裁かれるのは我なり―袴田事件主任裁判官三十九年目の真実

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  • 双葉社 (2010年6月8日発売)
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冤罪の可能性濃厚な、1966年に静岡県内で発生した強盗殺人放火事件。
未だ再審を争っている袴田事件の被告とされた男性の無罪を確信しな
がら、死刑の判決文を書かざるを得なかった元裁判官を中心に、事件
と裁判の経緯を追うノンフィクションである。

「上手な冤罪の作り方」が書かれていると言ったら語弊がある。しかし、
本書に書かれている静岡県警の捜査や取り調べの様子を読んでいると、
どうしてもそう思ってしまう。

「まず容疑者ありき」で物事が進んでいく様は、冤罪が絶えない日本の
警察権力のモデルケースとして非常に参考になる。

長時間の取り調べや脅し・暴力は勿論、既に公判に入っているのに犯行
時に容疑者が着用していた服が新たに発見される。しかも、事件発生直
後に既に捜索をしている場所からだ。

退職した刑事自らが「静岡は冤罪のデパート」と言うほどなのだから、
こんなことは日常茶飯事だったのだろうか。

「私はやっていません」

公判に臨んだ右陪席裁判官は容疑者のその一言で無実を確信し、警察調書・
検察調書の矛盾を指摘し、多くの供述調書を証拠として採用するのを却下
する。

しかし、3人の裁判官のうち「シロ」を確信するのはひとりだけ。容疑者
の無実を確信しながら、死刑の判決文を書かねばならなかった人は、
苦肉の策として警察の取り調べが人権を無視したあり得べからざるもの
であったとの付言を盛り込むことで高裁での判決に望みをかける。

公判が自分の手を離れてのちも、死刑囚となった被告への罪悪感に
蝕まれる。「自分は殺人者だ」。人を死刑に処すとの判決に名を連ねた
ことの重みはいかばかりか。

袴田事件は現在、第二次再審請求が行われている。無実を訴えながらも
死刑囚として収監されている人は、拘禁反応による影響で弁護団とも
コミュニケーションが取れない状態だと言う。1日も早く冤罪であったと、
釈放されることを祈る。

本書は良書であるのだが、最終章で本事件を題材にした映画の誕生過程を
記していることで提灯本になってしまっているのが少々残念か。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 事件・事故・災害
感想投稿日 : 2010年8月28日
読了日 : 2010年8月28日
本棚登録日 : 2010年8月28日

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