この本の前書きは、
「皆さんは、人類の最大の敵はなんだと考えているでしょうか」といった内容で始まる。
当然「戦争」だとか、「環境破壊」だとか、いやいやその大元の原因を作っている人間の欲望こそが最大の「敵」だとか、いろいろあるでしょうが、著者はそれを「宗教」だとしてこの本を書き始める。
元僧侶なのにキリスト神学を学び、宗教的生活にどっぷりつかりながら、人間にとっての信仰の恩恵をも肯定する著者があえてこのように「宗教は人類最大の敵」とすることに驚きながらも、著者のいわんとすることを追ってゆくとその背景が理解できてくる。
はしょってしまえば、この著者の対宗教観というものは、驚くほど私自身のそれに近く、読んでいて、元僧侶にして神学を大学で勉強し、比較宗教学を講じる大学教授で、これほど自分と同じような考え方を持っている人がいることを知って、ある意味うれしく思ったほどである。
その端的な例が、たとえば、彼自身の子供たちに信仰あるいは宗教の持つ良い面を学んで欲しいと考え、彼らを教会に通わせていたが、ある日、その教会が「キリスト教以外の宗教は邪教だ」との考えを子供たちに教えていることをしり愕然とする。
あるいは、日本の隠れキリシタンを題材に、大学でゼミをしていると、日系の女子学生が泣きながら、彼女の母がいくら話しても仏教を信仰し、毎朝仏壇を拝んでいる、このままでは彼女は地獄に落ちてしまうので、どうしたらよいか、と相談を受ける。
根底には、全ての既存の宗教、特に「一神教」は、その成り立ちからして不可避的に「排他性」をもち、独善にはまることを避け得ない、ということをいろいろな例と資料を駆使して説明した上で、実際の「宗教」のそういった影の部分について、とことん突っ込んだ思索を進める。
一方では、宗教の持つ、あるいは信仰がもたらす恩恵も、自らの体験を元に読者に訴えることも忘れない。
ただ、「現在の」宗教のあり方がそのままであれば、その恩恵をも台無しにして有り余るほどのマイナス要素を持つ、というのが著者の立場であり、それは、私がいつもキリスト教に感じる「排他性」の問題と密接につながり、あえて著者はキリストの愛は常にサタンとか人間の罪と行った影の部分を前提とした二元的な愛である限り、限定的な愛にならざるを得ない、と断ずる。
古くは、ユダヤ、イスラム、キリストの各宗教間の確執や、キリスト内部でのカソリックとプロテスタントの軋轢、またプロテスタンティズムの持つ、どうしようもない独善と排他性、たとえばルターの狂信的とも言えるユダヤ憎悪などを例に挙げながら、そのようなものを必然的に持たざるを得ない宗教がなぜに「愛」の宗教たりうるか、と疑問を呈し、同時に現在の世界の状況を、そういった宗教観あるいは宗教に根をもつイデオロギーの相克と見て分析してみせる。
その分析のひとつひとつはいろいろと違った見方もあるだろうが、これを一つの見方ということで見てみると、そこにはそれなりの納得性も存在する。
対比して、著者は、日本の古事記などに現れる自然崇拝系の考え方や、仏教の中で言われる人間と自然のかかわり方にも言及しながら、特に現在の世界の多数派を締める世界宗教の問題点を指摘しつつ、彼自身の立ち位置を、あるいは考えを書き綴っている。
聞いたこともない著者であり、ふとタイトルに惹かれて読んだ本であったけれど、読んで良かったと思える本であった。
- 感想投稿日 : 2010年6月8日
- 読了日 : 2010年5月22日
- 本棚登録日 : 2010年5月22日
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