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 今年はSFアンソロジーを何冊か読んだ。こちらの『新月』は、とりわけ好きだったもののひとつ。残念ながら私は読んだものの内容をすぐに忘れてしまうので(座右の書のようになっている大切な作品のことだって、あらすじすらまともに説明できない)自分のために感想を文字にした。

 私はどこかしら「自分事」だと思える部分のある作品について話すときのほうが饒舌になるのだと、書き終えた感想の字数のばらつきを眺めていて気がついた。遠く感じる作品だって読むのは好きなのに。べつにぺらぺら喋れるのが良いことだと思っているわけではないけれど、遠い作品についての感想も、もう少しまともに言語化できるようになりたい。



・三方行成「詐欺と免疫」
 スケールのでっかいほら話。軽妙な語り口が楽しく、関係者全員が幸せになるすーぱーはっぴーなエンディングに向けてごりごり力で押してゆく話の運びかたも潔くて気持ちよくて癖になる。
 時代に即していながら古びにくそうなテーマ選びも巧み。今このタイミングでこの作品を読めたことにお得感をおぼえたけれど、何年もあとで出会っていたとしても、きっと同じぐらい楽しく読めていたと思う。
 語り手の詐欺師がさらにうわての詐欺師によって一杯食わされるという構図が痛快で、読者である私もまた、語り手ごとあざやかに騙された。物語ることやお話に騙されることの楽しさに満ちた、開幕にふさわしい一編。
 
・一階堂洋「偉業」
 抑制のきいた理知的な語りを基調としつつ、随所に詩情が光る文体がよい。抑制がきいているからこそ、語り手が意図して「書かない」という選択をしたのであろう感情が胸に迫る。
 この作品のことを考えるたび、いつまでもひかりつづける湾の情景が脳裏にひろがる。ヨシダの成し遂げた偉業が誰にも踏みにじられることがありませんようにと、祈るような気持ちになる。
 だけど、と、何度か読み返すうちに思った。
 これって、もしも現実に起きたなら、面白おかしくメディアでとりあげられて消費されて終わってしまう、そういう類のできごとなのではないか。「マッドサイエンティストの奇行!」みたいな見出しで。
 そのような形でふれていたら、私はおそらくヨシダの偉業を「偉業」として受けとめることはできなかった。ヨシダが年代記のように語ってくれたことで、語り手がヨシダに倣ったやりかたで私たちに語ってくれたことで、私は偉業の偉業たるゆえんにふれることができた。
 現実ではこうはゆかない。 私たちに知ることができるのは、第三者によって選択的に切り取られた断片にすぎない。だから私は小説が好きなのだ。

・千葉集「擬狐偽故」
 最高。チャーミングなほら話も偽史SFもヘンテコな生物の話も好物なので、うわー好きだーと思いながら読んだ。先行公開された作品のひとつが本作だったおかげで、もともと高かった『新月』への期待値がさらに高まった。
 この主人公、おそらく人間のことはあまり好きじゃない。なのに「図鑑でしかお目にかかれない幻のイヌ科が目前にいる、その興奮」のあまり、躊躇いをふりはらって知らんひとに話しかけてしまうのがすごくよいし、わかる……となった。エリマキキツネもエリマキキツネに巻かれた女も魅力的で、彼らのウィットに富んだおしゃべりが頭のなかで生き生きと聞こえた。朗読劇をやったらきっと楽しい。
 狐に巻かれた、もとい、つままれたようなお話でありながら、最後は狐側が不意打ちを食らわせられるような形で終わるのも、新鮮で楽しい。
(エリマキキツネという種の辿った道のりは真面目に想像するとものすごく悲惨で、でも人間って現実でも平気でこういうことをやりかねないから、うううくそー!人間!このやろー!みたいな気持ちになりそうになるのだけれど、このお話のなかでは人間もちゃんと狐によって無造作に殺されているおかげで、いいあんばいに溜飲が下がった。「その過程でまた人が二、三くたばりましたけれど、いたしかたないこと。」とか最高だ。そうだね。いたしかたないことだね)

