史上最大の経済改革“明治維新"

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  • イースト・プレス (2013年11月7日発売)
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つい1か月前に終わった都議会選挙、この数年に行われた国政選挙でのスローガンには「改革」という言葉が必ずのように含まれます。私達を取り巻く生活は、インターネットやスマホのお陰で変わってきていると実感できますが、経済や政治の仕組みはどうでしょうか。あまり変わり映えしないような気がします。

さて、この本は明治維新を経済改革という観点から見て、武田氏によって書かれた本です。明治維新とは、江戸時代から大きく変わった革命のようなものだと、私は朧げながら感じていますが、経済・社会の大変化が起きた、ということがこの本を読むことで分かりました。

特にこの変化において、士族が最も割を食って、農民が得をしたことになっているようです。両親から昔、私の家系は士族であると聞いたことがありますが、私の三代から四代前の祖先達は、凄い時代に生きたのだなと思いました。

以下は気になったポイントです。

・明治維新にて日本は軍事強国となったが、それになるためには莫大な資金が必要である。日本が成功した理由は、その資金を調達できたことである。つまりは経済的な成功である、支配階級であった武士階級は、全国の土地所有権を農民に無償で解放した、世界史の常識ではあり得ないような改革を実行した(p2、3)

・版籍奉還、廃藩置県、四民平等などの諸改革は財源を確保するために行ったようなもの、明治維新とは、単に支配者が変わっただけではなく、各地域がバラバラに統治していた「封建制度」から、中央政府が国全体を統括する「近代的統一国家」になった、統治システム自体が根本から改革された(p13)

・大政奉還後、朝廷としては背に腹は代えられず、幕府に献金を要請した。幕府は当初難色を示したが、朝廷の実情を知り5万両を献金している、鳥羽伏見の戦いは、薩長と岩倉具視が巧妙に仕掛けた「幕府転覆戦争」である、政治的には完璧であったが経済的には無計画であった(p15)

・江戸開城は、実は、官軍は経済的理由から江戸を攻撃できなかった、軍資金がなかった(p17)

・1868年、二条城の大広間に、大阪・京都の商人130人が集められ、300万両を拠出してほしいと、太政官からの通達が発せられた。そのなかで積極的に協力したのが、三井家である。結局、明治二年の段階で、267万両集まった、これにより官軍は遠征できた(p22)

・鎌倉時代から江戸時代の700年間は、武士が実権を握っていた、年貢収入は生産高の30-40%であった、人口5%の武士が独占していた(p24)

・明治政府は鳥羽伏見の戦いにより、徳川家の領地を没収するなどして、合計860万石の直轄地を持ったが、財源は全く足りなかった(p26)

・官軍の中心であった4藩が版籍奉還をしたので、他の藩が反発するのは難しかった。江戸時代までの価値観ならば自藩の領地を拡大するのが当たり前であった。逆に自らの領地を朝廷に差し出した、明治維新は日本のために行ったというメッセージを与えた(p27)

・版籍奉還とは、藩主がそのまま知藩事とされたが、これは驚天動地の変革であった、これまでは藩主は世襲で受け継がれたが、それが一代限りとなった(p28)

・諸藩から租税収入のうち、10%は知藩事の収入、9%は海軍費として政府へ納入、9%は陸軍費として自藩で陸軍を創設・運営させた、残りが藩士たちの俸禄とした。結局は、海軍費は4.5%となった(p30)

・廃藩置県の何が改革だったかというと、1)行政権を藩から国に移した、2)徴税権を藩から国に移した(p33)

・薩長の藩士は、幕末の騒乱、戊辰戦争で第一線で戦ってきたが、多くの藩士はろくに恩賞も与えられないまま、武士の特権がはく奪され、藩が解体された。西南戦争、萩の乱は、その不満のために起きたもの(p34)

・将軍や大名が幕臣、藩士に払っていた俸禄を、明治新政府がまとめて秩禄(上級武士は7割、中下級武士は3-5割の削減)という形で払い続けていた、藩は廃止しても、武士への財政支出は残っていた(p38、39)

・明治六年には、士族除籍制度を拡充し、秩禄奉還した場合には永世禄・終身禄を支給した、家禄が廃止の方向になっていることを意識させた、明治9年にはついに秩禄を廃止し金禄公債を配布する、秩禄処分を実施した(p40、41)

