人を“資源”と呼んでいいのか: 「人的資源」の発想の危うさ

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  • 現代書館 (2010年4月1日発売)
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 子どもの頃、「女の腐ったような奴」という言い方があった。優柔不断で煮え切らない男を非難する表現として使われていたが、この言い方が侮蔑語として機能するためには、男は決断力がある一方で、女は自分で決められない劣った存在であるという前提、共通理解が必要であり、それがその共同体の「常識」になっていなければならない。
 この言葉をまさか今使っている人はいないだろう。こんな歪んだ考えに基づく表現を今の時代、社会が許さないからである。現在、「しょうがい」の表記が「障がい」「障害」「障碍」で揺れているが、旧い偏見、価値観から生まれた言葉が問題視され、やがて消えていくのは、社会が変わった、変わりつつあるということを端的に表している。
 これは別の言い方をすれば、現在流布している表現や言葉は、それらを使うことが問題視されず、当然のこととして当面了解されているということでもある。
 前置きが長くなったが、本書の著者が問題にしているのは「人的資源」「人材」という言葉である。無自覚に使われている陳腐な表現だが、考えてみるとこの言い方の背後には、人間を材料、モノと見る価値観がある。2003年、自衛隊のイラク派遣をめぐる討論で、派遣を推進する山崎拓自民党幹事長は、自衛隊について「資源」「人的資源」を「使う」という言い方をする。1999年、いじめを受け、護衛艦「さわぎり」の艦内で自らの命を絶った自衛官の事件があったが、その被害者の母親は、これを聞いて強い違和感を覚える。「資源というのは消費するものですよね。人間を資源というのはおかしい。自衛官を使い捨てにするような発想が表れていると思います」
 この事件を取材していた著者は、この母親の言葉をきっかけに、「人的資源」という言い回しの歴史をたどっていく。詳細は是非本書を読んでいただきたいが、満州事変の前年、政府は人間に通し番号をつけて「資源」「物資」として扱っていたこと、その考えは第一次世界大戦時、すでに時の権力者によって説かれていたこと、敗戦後は人権否定に繋がるとして慎むべき言葉とされていたこと、それが経済の文脈で息を吹き返してきたこと等を、国会答弁の資料や記録を通して明らかにし、この言葉の根底には、人をモノ、道具とみなす人命、人権軽視の冷酷さがあることを、説得力を持って語る。そしてそうした観点から、炭鉱労働事件、派遣労働の現状、断種、自衛隊等についてあらためて考えていく。
 「命は大切」 異論を挟む余地はないはずだが、この言葉を、命は命であるがゆえに大切なのではなく、大切なのは使い勝手のいい道具だからとする考えが、この国の権力者には間違いなく根を張っている。本書を読んでそれを再確認した。コロナ、放射能問題に対するこの国の冷酷な対応、セクハラ、パワハラ、差別、ブラック労働等、こうした視点で今一度考え直すと、いろいろ合点がいく。言葉の背後にあるものを読み解く鋭敏な感覚を持ちたいものだ。
 生命が誕生したのは36億年前と言われている。以来連綿とそれを受け継ぎながら、いずれは必ず消えてしまう個の命を、たかだか2000年にも満たない国や、人生のほんの一時籍を置くに過ぎない組織に、「資源」として消費されるのは断固拒否する。本書を読んで、そんな思いをあらためて強くした。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: ノンフィクション 社会
感想投稿日 : 2021年4月4日
読了日 : 2021年4月4日
本棚登録日 : 2021年4月4日

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