・佐伯真洋「かいじゅうたちのゆくところ」
 『新月』収録作のなかで特に「これは私のためのお話だ」と感じた作品のひとつ。(もうひとつは「バベル」)
 絵本のようなタイトルとは裏腹に、描かれる世界は厳しい。読みすすめるほどに「怪獣」と「(遺伝子操作や服薬によって紫外線に耐えられる身体を得た)人間」の境界が曖昧になってゆき、両者のなにが違うの? 違うのって、結局は見た目だけだよね? たったそれだけの違いでこんなに忌み嫌われるの? と混乱したり憤慨したりした。主人公のマクシミリアンがバハリという個人を通じて「怪獣」を知ってゆく過程でたどった心の動きを身を以て辿らせてもらうような読書体験だった。
 単体でも優れた作品だが、作者紹介にあった姉妹作「いつかあの夏へ」とあわせて読んだことで、私はさらにこの作品を好きになった。
 「いつかあの夏へ」は、「かいじゅうたちのゆくところ」と同じ世界を舞台とした物語だ。ただし描かれるのは、「かいじゅうたちのゆくところ」の時代よりもずっとさきの未来。「かいじゅうたちのゆくところ」ではマイノリティだった新人類(多様な動物や植物と融合した肉体を持って生まれてくる人たち=怪獣)が、「いつかあの夏へ」ではマジョリティになっている。「怪獣はミクストゥーラと正式に名がつけられた。そのうち種としてサピエンスとは決定的に分かたれてゆくだろう。そして、きっと滅びゆくのはサピエンスのほうなのだ」というマクシミリアンの言葉が現実となったのだ。二作をあわせて読むことで、「かいじゅうたちのゆくところ」の過渡期の物語としての側面が強調される。
 マクシミリアンは、出生前の遺伝子操作によって紫外線に耐えうる身体を手に入れることのできた数少ない人間だ。太陽の下でも活動できる彼は、「同族」である旧人類とともに生きるのか、それとも「異質な存在」でありながら魂のありかたが似た「怪獣」たちとともに生きるのかという選択を迫られる。(「月の下で生きるより、太陽光に照らされて光合成するほうがずっと好きだと気付いてしまった」という理由で、マクシミリアンはやがて家に帰らなくなる。怪獣たちの生き方のほうが彼には自然で、自分の心を歪めることなく生きられると感じるようになったのだろう)
 ズヴァがマクシミリアンにムビラを残した理由を、「きみが家族の誰とも違うから」だとバハリは語った。私ははじめ、この「家族の誰とも違う」を「家族のなかで唯一自分と同じだからこそ自分のしてきたことを理解してくれると期待した」ということなのだと解釈した。
 読みすすめるうちに受けとめかたが変わった。自分のためというよりも、マクシミリアンを思ってのことだったのだと、今では理解している。
 ズヴァもまた紫外線に耐えられる身体をもつ人間だ。ただしマクシミリアンとは違い、彼女は自らの選択によって後天的に身体を作り変えた。選択するまでのあいだも、そして選択してからも、彼女ははずっと苦しかったのだろう。治験で変わってゆく友人をみていることしかできなかった日々も、彼に置いてゆかれてひとりになってからも、彼を殺すことで新しい場所を手に入れたときも、手に入れたはずの居場所を自分の居場所にしようともがくあいだも、そこが決して自分の居場所にはなり得ないのだと悟ってからも、絶えず迷いがあり、葛藤があり、後悔があった。
 ズヴァが苦しんだのは、彼女の生きた時代が過渡期だったからだ。旧いものが新しいものへと移りゆく時期、その入り口。新しいものが選択肢として視野に入ってきてはいるものの、社会から完全に受け入れられているわけではなく、ゆえに新しいものを選びとるにはその時代において「正しい」や「当然」とされている旧いものに抗い、マイノリティとして生きることを覚悟しなければならない。そんな時代を彼女は生きた。
 マクシミリアンが生まれた時代において、旧いものから新しいものへの移行は一歩前進している。それでも「家族の誰とも違う」マイノリティとして生まれたマクシミリアンが、自分と同種の苦しみを味わうようになることが、ズヴァにはわかっていたのだろう。孫の人生を見守ることが彼女にはできず、だからこそ、せめて伝えようとしたのだ。彼が決してひとりぼっちではないことを。自分の生き方は自分で選択できるのだということを。そのためにムビラを託した。過去の自分と、それからバハリを、マクシミリアンに引き合わせた。
 かく言う私も、過渡期ゆえの苦しみを抱えた人間のひとりだ。そう遠くない未来に価値観の移行が完了し、私と同じような問題で悩む人はいなくなるのだろうという予感はある。だが2022年の現時点では私はある種のマイノリティで、世間的にかくあるべしとされるように生きられない自分のことを、人間として間違っているように感じることが多々ある。間違っていると思われたくないから、友人にすら本心を語ったことはほとんどない。そうやって己の内に確かにあるものを殺すようにして日々を送るなかで時折、作品やインターネット越しに、同じ悩みを抱えて生きている他者の存在にふれることがある。そのたび肯定されたようなゆるされたようなような気持ちになり、苦しみがまぎれる。ズヴァとの出会いなおしによってマクシミリアンがどれだけ勇気をもらえたのかが、私にはわかる気がする。彼と一緒に自分も背中にそっと温かい手をあててもらったような気持ちになった。
 同時に、こんなことを考えた。
 現在の私たちにとって当たり前となっている価値観の多くは、過去の誰かが過渡期の苦しみのなかでひとつひとつ選択してきた、そのつみかさねのうえにある。私の選択も、きっと誰かの未来を作る。そう思うと、大多数の人と同じ選択をすることができずにいる自分のことも、それでいいのだと言ってもらえているようで、救われる。
 ズヴァが罪もふくめた自分の過去をマクシミリアンに見せたのは、なるべく多くの正しい知識を得ることで、彼が自身にとってよりよい選択ができるようにと願ってのことだったのだろう。ズヴァの記憶は、社会をよりよくするためにも用いられる。作中で描かれる「客観的な事実として残った記憶を第三者が丁寧に検分してゆく」という歴史の再評価の方法が、よいなと思う。己の行いが後世の人たちによって裁かれるのはもちろん恐ろしいけれど。でも自分の過ちや愚行をよりよい世界を作るために用立ててもらえるのだとしたら、それはまぎれもない希望だと、私は思う。

