移りゆく「教養」 (日本の〈現代〉 5)

著者 :
  • エヌティティ出版 (2007年10月1日発売)
3.48
  • (2)
  • (7)
  • (14)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 101
感想 : 16
3

大学生が本を読まなくなった、と言われて久しい。
かく言う自分も「読まなくなった」世代の一員なわけですが、それじゃあ昔の学生はそんなに読書をしていたのか?
いやすごい読書量だったみたいですね。
特に戦前から戦中にかけての旧制高校の学生の「教養」に対する欲はハンパはなかったようです。
当時の旧制高校生はどうしてそんなに貪欲に「教養」を求めたのか?
戦後、時代を経るにつれて「教養崩壊」が生じたのは何故か?
そもそも「教養」って何だっけ?
「教養」を身につけるのは何の目的?身につけると何かいいことがあるの?
…といったことを論じた本です。

たいへん平易な文章なのですらすら読めてしまうのですが、しばらく読み進めると、今読んでいる内容が本全体の中でどの位置づけにあるのか分からなくなり、数ページ読み戻って論旨を確認しなくてはならないことがしばしばありました。
おそらくそれは「教養」という概念の掴みどころの無さに起因するものなのでしょう。
解りやすい明快なロジカルさで語るには、あまりにも向いていないテーマなのかもしれません。

古代ギリシャ、大学制度が確立した近世ヨーロッパ、日本の戦前戦中、そして戦後…「教養」を巡る歴史が、和辻哲郎や三木清などの思想家の「教養」観の概説とともに語られ、さらに「教養」と「政治」、「教養」と「伝統」、「教養」と「教育」などいくつかのテーマに沿って考察が進められます。

そして、もっとも印象に残ったのは、唐木順三の「自殺について」という文章を引用しながら、「教養」習得のダークサイドを暴いた以下の部分。

<i>しかし同時にまた、『自殺について』のこの記述は、「教養」の内容をいかなるものととらえるにせよ、つねにつきまとってしまう、ある不吉さを指摘している。前に旧制高校生についてふれたように、「教養」は、実際にしばしば、他者の視線を意識し、他者と競争するなかで追求されてきた。「教養」を通じての人格の向上をめざす姿勢は、多面で、「教養」の程度が自分より低い者や、「教養」を欠く者に対する蔑視と背中あわせである。唐木の用いる「唯我独尊」や、他者と自己とに対する「虐待」といった表現は、そうした心理を指摘している。</i>

いやぁこれはイタイところを突かれた、という感じがします。
誰しもがおちいりがちな陥穽ですね。
結局「教養」とは、それを身につけることが目的であるわけではない一方で、それによって何か利得をえようとするための手段でもない。
個人がいかによく生き、そしてその結果としていかによい社会が実現されるか、そのための「基礎体力」みたいなものなのかもしれません。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年1月6日
読了日 : 2008年2月27日
本棚登録日 : 2019年1月6日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする