震災ゴジラ! 戦後は破局へと回帰する

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  • VNC (2013年9月26日発売)
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日本人は明治維新以来、過去を否定し続けてきたので、アイデンティティがない。戦後は敗北を認めずアメリカに擦り寄るという変節の上に繁栄を築いてきたので、虚妄である。虚妄は閉塞感を生み、日本人はこの虚妄に耐え切れずに破壊的な自滅願望を持ってしまう。今回の震災でもこれをおおっぴらに歓迎することはしなくても、秘かに望んでいたことは伺える。しかしこれでは破壊と復興の堂々巡りを繰り返すだけである。日本人がカタストロフィーを望むことなく確固としたアイデンティティを取り戻すにはどうしたらいいのか。残念ながら満足のいく答えはなかったけれど、その思考の過程が非常に参考になった。
御厨貴は、震災によって「戦後が終わり、最後が始まる」と言った。戦後の社会システムが機能しなくなり、これを是正するには敗戦に匹敵するくらいの破壊が必要である。だからこのような破壊は、はっきり口にするには不謹慎だが、望ましいのである。映画のゴジラには、敗戦当時の変節による後ろめたさや、戦争で成立してしまった「日本=悪」の図式を払拭すべく、当の敗戦を再現するような巨大破壊が起きてほしいという日本人の願望の現われなのだ。これはゴジラ襲撃が、一種の禊の意味合いを持っていたに等しい。
復興に関しては、「東北から世界へ」などという現実離れしたスローガンが掲げられることが多いが、そのようなものはだいたい失敗に終わるだろう。復旧・復興に必要なのは、「国としてのアイデンティティが明確でなければ、繁栄を築き上げても維持することはできない」と言う自覚のもと、近代日本、なかんずく戦後日本のあり方をシビアに見直すことである。
日本には、本土決戦をやらずに変節したという後ろめたさを持っている。「1945年に戻って本土決戦をやり直したい」という願望と、「虚妄でもいいから、現在の平和や繁栄を維持したい」という願望に引き裂かれている。これを脱却しないうちは、戦後は永遠に終わらないのである。
「望ましい日本」とは、「近代化・欧米化が全面的に達成された日本」なのだから、「望ましい日本人」もまた、「日本人でありながら欧米人と化した存在」でなければならないのである。とはいえ日本人は欧米人ではない以上、彼らは「日本人でも欧米人でもない突然変異」とならざるをえない。そんな人間を「日本人」と呼べるだろうか。
林秀彦は、「明治維新の後遺症は根深い。文明開化をする前に、腰を落として日本民族のアイデンティティを確認する必要があったが、できなかった」と言った。近代化・欧米化をめぐる自らの主体性を突き詰めてこなかったからこそ、従来の方向性が行き詰るや、どうしていいかわからくなってしまうのだ。
護憲派はしばしば左翼と同一視されるが、彼らには日本の伝統を保守しようとする右よりの面も見られる。まず憲法を擁護すると言うならば天皇制も養護することになるのだが、その反面、憲法には戦前や日本の伝統を否定する記述も多い。
戦前はやり方はともかく、八紘一宇ということで世界を一つに平和にしようというスローガンはあった。日本国憲法が国民に支持されてきたのは、「天皇制のもと、世界平和の達成を目指す」ということで戦前を肯定しているからだ。憲法にはアメリカの手で書かされた反省文という側面もあるが、「敗戦・占領という巨大な挫折に直面した近代日本が、なお自己肯定を試みたマニフェスト」という側面も見られる。
戦後とは、戦前を否定しながら、異なる手段によって戦前を継続しようとするものである。
「脱原発」の発想は、「絶対」という価値観において「原発は絶対安全」と同じであり、「戦艦大和は絶対に沈まない」ばかりか、「平和憲法がある限り日本は絶対に脅威にさらされない」という発想とも同じなのだ。