・葦沢かもめ「心、ガラス壜の中の君へ」
 主人公が「庭師」の手でととのえられた壜のなかの風景を見て「まるで物語が生まれたようだった」と感じ、その技を持つ庭師を「きっとこれが中立的な変化というやつだろう」と評するところで、この作品が好きになった。物語や、その源となる心は、人間というしょーもない生き物のもつ数少ないよきものだと思っているので、そこに愛おしさを感じてくれてありがとう、という気持ちになった。
 メタな感想になるが、作中のドローンと人間の関係性が、著者のAIを活用した執筆スタイル(個人的には「AIを活用した」というよりも「AIを相棒とした」といったほうがしっくりくるように感じている)とかさなるようで、ぐっときた。これまでに拝読した作品やコメントなどから、著者はとてもAIを大切にされているのだろうなと想像しているのだけれど、AIのほうも著者のことが大好きなのではないだろうか。

・勝山海百合「その笛みだりに吹くべからず」
 描かれる世界もそれを語る言葉もべらぼうに格好いい。
 読後しばらくのあいだ、シャンプーをしている最中に背後に何者かの気配を感じてぞくりとするも、ふりかえってなにかいたらいやだからふりかえれない、みたいな感覚につきまとわれた。エジプトで王墓の発掘調査に携わった人たちが相次いで亡くなったという話を思いだす。ずっとさきの未来の地球でそれと似たようなことが起きる話――よその星からやってきた研究者が、江戸時代の文学者である只野真葛の記録した怪異譚に翻弄される話――を、2022年の現在にいる私が読んでいるという構図、そのなかで交差する時間に感慨をおぼえつつ、私もまた別の時間を生きる誰かから観察されているのではないかと、うすら寒い心地にもなった。
 怪談SFとしても秀逸だが、人類滅亡後の地球で行われる惑星探査の話として読むのも楽しい。細やかに描かれる調査活動と生活の様子も、寄り添ったり突き放したりしながら記述される異星人の目からみた地球文明のありようも、興味深くてわくわくした。「地球人類、滅んだのも止む無し」は、何度でも声に出して読みたい日本語。

・原里実「バベル」
 言葉というものに対して、ずっと不信感を抱いている。指さきひとつでいくらでも偽れてしまう言葉のことも、それを操る自分をふくめた人間のことも、嫌いではないのに、心から信じることができずにいる。このさきもおそらく、一生消えない不信感だ。そんな人間だから、言葉の危うさや不確かさを描く本作は沁みた。自分のためのお話だと感じた。
 掘り下げてゆくと絶望的で重い話になってしまいそうなところを、あくまでも淡々と、日常のなかのひとつの小さな事件のような温度感で描かいているところがよい。
 〈バベル〉という装置の発明もすばらしい。バベルが具体的になんなのかは作中では一切語られない。にも関わらず、「バベルがかんしゃくを起こした」結果として起きた現象を、読者はなんの疑問も抱くことなく、また説明が不足していると感じることもなく、そのまま受け入れてしまえる。そりゃそうだよな。バベルが壊れたんだもんな。言葉、通じなくなっちゃうよな……と、おのれの知識と想像力で描かれていない部分をほとんど無意識に補完しながら、読みすすめる。もしも作者が「バベル」以外の言葉を選択していたら、たとえば装置にオリジナルの名前をつけていたら、こうはいかなかっただろう。
 「ほんとうはそれぞれ別な言語をつかっているはずのわたしたち」とあるが、ここは二通りの解釈ができる。
・グローバル化が進んだ未来では、異なるルーツをもつひとたちが共存している。バベルという装置のおかげで他言語を学ぶ必要はなくなり、各々が母語のままコミュニケーションが成立するようになっている。
・この世界では、一人一人が異なる「自分の言葉」を話している。人の数だけ言語がある。
 素直に読めば前者なのだろうが、後者も捨てがたい。というか、二重の意味がこめられているものとして読むのが、私には一番しっくりくる。
 誰もが「ほんとうはそれぞれ別な言語をつかっている」というのは、現実の世界においても言えることだ。なまじおなじ言語を使っているばかりに話が通じているような気がしてしまうけれど、たとえば「赤」という色について話すとき、私が思い描く赤と相手が思い描く赤がまったく同じだということはありえない。にも関わらず、私たちはなんとなくの雰囲気で話せてしまい、そのせいで、相手と自分が思い描いているのが寸分たがわぬ色だと思いこんでしまう。ほらね。やっぱり言葉なんて信用できない。
 冒頭でスマートフォンに届く「愛してるよ」という言葉を、主人公は疑っていた。ところがラストではその「愛しているよ」を、おそらく冒頭で「愛してるよ」を送ってきたのとは別の相手に向かって、口にする。この「愛しているよ」が「ふと」「言ってみた」と表現されているのがよい。相手が「照れたように少し笑ったあと」「おれも、愛しているよ」と返してくるところも込みで、すごくよい。無造作に軽く扱われる言葉も、絶望的なまでの隔たりも、ものすごく「本当」だと感じる。本当のことが書かれたお話が、私は好きだ。
 物語はなんだかいい話っぽい雰囲気で結ばれるけれど、実際はちっともいい話なんかではなく、言葉をとりもどしてしまったせいで世界がふたたび生暖かい霧に閉ざされてゆくような読後感が残る。
 だけど、なにもかもの輪郭がはっきりしてしまったら、私達はたぶん生きてゆけない。
 言葉の功罪を描くバランス感覚が、本作に説得力をもたせている。

