反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

  • NTT出版 (2014年9月24日発売)
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《意味のない、もしくは旧弊な慣習に異を唱える反抗と、正当な社会規範を破る反逆行為とを区別することは重要だ。つまり、異議申し立てと逸脱は区別しなければならい。異議申し立ては市民的不服従のようなものだ。それは人々が基本的にルールに従う意思を持ちながら、現行ルールの具体的な内容に心から、善意で反対しているときに生じる。彼らはそうした行為が招く結果にかかわらず反抗するのだ。これに対し逸脱は、人々が利己的な理由からルールに従わないときに生じる。この二つがきわめて区別しがたいのは、人はしばしば逸脱行為を一種の異議申し立てとして正当化しようとするからだが、自己欺瞞の強さのせいでもある。逸脱行為に陥る人の多くは、自分が行っていることは異議申し立ての一形態だと、本気で信じているのだ。
(……)
 この種の混乱は、カウンターカルチャーの論者からは肯定的に迎えられた。カウンターカルチャーの中核にある考えの表明として、逸脱と異議申し立ての区別を壊した(もっと正確には、すべての逸脱を異議申し立てとして扱いだした)と言えば事足りる。でないと、あまりにも多くの人が、かたやマーティン・ルーサー・キング、公民権運動、フリーダム・ライダーと、こなたハーレーダビッドソンの改造車、コカイン密輸、イージー・ライダーのあいだに類似を見いだしたことの説明がつかない。圧政に抵抗する自由、不当な支配と闘う自由は、好き勝手をする自由や私利を優先する自由とは同義ではない。しかし、カウンターカルチャーはこの区別をせっせと崩していった。
(……)
 この二つを区別するために適用できる、とても簡単なテストがある。(…)「みんながそれをしたらどうなるか——世界はもっと住みよい場所になるのか?」 もし答えがノーなら、疑うべき理由がある。これから見るとおり、カウンターカルチャーの反逆の多くは、この簡単なテストに合格できない。》(p.93-95)

《美的判断はつねに差異の問題だとブルデューは主張する。下等なものと上等なものを区別することだ。したがって、趣味のよさの多くは否定系で、「……ではない」という言葉で規定されている。「趣味とは」とブルデューは言う。「おそらく何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他人の趣味に対する厭わしさや本能的な堪えがたさなのである」。音楽の趣味なら、自分が聞くものは多くの点で、聞かないものほどに重要ではないわけだ。コレクションにレディオヘッドのCDが数枚ある、というだけでは充分ではない。セリーヌ・ディオンやマライア・キャリーやボン・ジョヴィを持っていないことも、きわめて重要だ。》(p.144)

《(マイケル・ムーア)は自分が直面している問題の完全に実行可能な解決策を——同胞の生活を改善することが明らかな解決策を——それがラディカルでないとか「抜本的」ではないという理由で見送ってしまうのだ。文化の革命的な変化を強く求めるばかり、それ以下のものは拒絶する。これこそ極端な反逆である。》(p.165)

《制服は個性を排除しないが、個性を表現できる方法をある程度は制限するということだ。すると、競争的消費は緩和される。差異を踏み消すことはできないし、生徒たちの競争を止めることもできない。競争はまだそこにある。ただ、もはや無制限ではない。この点で、制服は核拡散防止条約のものだ。》(p.211)

《ジョン・シーブルックは著書『ノーブラウ』で、古来の「ハイブラウ(知識人)」と「ローブラウ(無教養人)」の対立は市場に絶滅され、いまや僕らの住む世界は、画一的な「ノーブラウ(愚か者)」商業主義の世界だと主張する。しかし、古来のプロテスタント支配層に特有の価値観や文化がかなり影響力を減じたことは間違いないが、地位階層が消え去ったということではない。シーブルック自身は、下位文化(サブカルチャー)がさまざまな意味で、まさに新しい上位文化(ハイカルチャー)になったのだ、と指摘している。》(p.232)

《広告に関しては、人を無防備にする欲望とはすなわち競争的消費を引き起こす欲望である。広告主はさながら武器商人だ。対抗する二つの勢力に戦争をするよう説得はできないが、喜んで両勢力に武器を売る。そして武器商人が戦争を激化させ犠牲者を不安製品を提供することで状況を悪化させるように、広告主は消費者間の競争的消費の影響をさらに増幅する。しかし広告と大量破壊兵器とをひとくくりにする前に、広告が効果を発揮する条件と、その効果を軽減するためにできることを明らかにする必要がある。》(p.241)

《社会があなたに順応を強いていたり、人物ならぬ頭数のように扱っていると感じるときはいつでも、次のように自問することだ。「自分の個性は他人の仕事を増やしているか?」 もし答えがイエスならば、より多く支払う用意をするべきだ。》(p.272)

《過去の半世紀にわたってカウンターカルチャーが政治意識に及ぼしてきた影響力は、つまるところ、ナチスドイツが西洋文明に甚大なトラウマを加えていたことのあかしである。》(p.365)

《では、大衆社会と和解するとは具体的にどういうことか? 最も重要な結果は、政治哲学者ジョン・ロールズが「多元主義の事実」と呼ぶものを受け入れるすべを学ばねばならないことだ。現代社会はとても大きく、人口が多く、複雑になったから、もう全国民が単一の共通の価値観のもとに集結することなど期待することはできない。このような社会はライフスタイルの実験を奨励する。個人は自分なりの生き方を、充足の源泉を見つけ出すように促される。ただし、これには重大な結果が伴う。「人生の意義」のような大きな問いに答える段になると、この個人の自由という制度からはより多くの——その逆ではない——不和が生じる。
 一般的には、これはいいことだ。何を考えるか、誰と結婚するか、どんな職業に就くか、自由な時間に何をするかまで命令されるような社会に生きたいと思う人はあまりいない。しかし、これらを自分で選択する自由があるということは、家族中心の価値観、神の存在、道徳の基準といった人生の重要な問題について、しばしば互いに意見が一致しないことを認めねばならない。不和とともに生きることを学ぶ必要があるのだ。しかも単に皮相的な不同意ではなく、僕らにとって一番大事なことに関する意見の衝突と。さらには、多少のコンセンサスは得られるとの想定のもとに社会制度を築くことはできない。とりわけ国は全国民を平等に扱わねばならず、それはつまり、こうした価値観の分かれる問題すべてに関して、おおむねどっちつかずのままになるということだ。》(p.369-370)

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感想投稿日 : 2020年9月9日
読了日 : 2020年9月9日
本棚登録日 : 2020年9月2日

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