・明治6年に出された、新旧公債証書発行条例は、事実上の徳政令であった。内容は、1)棄捐令を出した天保14(1843)以前のものは破棄、2)旧幕府、個人に属する負債は対象外、3)藩債は、慶応3(1867)以前と以後に区分して償還する(p45)

・江戸時代の大阪の豪商34家のうち、維新期に23家が破産・絶家、勢力保持できたのは、9家に過ぎなかった。明治新政府が財源を確保できたのは、武士と商人の犠牲による、株仲間の制度は明治5年までに撤廃され、自由参入が認められた、課税関係も商人の特権ははく奪された。(p46、47)

・明治政府の行った代表的な自由化政策は、1)職業選択、2)交通、3)居住移転、4)土地売買の自由である。(p51)

・地租改正とは、米で納付していたものをお金で納付するようになったというようなものではない、農民のインセンティブを拡大させ、日本の農業を飛躍的に発展させた。一部には負担が増えた農民もいたが、大部分の農民の負担は減っている。幕府領(天領、税率は低めであった)の農民には負担増となった、農民一揆のほとんどは旧幕府領(p52、56、58)

・明治以降に商工業が発展した原因として、四民平等・職業選択の自由の影響は非常に大きい。農業で余った労働力が商工業にシフトすることで、商工業の拡大が可能となった(p53)

・地租改正で定められた新たな税率は、土地代の3%、これは収穫米の平均代価の34%程度、これは江戸時代の年貢と同等か若干低いレベル。江戸時代は収穫高に応じて年貢率が決められた、それに対して、地租改正はあらかじめ決まった額の税金を納めるのみ(p57)

・明治初期の政府収入は、紙幣収入、公債、借入金(合計3分の2)であり、租税収入は2割しかなかったので、版籍奉還・廃藩置県により税収入を一括化した(p59)

・明治6-14年(農地宅地は明治9年、山林原野は14年まで)まで、地租の基準額を決めるための土地の調査が行われた、この土地調査が近代国家をつくる上で非常に大きな役割を果たした、全国的な検地は豊臣秀吉以来。この調査により、改正前は3222万石であったが、実は4684万石あることが判明した(p61、62)

・明治政府は、近代的な意味での所有権は、農民に与えた、これは農地解放そのもの。農地を耕作していた農民たちに日本全国の農地を分け与えた。これほど大規模な農地解放は未だかつてない。戦後の農地解放はそれほど大きくない。当時の小作地は全農地の46%、小作農は農民の半分以下。地租改正とは比較にならないレベル、つまり明治維新は武士の犠牲の上になされた革命である(p64)

・地租改正では、農民が自分で農作物を決められるようになった、これまでは幕府や藩が決めえた農作物をつくるのが原則であった(p65)

・明治9年には農民一揆(三重、茨木、和歌山など)が起きたのを見て、3→2.5%に減額した、江戸時代より20%程度の減税。(p66)

・日清、日露戦争では、庶民(農民)への負担増加は極力避けられた、日清戦争では直接税増税は全くなし、日露戦争においてもそれほど大きな増税なし(p67)

・明治4年には、賤民廃止例によって、「被差別民」と分けられていた身分制度をなくした。これにより四民平等が完結した(p100)

・明治27年(1894)には、株式会社の制度が本格的に導入されて、会社の数が急激に増加した、明治15年には東証の上場企業は9社であったが、明治20年には34、明治30年には117社になった(p121)

・諸外国に対抗するために、政府は台湾出兵後に、岩崎弥太郎の会社「三菱商会」に委託した、これが三菱財閥の起源、明治9年には日本の開港間の航路は日本船が89%(p124、125)

・外国商人に対抗するために、日本国内の零細業者からあらゆる輸出品を買い取り、それを外国商人の手を通さずに外国で売る、そのためにつくられたのが総合商社である、三井物産は日本の貿易の2割(p129、130)

・明治政府は、上海・ウラジオストクから長崎までの海底線の敷設権、長崎ー横浜の海底線敷設権を、大北電信会社(デンマーク皇室、ロシア皇帝が株主)に与えたが、本州ー九州間は自前で開通させた(p134)

・明治39年の水力発電による送電開始により、電気料金が安くなり、工場ではボイラーから電気への動力源となった(p137)

2017年7月23日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2017年7月21日
読了日 : 2017年7月23日
本棚登録日 : 2017年7月11日

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