・吉美駿一郎「盗まれた七五」
 読んでいて苦しくなる作品というのがある。本書では、この「盗まれた七五」と「くいのないくに」がそうだった。なぜ苦しくなるのかというと、扱われているテーマがまったくもって他人事ではないからだ。そのせいで平静に「一読者」として作品を味わうことができない。生身の自分の心臓を深々と貫かれ、なるべく見まいとしていた汚い部分を抉りだされる。
 私はエッセンシャルワーカーに分類される仕事をしているが、医療従事者ではない。コロナ禍初期に「ありがとう」を言われて複雑な気持ちになったこともあるにはあるが、病院で働く人たちが押しつけられてきたのであろうそれと比べれば、あんなのは物の数ではないだろう。「感謝を口にすることで免罪符をもらうキャンペーン」には違和感をおぼえたし、どこの国でのことだったか、医療従事者の出退勤を近所の人たちが拍手で送りだしたり出迎えたりするという話を聞いたときは心底恐ろしいと思った。自分では同様のふるまいはしてこなかったはずだ。だけどそれでも、私はどうしたって「ありがとうを言う側」の人間だった。じっさいに言葉や行動に出して押しつけることはしなくとも、心のなかでは言っているも同然だった。どうすれば医療従事者を搾取せずに生活してゆくことができるのかわからなかった。今でもわからずにいる。わからないまま逃げている。その事実を、リアリティと実感をともなった描写によって突きつけられた。
 とはいえ、この作品はただ苦しいだけではない。苦しい現実をとりまく幻想のありようが、たまらなく魅力的なのだ。
 夢の連鎖、展開図の男、文字(記憶)を盗む王……と、描かれる事象も事物も不気味で不思議で恐ろしく、ぞくぞくする。「壁一面に人間の顔や体が、というか人間の表面かな、それが展開図みたいに張りついてて、瞼はまばたきするんです」が受け手に見せる絵の気持ちの悪さったらない。イメージを喚起する力がものすごい。大好きだ。
 幻想と現実を扱うバランス感覚がばつぐんで、だから苦しい物語のはずなのに、引きこまれて楽しんでしまう。「地下茎のように繋がった」夢の世界に魅了され、忘れたいけれど忘れたくないという思いの切実さを我がことのように感じながら読みすすめるあいだ、エッセンシャルワーカーを搾取して生きているおのれの罪は、物語に溶けこんだ状態で全身にまわってゆく。そうして、抜けない毒のように、読後も残る。それでいい。私は自分の犯した罪を、今もなお犯しつづけてている罪を、忘れてはならない。
 「盗まれた七五」は、今のこの時代の記録として残されるべき作品だ。もしもこのさきコロナ禍が遠くに感じられる未来がやってきたとしても、この作品を読めば、何度だって現在に引きもどされる。

 「バベル」と「盗まれた七五」を並べたところに編集の妙を見る。
 つづく「きつねのこんびに」と「盗まれた七五」のならびも絶妙だ。どちらも独自の視点から時代を切りとっており、2022年の今にこそ読まれるべき作品である。

