ビール本を読んで尚且つ私にとってのビール本の最高峰は「金のジョッキに銀の泡」という本です。著者はすでに故人で、アサヒビールの重役だった方です。彼が本を書いたのはこれ一冊。それだけにビールへの愛情があふれています。

 よくドイツビールの純粋令が引き合いに出されます。それはビールには大麦、ホップ、水しか使ったらだめだというものです。いろんな本に紹介されていますが、彼の本は一味違う。大麦を指定したのはもちろん良質なビールのためでもあるが、当時ドイツで主食だったパンを守るためでもあった。小麦でビールを作られたら、パンの価格が上がる。そうすると当然家庭でパンが希少になり子供たちが良質な食事をとることができなくなる。よってビール純粋令は最古の消費者保護法であるということが書いてありました。政治的背景や既得権などあると思いますが、純粋にすばらしいと思いました。

 ビールは教会の鐘が鳴る範囲での飲めという格言があります。それは地元の人が地元の食材で地元の醸造所で作られ、地元の人が飲むということだと思います。メイドイン地元のビールを地元で地元の人が新鮮なうちの飲む。当然お金の流れもそうなる。

 もともとビールは地産地消で、ビール純粋令を選んだ歴史からみて、地域を思いやった飲み物なのだと思います。この飲み物をこれからも愛でていきたいと思います。最後に「金のジョッキに銀の泡」からビールを飲むときの掟を引用

1. 冷やしすぎたビールも生温かいビールも飲むな。どちらも折角の良いビールに可愛そうだ。それに冷えすぎたビールは胃に悪い。

2. ビールは泡が消える前に飲み乾し給え。だから自分の飲み方に合わせてコップの大きさを選ぶべきだ。

3. コップに油をつけるな(口紅も)泡が消える。泡が消えたビールは、 色香の失せた花みたいなものだ。

4. 飲みかけのグラスに注ぎ足しをするな。注ぎ立ての新鮮な味を愉しむチャンスがなくなる。それにいくら飲んだのかわからなくなる。

5. 急いで飲むな。急いで飲めば上に行き、ゆっくり飲めば下に行く。

6. ビールは愉しさに飲もう。ビールで悩みから逃避することはできぬ。

7. ビールは愉しむ時、味覚を損う食べ物は避けるべきだ。それは甘いも、 酸っぱすぎるもの、生臭いもの、味付けが濃いものなどだ。水分の多いものもビールと競合する。

8. 勤労の後の疲れと喉の渇き、これがビールには最高の肴だ。

9. 親しき友との集い、これはビールの悦びを増す。

10. 悪口や声高な議論を肴にするな。

11. 神を冒涜する言葉を吐くな。ビールの上だとて許されぬ。

12. 悪いやつらでもビールを飲む。だが、いま君の隣りで飲んでるのはきっと良い人だ。

13. 隣の人が君に彼のジョッキを勧めたら、君は左手で受けたまえ。友情より健康のほうが優先する。

 お酒と人類への愛情に満ちた掟。これをもとに私は女子が好きだけど、昼間から公序良俗を守り、ベロンベロンになります。

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カテゴリ ビール

「ショックです。日本で彼の存在があまり知られていないなんて。・・・(略)」

 この本の冒頭は、このように始まっています。日本で知られていない氏の名前は藤田哲也。竜巻を観測しつづけ、竜巻とは違う何かであったであろうダウンバーストを最初に確認した人です。

 アメリカでは竜巻が多発します。そして数年に一度大きな飛行機事故が起きていました。その原因を突き止めたのが藤田。藤田はダウンバーストを観測し飛行機事故の原因を突き止め、飛行機事故を激減させた功績でアメリカで有名です。

 藤田は、企救郡中曽根で生まれ、苦学して小倉中学(現小倉高校)を卒業しました。その後、現九州工業大学で教職につき過ごしました。この時点では物理の先生でした。苦学の影に周りの人たちの助けがあったことが書き出されています。

 戦後、広島長崎の原爆調査に参加。調査の写真には、悲惨な情景は写し出されていませんでした。学術的に意味のある写真しか撮っていなかった。情緒に訴えること無く、学術的に資料効果の高いものを求めた結果なのでしょう。

 その後、背振山での観測が認められ、かのシカゴ大学に招請されました。私の知るシカゴ大学は、ノーベル賞学者を多く排出し、グローバル経済を推し進めるシカゴ学派と呼ばれる経済学者ばかりだと思っていましたが、様々な研究者を擁し、認められれば待遇は凄いそうです。藤田はビルの一フロアを与えられていました。

 藤田は日本語訛りの英語だったといいます。どういうものが想像できませんが、それは当然北九州よりの日本語訛りでしょう。

 自分で計算尺を作り、気象観測をする学者として当時(今も?)珍しい存在でした。手が器用で必要なものは、なんでも自分で作ったそうです。物づくりの地元に強く繋がる印象を持ちます。

 本当は、日本に帰りたかったらしいのですが、日本では研究がままならないので、国籍を変えてでも研究を続けようとした様が読み取れます。気象情報は国家機密。国籍を変えないと研究に支障をきたしたのでしょう。日本は研究に適してないのかと思うととても残念です。

 幼少の頃、曽根干潟で潮の満ち引きを体験して引力の凄さを実感し、アメリカに発つ前、現在は都会になり見ることの出来ない故郷の自然豊かな中曽根の風景を写真に収め、それ励みにしました。

 弟が亡くなった時、こう弔事を送りました。「哲也はアメリカに骨を埋めることはありません。両親、碩也(弟)、妹が無言で待っている中曽根に必ず帰りますので、再会の日を静かにお待ち下さい。」地元を強く愛していたことが伺えます。企救郡中曽根の豊かな自然のなかで生活し、自然の営みの凄さを感じ、科学者をこころざし、父親を亡くし進学を諦めかけた藤田に多くの人が救いの手を伸ばし、藤田は学術に邁進した。これほどの地元の誇りはなかろう。

 藤田は1942年から現在の九州工業大学で教鞭をとっています。本には書かれていませんが、日本に初めてアメリカのB29が空襲した1944年から1945年には北九州にいました。地元での空襲を実体験として持っていたのかもしれません。戦後、広島長崎の調査。原爆は上空530mで爆発するように設計されていました。それが一番被害を与えることが出来るからです。藤田は放射線状に倒れた樹木から正確に原爆が爆発した高さを割り出しました。樹木は上から押し付けられるように倒れていたのです。そしてそれがダウンバーストの観測に役立ったのかもしれません。

 藤田はアメリカでダウンバーストを発表した時、学会は半信半疑でした。学会で認められるにはそれなりの過程を辿らないといけません。藤田は事故を無くしたいという一心で学会に立ち向かいました。それは地元であった空襲、広島長崎を調査し、本や論文には出てこない多くの不...

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カテゴリ 北九州
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