プリーモ・レーヴィ: アウシュヴィッツを考えぬいた作家

著者 :
  • 言叢社 (2011年10月1日発売)
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 立命館大学国際平和ミュージアムで現在開催されている「プリーモ・レーヴィ展」(2011年12月17日まで)を監修した著者が、展示パネルのために書いたテクストをもとに綴ったこの作家の評伝。すでにレーヴィの作品のうち4冊の翻訳を世に送り、その一行一行に通じた文学研究者による評伝らしく、『アウシュヴィッツは終わらない』(原題は『これが人間か』)、『休戦』、『周期律』といった作品の叙述の説得的な読解から、「アウシュヴィッツとは何か」という問いに半生を懸けて向き合い続けた作家の生涯が浮かび上がる。とくに、学生時代に化学を志し、化学の教養ゆえに生き延びることのできたアウシュヴィッツの地獄からの帰還後も化学者としても活躍していた彼の一面を跡づけて、その経験がSF的な色彩の作品に、あるいは彼の自己省察に生かされていたことを示している点は興味深い。また、『アウシュヴィッツは終わらない』のような作品の成立過程なども詳細に辿られている。先日、原民喜の『夏の花』のもとになった、被爆の経験を書き残すことを「天命」として克明に綴ったメモ帳を見せてもらう機会があったが、レーヴィも同様に、アウシュヴィッツからの故郷へ戻る途中で滞在することになった収容所で、アウシュヴィッツでの経験を、これを語るために生き残ったという使命感をもってノートに記録し始めていて、それが前後関係の明確な『アウシュヴィッツは終わらない』に結実したという。そして、これや『休戦』のような作品と、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』との対比も重要だろう。フランクルが一定の信仰にもとづきながら極限状況を生き抜くことをヒロイックに美化する面があるのに対し、レーヴィはけっして信仰やイデオロギーに依存することなく、彼自身を含めた人間とその内面を、生き残るための狡知も含めて好奇心をもって観察する姿勢を崩さないのである。そうして彼は、「アウシュヴィッツとは何か」という問いに、自死に至るまで取り組んだわけだが、それが身を抉るような苦しみを伴ってもいたという点は見過ごせない。最後の作品となった『溺れるものと救われるもの』に現われるように、レーヴィは、自分だけが「最悪のもの」として生き残ったことに対する罪悪感に戦後ずっと苛まれていただけではなく、レジスタンスに加わっていた時期に、組織の規律を乱した仲間の殺害を経験したことも、心の重荷として背負い続けていたのだ。さらに彼は、戦後のユダヤ人のあいだで「アウシュヴィッツ」を繰り返さないという立場を貫くことの困難にも直面することになる。それでも彼は、人間への関心をもって問うことを止めなかったのだ。たしかに、著者が述べているように、レーヴィの詩や、ジル・ドゥルーズ、ジョルジョ・アガンベン、カルロ・ギンズブルグといった人々によるレーヴィの証言についての考察などへの立ち入った論及は見られないが、作家レーヴィに近づくために最初に読まれるべき評伝として、充分すぎるほどの内容を含んでいる。友人たちの証言や最近の調査に関するエッセイも実に興味深い。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 文学
感想投稿日 : 2011年11月16日
読了日 : 2011年11月15日
本棚登録日 : 2011年11月16日

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