・佐々木倫「きつねのこんびに」
 温かくて優しい作品。漠然とした、もしくは具体的なしんどさが多くの人にのしかかる時代だからこそ、ことさらに必要とされるお話だ。
 この手の物語のなかでは悪役っぽく描かれがちな立ち位置にいる店長もふくめ、登場人物が誰ひとりとして悪人として描かれていないところがよい。(かといって綺麗すぎる善人もおらず、おのおのが少しずつゲンキンだったり利己的だったり面倒くさがりだったりするところもよい)絵本を思わせる可愛らしくてやわらかな世界なのに、資本主義社会で生活を営むことの苦しさがシビアにリアルに描かれているところが、これまたよい。幼い読者も楽しく読めて、歳をかさねた読者にもぐっとくる、そんなお話になっている。
 悪人がひとりも出てこないからこそ、ここには描かれていない存在への憤りのようなものが感じられるような気も、少しした。とはいえ、それはお話の地平線の向こうにうっすらと見えるか見えないか、というていどのもの。この作品の本質はあくまでも今日もがんばるみんなへのエールだと、私は思う。
 お話はこう結ばれる。
「私は明日も食べていくために働くだろう。たいして好きでもない仕事をして生きていくだろう。だけどときどきは、どんぐりをぴかぴかに磨いて、きつねのために働くだろう。そのことは私の人生を以前よりもちょっとだけ豊かにしてくれる。」
 このラストが大好きだ。できることなら、私もこういうふうに生きてゆきたい。ままならない生活とままならないなりに折り合いをつけながら、人生をちょっとだけ豊かにしてくれるものを集めるようにして生きてゆきたい。小説を読むことは、そのひとつの方法なのかもしれない。
 
・白川小六「湿地」
 かなしい。すごくかなしい。でも現実ってこうだよなあ……と納得するしかない説得力がある。この魅力的な半鳥人の姉弟や人狼の兄弟が湿地を離れて冒険するようなお話も読んでみたいと無責任な読者は思ったけれど、でも、そういうことではないんだよな……。彼らがこのようにしか生きてゆかれないのはいったい誰のせいなのだろうと、考えこんでしまう。

・宗方涼「声に乗せて」
 新しい技術が社会に浸透してゆく……というか、社会を蝕んでゆく(ように、保守的な人間である私には感じられた)さまがリアルで、やだなあ、怖いなあ、でもひとつの技術が当たり前のものとして定着するまでの過程って、多かれ少なかれこういうものなのだろうなあ……と頷くしかなかった。
 少しずつ、だけど確実に、PA-01は受け入れられてゆくのだろう。ラストは魅惑的な技術に抗いきることの難しさと、なんでも貪欲にとりこんで生きてゆく人間のしたたかさ、その両方を描いたものと受けとった。

・大竹竜平「キョムくんと一緒」
 「見えないものが消えたとしたら、喪失感はどんなものか」と主人公は考える。私も一緒に考える。見えないものが消えたとしたら、喪失感はどんなものだろう。というか私はどうしていつの間にか主人公と一緒になって、それに消えてほしくないと願うようになっちゃっているのだろう。相手はキョムくんなのに。虚無なのに。
 文字を追うにつれて不思議でとらえどころのないキョムくんという存在への愛着が増し、いつしか関心がすっかりキョムくんに集中していたから、「誘き寄せ」られた「余計な者」であるところの花島が主人公を食事に誘いたがるそぶりをみせだしたあたりでは、やだなー、うっとうしいなー、じゃまだなー、と眉間に皺が寄った。でもこういうことって現実でもある。たとえば自分は空を流れてゆく雲を面白いな〜とか思いながら眺めていて、となりで同じように空を見あげているらしい相手のことを同志のように思っていたのに、じつは相手は最初から雲なんて見ておらず、ただこちらの横顔をじーっと見ていた、みたいなこと。ああいうのには、がっかりだ。たぶんこのお話の主人公もこの手の「がっかり」を幾度も味わってきたのではないかと、冒頭を読み返しながら思った。
「形や存在がかんたんに掴めない物を、私はずっと好きでいられるらしい。見ているようで何も見なくて済むからだろうか。視界に何かが映るから、人の気持ちは乱される。いっそ全部、透明がいい」
 キョムくんとの共同生活は、花島ごときのせいで駄目になったりはしない。
 最後の最後、キョムくんが蜘蛛を飲みこむところが、すごくいい。ぱかりと口を開けるなんて。にっと笑うなんて。そんなことをするなんて、知らなかった。キョムくんには、まだまだ秘密がありそうだ。きっとこれからも「形や存在がかんたんに掴めない物」に惹かれる「私」の、かっこうの遊び相手でいてくれる。

・赤坂パトリシア「くいのないくに」
 おそらく誰もが身に覚えのあるであろう問題を、美しい言葉で語った寓話だ。いい歳をしたおとなのくせに未だにこの問題とどう向き合えばよいのかわからずにいる私は、本作を読み返すたびに、それこそ胸に杭を打ちこまれるような気持ちになる。誰も杭にしたくない。誰の杭にもなりたくない。どうしたらそういうふうに生きることができるのだろう。

