物語工学論

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  • 角川学芸出版 (2009年8月8日発売)
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4

キャラ類型とは物語を素早く暗算できる技法

①さまよえる跛行者
非対称性
最初Aは状態Xであったが、その後全然違うX'になった
時刻tにおけるAと、時刻t+1におけるAの性質は異なっている

クエスト型Q 任務ミッション型M
ジャーニー型J 脱出型E
× さまよう行程のパターン

児童文学は、ほとんどが跛行者が回復していく物語

プロットとは、主人公に動機が設定され、物語が動き出し、一定の過程を経た後、クライマックスにおいて驚きのある急変に至り、その前後で動機が満たされて物語が停止すること、またはそれを引き起こすために作者があらかじめ設けておく構造

動機の類型=プロットの類型

物語は、キャラクター類型≠動機類型≠プロット類型に基づく立体的な大きな山

②塔の中の姫君
閉じ込められることで物語が動き出す
「泣ける」物語にしやすい
囚われているのは女性に限らない
現代的な「仲間」からの解放

③2つの顔を持つ男
正義か?それとも法秩序か?
日常/非日常のレベルまで抽象化される
外部からもう一つの顔を与えられてしまうケース

④武装戦闘少女
女性の役割という非対称性
単純な二極には収まらない豊かな問題意識を内包
A-B-X

⑤時空を超える恋人たち
互いに希求する二人を妨げる障壁
恋人たちが出逢うためには障壁を弱体化させる
特別な時間、特別な場所で逢うタイタニック

⑥あぶない賢者
二つの秩序が全く相容れない。一方の秩序が他方を完全に支配し、操作しようとしたら、あるいはその動きに対して支配されそうになった秩序が激しく反発したとしたら
マッドサイエンティスト
賢者は人のために良かれと思って何かをもたらす

⑦造物主を滅ぼすもの
象徴的に「父を乗り越えて行くキャラクター」
巨人の星 大リーグ養成ギブス
どちらを勝たせるかは読者視点に影響される

物語について
物語とは(ほぼ)キャラクターであり、キャラクターとは(ほぼ)物語である

「終わりがある」のが物語の特徴の一つ
日本の映像表現は素晴らしいが脚本に問題がない訳ではない。ハリウッド映画の脚本は陳腐だが、それでもついつい観てしまう
物語を作る(あるいは量産する)ための基礎体力、暗算力とでもいうべきものがハリウッドにはあるし、日本にその伝統は弱いのかも知れない。

読者の注目している「何か」が収束する、目標が暗示されている、定量的にはならず定性的にしかならない、予測も定性的にしかできない、このあたりに、狭義の「物語」があるように思われる

人類にとっての「暗記術/暗算術」として最初の物語技法が発生した可能性は否定できない。時間が限られている状況で答えを見つけなければならない、その時に、いちいちすべての可能性を考えたり過去の記憶を細部まで意識的に思い出していると、かえって手間がかかり、すぐに時間切れになってしまう。しかし、暗記や暗算ができれば細部や途中の反省過程を飛び越えることができる

物語は歴史を醸成するところから始まったのかも知れない

人間は言語で物事を考える/把握する。「言語」と「物語」を切り離すことはできない。ここで言う「言語」とは音声言語に限らない

「言語」は現実世界を検索する仮想上の器官もしくはアプリケーションだと考えるべきだろう。ただし、それはかなり強力なので「現在」だけでなく「過去」や「未来」等も検索し記述することができる。さらには(情報ロスや伝達ミスによって/を利用しつつ)「ありえない現実」「ありえなかった過去」「ありえない未来」までも検索・記述できてしまう

人間は「だまされる能力」があるからこそ、フィクションを楽しむことができる。それは情報伝達能力の欠如や弱点ではなく、強力な検索機能の一部なのではないか。「そんなことあるわけがないよ」と思いつつも、我々はワクワクしながら夢物語に聴き入ることができる

物語の作り手になるということは、どこかで「だまされる」人でなくなるということかも知れない

「物語」の作者は、読者の状態を変化させようとする。「物語」が終わった時点で読者の心のどこかが何らかのかたちで変化していてほしい、と考えるところから「物語」の設計は始まる。ただし、完全に読者の自由を奪ってしまっては、かえって「面白み」が減じてしまう

「物語」における一定の不完全性、あるいは自由度、解釈の余地、予測の困難...といったものは、読者から見た場合には不可欠の要素だと言える

本来、情報伝達だけが目的なのであれば、現行の「言語」には不要な機能が多いし、その使用法の一つである「物語」は面倒なだけの無駄でしかない。ある時点から、そうした「面倒なことの面白さ」が次第に比重を増し、「人に話を聞いてもらうためのテクニック」は急速に発展したのだろう。そのテクニックの体系は、もはや情報伝達とはかなり様相を異にした代物へと成長しきっている

「人に話を聞いてもらうためのテクニック」には何らかの手順があり、パターンがある。その体系は半ば閉じており、しかし半ば開いている

ハンサムな主人公が存在できるのは、ハンサムでもなければ主人公でもない大勢の脇役が物語内に存在するが故である

物語の必要十分条件とは、おそらく、主人公の存在、主人公の動機の(終盤での)充足、そしてそこに至る過程で「予期(期待)はできるが正確に予測(予想)はできない」ような錯綜を起こすこと、ということになる

キャラクターというものを別の角度から定義すると、それは「読者を物語の世界に入れて、その中で自由に動き回っているかのように実感させるための作者の技法である」となるかも知れない

かつて、作者は具体的な物語の「語り手」であったし「演者」でもあった。読者と作者は(ここ100年ほどの傾向として)直接的に話ができない。あるいは、直接対面せずに物語を取り交わすことができるようになっている。両者の間を仲介できるのはキャラクターしかいない。作者は、キャラクターを使って読者の心を動かす必要に迫られる

当初「物語」が一種の現実世界検索エンジンであり、情報圧縮伝達技術であり、それが「言語」と不可分であったのは、あながち間違いではないだろう。しかし、その後、別の用途がかなり増えたこともかなり確かなことではある

物語とは、「期待は裏切らないけど予想は裏切る」べきものである

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: シナリオ
感想投稿日 : 2010年10月23日
読了日 : 2010年10月24日
本棚登録日 : 2010年10月24日

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