12月8日に合わせて読んでみた。
誰もが知っている「戦艦大和」の誕生から最期までを、もうひとつの動力源である「飯炊き兵」たちの視点から語るドキュメント。
「主計員」という最下層の兵から大和がどのように見えていたか。
旧軍での生活がどのようなものであったかを、プロのライターさんが怜悧な文章で描いている。
大和に乗艦した人々や戦中戦後の生活を送った人々の生の声も多く載せてあり、その語り口は非常に平明で読みやすい。
当時の写真も掲載され、巻末には一次資料の参考文献もある。
人がいれば必ず食餌をとる。
それは平時でも戦いのさなかでも変わらない。
そんなことを一度も思わなかった自分が、むしろ不思議でさえある。
2300人×朝昼晩=6900食分を賄う大厨房が、大和にはあったという。
最大時には3400人を超えたこともあるというその食の内容と、供する際の苦労や工夫が事細かにしるされる。
風呂釜のような炊飯器や食器の画像もあり、更には献立表まである。
一日の総カロリーが3300カロリーと聞くと、いくら何でも摂取量が多すぎかと心配してしまうが、現代のような食事内容ではない。
日露戦争時に海軍さんに脚気患者が急増したため主食は麦飯で、それも漫画のようなてんこ盛り。あとはみそ汁と漬物程度。
もちろん粉末の出汁など、この頃はない。
前の晩から水にいりこを投じて出汁をとり、出汁をとった後の昆布や削り節も天日干ししたのを醤油で煮しめて箸休めにしたという。
入港中でもお風呂は週二回の海水風呂だったとか、真水は浴槽につかる前と身体を洗う際と最後の流しの3杯のみ。「武蔵」には対空レーダーや航空通信設備があったが大和にはなかったとか、
いやそれよりも圧巻なのは「一万二百個の握り飯」の章以降だ。
すでに戦況は悪化の一方で、実戦のさなかでも「戦闘配食用意」が発令されれば何が何でもやらねばならない。
「戦闘配食」とはつまり「お握り」で、これを手で握って竹皮に包んでいく。
消毒して海水に浸けた軍手をして握ったというが、低温やけどで真っ赤に焼けたらしい。
しかもこれを、刻々と変化する戦況の中で「各班から受け取りに来るか、来られない場合は主計兵が配達する」という。更に配達も不可能な時は適当な場所に握り飯を置いたというのだ。7層にもなっている大和のデッキを、上に下に、右に左にと走り回ったということだ。
血みどろの戦いのさなか、どれほどの緊張感をもって任務を遂行したかは想像に難くない。
1945年4月7日、沖縄戦で最期を遂げた大和だが、その昼食は「銀シャリの握り飯」。
銀シャリが出ると聞いただけで兵員は万歳三唱したとある。
おそらくは生きて帰れまいと皆が知っていた、「ハレの日」の銀シャリだ。
それを愚かしいと笑うひともいるだろうが、フラットな視線でお読みあれ。
ここに書かれたのは賛美でも批判でもなく、細かな取材に基づいた事実である。
そして、戦争が終わっても食べるための戦いは続いていった。
大和生存者のうち、主計科は10名ほどだったという。
今ではもう知ることも出来ない人間のドラマがここにある。読み応えのある秀作。
- 感想投稿日 : 2019年12月9日
- 読了日 : 2019年12月8日
- 本棚登録日 : 2019年12月9日
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