、コソボ紛争など4度の介入を行っています。

しかしイラク戦争はそれまでの介入と違い、労働党内からも反戦の動きを受けます。
なぜなのか。それについて外務大臣だったロビン・クックは理由を次のように挙げました。
それは
①人道上の侵害が無く明確な軍事介入の理由がなく、
②国連の査察が進んでいる状況にも関わらず
③フセイン妥当あるいは石油利権獲得が目的であろうアメリカに追随するような形で
ブレア政権が一般人を巻き添えにした戦争をしているからという理由です。

また、国際開発大臣だったクレア・ショートも批判の言葉を遺しています。
ひとつはクックとおなじくアメリカ追随のブレア政権の姿勢です。
イラク戦争開始の半年近く前からアメリカと軍事協調の約束を交わしていました。
これは国連よりアメリカを重視する何よりの決定打でした。
また、同時にブレア政権が国連決議を断念する理由として
フランスが断固として拒否権を行使する件について、
現実にフランスが主張していたのは「査察の結果次第で拒否権を行使する」もので
査察を重視し、国連を尊重しさえすれば軍事介入を防げた現実もありました。
そしてもうひとつは上記の決定がブレアとその側近によってなされたことです。
内閣における正統な手続きもなく戦争を断行したブレアをショートは許せなかったのです。

こうして労働党はイラク戦争を巡ってふたつに分かれることになります。
しかも古い労働党と新しい労働党での亀裂でなく、ニューレイバー内部での亀裂です。
倫理外交と国際主義を破壊したことで労働党は内部や支持者との間に問題をかかえます。

第六章「ブレアを支持した保守党」

イギリスがアメリカと協力しつつ欧州と連携をとる方針を「ヨーロッパとイギリス」政策、
アメリカより欧州との連携を第一に考える方針を「ヨーロッパのなかのイギリス」政策と言います。
サッチャーはスエズ運河の敗北からアメリカとの特別な関係の重要性を学び、
同時にヨーロッパが強い力を持ちすぎ帝国の威信を傷つけることを大きく嫌い、
実際にウエストランド社救済問題などで後者の政策を支持した大臣を更迭しました。
そのあとを継いだメイジャー政権はEUに関するマーストリヒト条約批准に努力しますが、
サッチャー派が猛反対することでかろうじての批准にとどまり、
ヨーロッパ政策に関して今日まで続く保守党内部の亀裂をさらけだすことになります。

そしてその後サッチャー派の反欧州派が党首を務める保守党のまえに
反欧州・新米のブレア政権が誕生した際に、批判でなく支持にまわることに繋がりました。
確かに保守党はブレア批判はしていましたが、
それはNHS問題や増税問題といった内政で、外交に関しては同調していたのです。

第七章「つくられたイラクの脅威」
「なぜ、いま、イラクなのか」の理由「大量破壊兵器」

情報操作疑惑を巡るブレア政権とBBCの対立と、ケリー博士の自殺。
そして大量破壊兵器に対するバトラー委員会の指摘した
政府の報告が「意図的に歪曲していない」ものの情報に「深刻な欠陥」があったとの発表。
実質的に情報操作が行われていたと言ってもいい内容です。

また、上記でも述べられていたようにイラク戦争の決定が
ごく僅かな側近による狭い視野で作られたことも大きな問題とされていました。
ブレア政権の誕生とともに登場した言葉のひとつに「スピン・ドクター」というものがあります。
情報を操作し、政府指導者の政策や演説を彼らに有利なように演出する報道官のこと。
ブレアの主席報道官であるキャンベルはまさに自他共に認めるスピン・ドクターでした。
大量破壊兵器という演出を加える彼らを迎え入れることで、
側近グループへの集権化と、閣議が単なる追随する機関と化すことが発生し、
イラク戦争への独走が発生しました。
経済のグローバル化に伴って政策選択の幅が狭まる現在、
演出は必要とされるかもしれないが、後日政府広報に関する調査委員会は
報道官に官僚を指揮する権限を与えず党派的な広報に専念すべきと警告を与えています。

以上です。
第八章「国民世論の分裂」は国民のブレア政権支持が、
時期によってどう変化しているかについてデータが記載されています。
最初は賛成していたけれど、特に大量破壊兵器の存在への不信が出てから
一気に反戦が高まっているのは予想通り。
そして「戦後」イラク情勢がなかなか安定しないことなども。
興味深かったのは新聞への市民投書。面白かったのでふたつとも最後に乗せます。

ロンドン在住のネイザンさん。
『戦争は残念ながら避けられない見通しだが、ブッシュとブレアに責任があるわけではない。責められるべきは、シラクやシュレーダーである。彼らは、結局、残忍な独裁者が民間人を犠牲にするのを放置することを求めているのである』
ケント在住のサンダースさん。
『私は反戦の気分に共鳴するが、誰もこの問題に対して首尾一貫したより望ましい代替政策を提示していないことが問題だと思う。戦争が理想的な解決策でないのは明らかだが、代替政策は残忍で大量虐殺を行う殺し屋の支配の継続、大量破壊兵器開発の継続、石油を身代金にして世界に脅威を与えることの継続と同様である。よって、単純な反戦レトリックは、実は、“反平和”であり、“親サダム”なのだ。』
こういう支持を継続できなかったことがブレアの市民問題のネックだったと思います。
政権への批判は戦後に一番高まってきたので。
「歴史の審判」を迎えるまでに「戦後」イラクの対策がいまだに重要だということが市民の声から分かりました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 政治モノ
感想投稿日 : 2009年12月28日
読了日 : 2009年7月6日
本棚登録日 : 2009年7月6日

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