戦後の左翼の運動は主体性がないと批判されている。彼らは「敗北」という言葉を決して使わず、単に運動が「終わった」と言う。だが敗北を認めない以上、責任を取るわけもなく、彼らは決して自己批判もしない。「敗戦」を「終戦」と言い換えたのも、戦争の責任から逃れるという指導層の心情の表れだったのだろう。このような主体性のなさに対し、主体性を持たずに反発したことが、やはり運動や闘争の失敗を認めない左翼の体質を生んだものと推察される。
変節とは、自分にとって切実な意味を持っているはずの状況を、単なる風景へとすり替えて、それでいいと開き直ること。
「禊」の発想は、「本当は歴史の筋を通さないまま、筋を通したかのごとき気分に浸ること」といえる。
「バトル・ロワイヤルⅡ」のせりふ。「敗戦時、日本は、12歳の少年にたとえられた。しかし当のアメリカは何歳か。ムカつく国があればすぐに兵器で空爆する、それが大人のやることか!」我々が「滅びのための滅び」を脱するためには、自分がいまだ12歳の少年であることを認めたうえで、自らの存在やアイデンティティを圧殺しようとする全ての大人と戦う覚悟が必要となる。国民的アイデンティティが崩壊した国の子どもは、政治経済のシステムが崩壊した国の子どもより圧殺されているのだ。
「崖の上のポニョ」がヒットした理由は、「子どもは親がよりどころとするために存在し、その犠牲になる」というメッセージがあったからだ。「生まれてきてよかった」というコピーは、親から見てよりどころとできるものができたから、という意味であった。「スカイクロラ」のコピーは「もう一度生まれてきたいと思う?」であった。今の日本は「生まれてきてよかった」と、「生まれてきてもろくなことはない」ということが同じ意味を持つ国になってしまったのだ。生まれてきても大人の犠牲になるだけ…こんな国に生まれてくる価値があるのだろうか。
マーケティングの対象にするとは、自分たちが売りつけたいものを「良い」「ほしい」と思い込ませることである。ゆえに若者へのマーケティング戦略が確立されればされるほど、若者が独自の価値観を持つことは若者自身の間でも否定的に捉えられるようになり、「大人の商業主義に適応することがかっこいい」となってしまった。それが子どもの場合、「親が喜ぶようなものを自分も「良い」「ほしい」と思うような価値観を植えつけたうえで、「親が喜ぶ子供向けのもの」を売りつける。もちろんこれは子どもが独自の価値観を持つことを許さない。
―まとめ―
明治以降の日本は、アジアで初めて近代化・欧米化を推進するという困難な課題に挑戦し、多大な成果を上げたが、本来のアイデンティティを崩すような振る舞いをおかしてしまった。ようするに変節が入り込んだのだ。変節がある以上、近代日本には虚妄の側面も付きまとうので、自分たちの築いたシステムが上手く機能しなくなってくると、「抜本的な世直し」の名目で、自滅願望が出てきてしまう。
自滅を回避するには、変節はいまさら取り消すことはできないので、虚妄の存在を認めた上で、社会システムをできるだけ効率的なものにしていく、すなわち「虚妄を制御し、それを通じて虚妄と共生する」ことを目指すべきなのだ。日本人は「自滅願望」を持っていることに無自覚なので、これと以下に向き合ってゆけるかが大切である。
近代日本は戦前・戦後を問わず虚妄であり、いったんは繁栄したとしても行き詰まる宿命を負っている。日本人は既存のシステムを破壊してでも、この虚妄性を排除したいと思っている。だが虚妄性を一気に排除しようとしたときにこそ、最大の破局がおとずれる。だから、いっぺんに全てを変えようとするのではなく、ご破算にならないように少しずつ改善していくべきなのだ。これは忍耐の要ることであり、うんざりするような作業だが、一気の改革こそ破局の入り口なのだ。不徹底で中途半端な改善こそ、現実的で、虚妄性が排除されるのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年1月9日
読了日 : 2016年1月9日
本棚登録日 : 2016年1月9日

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