ひとつの文壇史 (講談社文芸文庫)

著者 :
  • 講談社 (2008年6月10日発売)
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感想 : 2
4

昭和恐慌さなかの昭和6年に新潮社に入社してから10年間の編集者生活を振り返った自伝、かと思ったが、自伝要素は入社と退社のいきさつだけ。死別した妻のことも一言触れるだけ。
つきあいのあった作家や出版関係者の逸話であり、妥当な書名である。
そういう話題に興味なければ何も面白くないかもしれない(私もそんなには興味ない)。
 
この頃に再婚した吉川英治の妻が十代だった(吉川は四十代)ことを今回知ったので、『夜のノートルダム』で美川きよが書いていたエピソードの意味合いがよくわかった。
十代の妻と戦地に向かう四十代の夫が別れを惜しんでいる車に同乗させられた三十代半ばの美川のいたたまれなさといったら。

自分が編集に携わっている雑誌が大赤字であることも知らずに過ごしていたというあたりを、「良い時代だな」と思うか「バカじゃないの」と思うかは人それぞれかと思うが(私は後者)、そういう大雑把さの一方で戦時体制の強化が着々と進んでいる。
言論統制の当事者であった鈴木庫三への不満がそこかしこに書かれる(戦後になって書いた文章だけど)。
「ある婦人雑誌が、鈴木庫三少佐の心証をよくしようと、重大時局を認識させる短い記事を依頼し、その原稿料として、一流作家もおよばない高額な金を届けた。
 鈴木少佐は、軍人にありがちな単純さから、「自分にさえ、これほどの稿料を支払うところをみると、作家は、どんなに多くの収入を得ていることだろう」と、考えて、それから、作家をいじめることがはげしくなったともいわれた。」

あとはこんな記述も。
「編集室で、私が取った電話に、「北条の家内です」という凛とした声が響いた。私は、北条秀司さんの宅からにしては、少し様子が違っていると思いながら、「北条秀司さんですか」とたしかめた。「東条ですよ」と、相手は答えた。
 私の耳は、北条と東条を聞き違えたのであった。それは、東条といえばわかるはずだという押しつけがましさが感じられた。押し問答のあげく、東条英機陸軍大臣の勝子夫人であることがわかった。
 用件は、北原白秋のからまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き、に始まる『落葉松』の詩を本人に書いてもらって届けるようにとの依頼であった。」

あと、この講談社文芸文庫版は巻末に久米勲さんによる解説が収録されているが、この解説が、行き届いていていいなと思った。名文かどうかはともかく、適切な内容が適切に配されているという意味で。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2021年10月16日
読了日 : 2021年10月16日
本棚登録日 : 2021年10月15日

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