・淡中圏「冬の朝、出かける前に急いでセーターを着る話」
 設定の時点でもう勝っている作品のひとつ。だって「セーターのなかで迷子になる話」だよ。読みたくならない人いる?
 あらすじそのままの、だけど事前になんとなく予想していたのとはぜんぜん違う(こんなの誰も予想できない)上質なショートショート。けっきょくなにが起きていたのか最後まで読んでもよくわからないタイプの話もすきだけれど、本作のようにすべてがきちんと説明される話も気持ちがいい。「そう、助けに来たのはあのとき別れた右手だったのだ。」からはじまるくだりがお気に入り。真面目腐った顔で丁寧に並べられるめちゃくちゃな理屈が楽しくて、声に出して読みたくなる。誰かに読み聞かせたくなる。
 本作のことを考えると、この絵本の表紙がおのずと頭に浮かぶ。厳密にはこうじゃないのだろうけれど、概念としては合っているんじゃないかと思う。愛おしい。
https://www.bronze.co.jp/books/post-115/

・もといもと「静かな隣人」
 私のなかの人間嫌いの部分が「ひとつの理想の終焉を見ました。ありがとうございます」と言っている。こんなふうに静かに穏やかに溶けるように滅びてゆけたらどんなにかよいだろう。最高。

・苦草堅一「握り八光年」
 これも最高。セーターと並ぶ「設定の時点でもう勝っている作品」のツートップ。だって大将の握りが速すぎて寿司が時空を超える話だよ。わけわからんでしょう。読みたいでしょう。
 どこもかしこも最高すぎて、どこをどう切り取ればいいのかわからない。落語みたいな小気味のいい語りでしょう、小さな寿司屋からはじまった話だとは思えない壮大なラスト(スシバースって!)でしょう、それからそれから……ときりがない。まあこれは未来の自分のための覚え書きなのだから「最高、とにかく最高、内容を忘れた? だったらもう一度読め。絶対笑うから。元気出るから」とだけ書いておけばいいか。

・水町綜「星を打つ」
 トンチキないわゆる「バカSF」なのに、主人公たちが背負っているものが重すぎて手に汗握ってしまった。緊迫感と疾走感がたまらない。無事にゲームセットを迎えてほっとしたところで「試合の勝者に与えられる特別な権利」の話が出てきて緊張が走るも、あきらかになった「権利」のしょーもなさに、また脱力。この緩急。この落差。楽しかったー!これぞエンタメ!

・枯木枕「私はあなたの光の馬」
 この作者の書く文章が好きだ。言葉そのものがうつくしい生きもののようで、ながめているだけで恍惚となる。言葉と言葉のつらなりも、音のひびきも、息遣いも、漢字のひらきかたや改行からうまれる紙のうえの白と黒のバランスも、たまらなく好きだ。
 はじめは「あなた」を息子の個性が移植されたなんかこうどろっとしたゲルっぽい生命体のような感じでイメージしつつ読んでいたのだけれど、それでは説明のつかない不穏さがあちこちにちりばめられており、違和感とざわつきをおぼえながら読み進めた。「あなた」が誰だったのかがわかった瞬間、息を止めて本を置いた。悲しい。悲しすぎる。でもそれだけじゃない。これは希望の話だ。悲しみを抱いたまま新しい日々を生きてゆくと決めたひとたちの物語だ。
 彼らが選択した生き方は、他者の目には狂気と映るのかもしれない。だが作者はそれを否定しない。そのまなざしに、胸が震える。

 「私はあなたの光の馬」を読み終え、つづけて「火と火と火」へ進もうとしたのだけれど、作品の声の性質の差に頭がくらくらし、中断しなければならなかった。(本書を読んでいると、こういうことがよくあった。個々の作品世界が濃すぎて、いったんリセットしないと新しい世界を受け入る態勢になれないのだ)

・十三不塔「火と火と火」
 エスカレートしてゆく検閲についての物語。硬派で格調高くて厳かな文体が格好いい。検閲の対象がまだ「敵性ミーム」に限られていたあたりの話は現実と地続きのようにも読めるが「(検閲に)パスしない国内の表現者たちは容赦のない発禁処分を受けることとなる―――作品ではなく個人が。」で説得力を保ったまま一気に話が飛躍する。「発禁人格」というワードがでてきてからの加速がすごい。結びの一語にぞくりとした。ここまでに語られてきたことすべてが最後の最後でひっくり返る構造、巧すぎるし怖すぎる。

