〈主体〉のゆくえ-日本近代思想史への一視角 (講談社選書メチエ)

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  • 講談社 (2010年10月8日発売)
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subject / Subjekt /sujet は直接にはsubstantiaにさかのぼれる。デカルトはこのsubstantiaが神の属性であったところを、精神と物体の属性にした。そしてKantにおいてsubstantiaは人間的な認識「主体」にされた。
日本のsubject / Subjekt 輸入もまずはこの時点から始まる。二つの観点。①文法用語としてのsubject。述語が属する、従属するところの「主」というニュアンスが付加された。②カントの認識論の文脈で使われたということが継承されて「観」。それでまずは「主観」。
では、その「主観」がどのようにして「主体」に変わっていくのか? 小林は西田よりも三木にそのルーツを見出す。思い切りはしょって言えば、それはマルクス主義の影響であり三木が構想した歴史哲学に由来する。主観ー客観図式をはみ出すsubstantiaが改めて問題になり、「主体」が出てくる。
それが田邊元に引き継がれる。類・種・個という階層構造のうち、種が基体に、個が主体へと割り当てられ、さらに主体が臣民に、基体が民族ないし国家というところへずれていく。
高坂正顕もまた主体と基体の弁証法を問題にする。このとき、基体が自然環境であり、主体は人間主体ではなく国家主体へと切り替わってしまう。主体を主権と同一視するこのずれはどこから来たのか? そこには「社会的身体」というこれまた三木が導入したメタファーが作用している。
空間にある身体的主体⇔地理的環境にある国家的主体というメタファー。そして、この主体は、無としての主体として西谷啓治が示すことになる。絶対無をめぐる形而上学的議論はいったんはしょる。小林によると問題は、主体が真の無に到達すべきというテーゼが練達と献身滅私の要求にすり替わること。
戦後主体性論争を振り返ったり、全共闘の中での「主体性」って言葉の使われ方を取り上げたりして、最後にこの「主体性」は「アイデンティティ」という言葉に変わったのかもしれないって言ってる。「全共闘はアイデンティティ・クライシスゆえだ」「自分探しだった」みたいな話はあるけれど、そこで探される「自己」や「アイデンティティ」もまた歴史的な言葉遣いであることを免れない、とかって考えるとくらくらしてくるな。あるいは、現代の言葉遣いだけは時間的な劣化を免れるのだろうか。
174頁「皮肉な物言いをするなら、戦時中における京都学派が「主体」を「国体」にまで横ずれさせたことと、戦後における唯物論者が「主体」を「党派」へと横ずれさせたこととは理論の水準としてそこまでそれほど変わっていない。つまり「哲学」が時流の勢いに翻弄されたという意味でも両者は似ているのである。/なぜそうなってしまうのか。それは論者たちがこぞって「主体」というシニフィアンを「Subjekt」の翻訳語として、つまりあくまでその代理の符牒としてつかっているからである。だからそこにはこの日本語のシニフィアンを構成している「主」や「体」への関心など生れようもない。」
けっきょく「主体性」の強調は、自分も加担しているという事実の認識や自己処罰の論理にしか繋がらなかったよね、っていうのが結論めいた話かな。

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感想投稿日 : 2015年2月27日
読了日 : 2015年2月27日
本棚登録日 : 2015年2月27日

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