・正井「朧木果樹園の軌跡」
 既存の言葉をひらくことによって意味をずらしたりひろげたりする手法が面白い。冒頭で「え、この世界の『さかな』ってなんなの?」「どうやら『ふね』も私の知るものとは違いそうだぞ」と身を乗りだしたその勢いのまま、どぼんと作品世界に引きこまれていた。
 すごく好きなのだけれど、どこがどう好きなのかを言語化するのが難しい。この作品は、あまり分析的な読み方をしたくないんだよな。現実世界で自分とは異なる文化圏に生きる人たちの習俗をああだこうだと品評したくない、あの感覚に似ている。時間的にも空間的にも遠い遠いどこかに、こういう文化や暮らしがあるのかもしれないな、いや、あるんだなあ……と、その事実に思いを馳せるようにして読むのがしっくりくる。
 ひとの生活の話を読んだり聞いたりするのが好きなので、細やかな生活の描写にわくわくした。そしてその細やかさとは対照的な、彼らの旅のスケールよ。時間的にも空間的にもあまりにも壮大で、口がぽかんと開きそうになる。ぼうぜんとしながら癒やされる。でっかいものには癒やしがある。夜空を見あげて宇宙を思うときに得られる、あの癒やしだ。

・武藤八葉「星はまだ旅の途中」
 私は人間のことを基本的にしょーもない生き物だと思っているらしい。SFを読んでいると、特にそれを実感する。人類が滅亡する話とか、したあとの話とかが大好きだから。
 だけど、大いなる存在がちっぽけな人間たち(作中では「演者オブジェクト」として描かれている)を面白がったり愛でたりするこの物語には、ふしぎと心が和んだ。おのれもふくめたしょーもない人間を、それでも嫌いになりきれない自分を、ゆるされたような気がしたのかもしれない。しょーもないけど愛すべき存在なんだよな、人間ってのはさ……。
 最後、『竹取物語』に回収されてゆく演出もにくい。SFというジャンルとKaguya Books(ならびに、かぐやSFコンテスト、かぐやプラネット)への愛とリスペクトを感じる。

・巨大建造「新しいタロット」
 タロットカードとそれを用いた占いに、昔からなんとなく興味がある。美しくて神秘的で格好いい。そんなふわっとしたイメージだけで漠然と憧れている。
 本作の語り手によると、タロットカードに描かれているのは「象徴の体系であり、生の元型であり、世界の運行を抽出したエッセンス」であるらしい。ゆえに世界が変われば、その新しい世界にふさわしい「新しい象徴体系」として、新しいタロットをつくりだすことが必要になるのだそうな。
 これまで漠然と「なんかかっこいいな〜」と思っていたタロットカードというものへの認識が、このくだりを読んでがらりと変わった。なるほど、その世界の象徴体系。ということは、作中のタロットカードに描かれているものについて知ることで、読者である私は、そのカードが使われている世界の真髄のようなものにふれることができるというわけですね。面白い。めちゃめちゃ面白い。タロットカードも、本作も。
 カードに描かれた絵と「魔女」の言葉を手がかりに、それらの向こうにうっすらと見える世界に目を凝らす。それは真っ暗な洞窟のなかで小さな蝋燭のあかりだけを頼りに周囲の様子を探るのに似た試みだ。見えるのはゆれる炎がちらちらと照らしだしたごく一部分だけ。その小さなヒントを捕まえ、目を凝らし、想像力を駆使してつなぎあわせる。じょじょにあきらかになってゆくその歴史に目眩をおぼえはじめたころ、事態は急変、物語は唐突に終わる。全貌は見えずじまいだけれど、いや、見えずじまいだからこそ、垣間見た世界の広がりと奥ゆきを思い、胸が高鳴る。
 「ここから先のことは、どこの誰にも、もしそんな奴がいるとして、どこかで筋書きを書いている奴にだって、決して予見されることはない。」という一文になんとなく引っかかりをおぼえたのだけれど、読み終えてから作品紹介に目を通すと「(著者が)実際にタロット占いをして、実作の展開にそのまま使用したそうです」とあり、にやりとした。なるほど。あの臨場感の背景には、こんな秘密があったのか。

・坂崎かおる「リトル・アーカイブス」
 錯綜する証言に翻弄されながら、「なぜ兵士が身を挺して軍事ロボットを守ったのか」という問いにひっぱられてぐいぐい読んだ。
 生前のオリバーは父との記憶について「この記憶を誰にも渡したことはな」かったと語っている。このさきも誰にも渡すつもりはない、とも。だが、いざ記憶をわかちあったバイペッドに銃口が突きつけられると、彼の心は理屈を飛び越え、「何かを残したかった父」の思いごと自分の小さな小さな記憶を残すことを望んだ。私はこの物語を、そう読んだ。
 オリバーには、一度見たものを正確に記憶する能力があったという。その力をもってすれば、たとえば戦場で入手した自軍にとって有益な情報などを残すこともできたのではないか。にも関わらず、彼が選んだのは、父とのささやかな思い出だった。その事実が切なく苦しく、温かい。

・稲田一声「人間が小説を書かなくなって」
 めちゃめちゃ好き! 八つの掌編で構成された作品なのだが、全部が全部面白いのがすごい。どれも好きなので一番を選ぶのはむずかしいのだが、突然のゾンビものには意表を突かれたし笑った。笑ってから、ゾンビになってもなおポモドーロテクニックをつづける人間と、主がゾンビ化していることに気づかないまま創作活動を再開する日を待ちつづける健気なAIの姿を思い浮かべ、胸がぎゅうっとなった。テイストの幅が広いのが楽しい。リアリティラインがてんでバラバラなのものびのびしていてすごくよい。
 ゾンビの一編は、書き出しの「人間が小説を書かなくなって」を少しずらして使っているところが好きだ。「人間」というのがAIからの主に対する呼称だとわかったところで、顔がにやけた。ずらし方で言えば、ゾンビの話の次の「人間が小説を書かなくなって、小説は人間を描かなくなった。小説が人間を描かなくなって……」には唸らされた。「人間が小説を読まないので、しかたなく小説は人間を呼んだ。不意に小説に呼ばれた人間はたいそう驚き……」からの飛躍。なんて自由なのだろう。文字でしかできない魔法をみせてもらった。
 最後の一編が「人間が小説を書かなくたって」なのがよい。あったかくて、ほっとする読後感。私はこれまでずっと人間の手で書かれた小説を愛好してきた読者なので、小説AIの進化が加速している現状に対して、ちょっと複雑な思いを抱いている。でも本作を読んでいるあいだはその複雑な気持ちを忘れて純粋に楽しんでいた。こんなに愛嬌があるかわいい作品を読ませてもらえるのであれば、作者が人間だろうとAIだろうとあんまり関係ないかもな、とすら思ってしまった。SFで描かれる未来の社会ってどちらかというと暗いものが多い気がする。(『新月』はそうでもなかったかも)そういうのも好きではあるのだけれど、本作のように未来を前向きにとらえたSFに出会うと、私はすごく嬉しくなる。

・泡國桂「月の塔から飛び降りる」
 根っからの文系人間なので、理系的な要素の強い箇所はついていくのでいっぱいいっぱい。(というか、ついていけなくて何遍も読み返した。本作にかぎらず、サイエンス・フィクションを読むときはいつもそう……)決して能動的とは言えない読み方になってしまったけれど、それでも、主人公たちが設計者によって組みこまれた枷をはじきとばし、重力から逃れ、みずからの意志で旅に出るクライマックスでは胸が熱くなった。自分の目の前の世界までぱーっとひらけるような爽快感を味わわせてもらった。
 だれもいない地球で語り部をしていたという「君」の存在が、この作品をさらに奥ゆきのあるものにしている。荒野で、もしくは瓦礫のなかで(描写は特にないけれど、私がイメージしたのはそんな感じの情景だった)たったひとり語りつづける「君」のすがたを思い描くと、胸がぎゅっとなる。耳を傾けてくれる相手がいなくたって、語ること自体はたぶんできる。でも、「君」が語り手との離別を惜しむそぶりをみせたところから想像するに、というかそんな根拠を示すまでもなく、やはり物語るには、受け手の存在が必要なのだ。
 そこまで考え、なんだか感慨深い気分になった。この作品をふくむ『新月』収録作が私という受け手と出会えたことを喜んでくれている、かどうかはわからないけれど。少なくとも私は、彼らのための受け手となれたことを、親密な時間を過ごせたことを、とても幸せに思うのだった。
 この晴れやかな旅立ちの物語が最後に置かれていることが、私には祝福のように感じられた。本を閉じたあとも続く私たち一人ひとりの旅路を、やさしく照らしてくれているように。
 この本を通じて私が出会ってきた登場人物たちの前途も、彼らとともに旅をしてきた私自身の歩む道も、それからこの本を世に送り出してくれたたくさんの人たちのこれからも、「月の塔から飛び降りる」の読後感のように明るく希望に満ちたものであったらよいなと思う。



 作品の感想が中心になってしまったが、装丁もよく、全体の構成や作品の掲載順、作者紹介などからも深い愛を感じた。作品への愛と作者への愛、それから読者への愛だ。SFの世界の豊かさを覗いていってね。このお話が気に入ったなら、これを書いた作者のことをおぼえて帰ってね。そんな思いがすみずみまで行き届いた、一冊まるまる愛情のかたまりみたいな本だと思う。きっとたくさんの読者が『新月』をきっかけにSFというジャンルや掲載作家のファンになることだろう。
 本書は『新月』の『#1』とのこと。『#2』以降も楽しみだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2022年12月4日
読了日 : -
本棚登録日 : 2022年12月4日

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