新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い

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  • 宮帯出版社 (2014年10月10日発売)
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戦国時代を終焉させる上で重要な戦いである「関ヶ原の戦い」が実際にはどのように行われたのかを検証した解説本です。

私が高校時代に習い、そしてその後にテレビや本で理解してきたこの戦いは、どうも恰好良すぎて脚色されているのではと、秘かに思ってきました。

この本は江戸時代初期から末期にかけて、私達が関ヶ原の戦いには欠かせない有名な場面と認識しているもの(諸大名を決断させた小山評定、午前中は一進一退、家康の指示による鉄砲発砲による小早川の裏切り)が、後で脚色されたものであると結論づけています。

また、関ヶ原の戦いを行ったときには、徳川家康には、正式な軍の指揮権がなかったこと、が明らかにされています。幕末の戦いを見て分かるように、権力を握ってしまえば、その時の法律・規則に違反しても問題ない、という良い例を本件においても確認できました。

激動の時代に権力を取った者の考え方、そして、それを取り巻く人達の行動の仕方については、現代においても参考になる点があると思いました。

以下は気になったポイントです。

・石田三成方の諸将が打って出て戦ったという記載がなく、まさに布陣しようとしたところを小早川秀秋が裏切ったので敗北した、という記載が注目される(p17、41、83,84)

・関原始末記の記載は、当代記よりも、記載量がはるかに多くなり、諸将の動きが非常に詳しく記されている(p24)

・現在の我々がよく知っている関ヶ原合戦像は、当時の真実を伝えるものではなく、後世の江戸時代に軍記物などの編纂資料の内容をもとに誕生したとみなせる(p28)

・関ヶ原合戦以前の時点で、慶長5年(1600)7月に、石田・毛利連合政権が成立し、家康は公儀から排除された(p34、149)

・鉄砲の撃ち合いの後はすぐに白兵戦へ移行した、この場合、1500石クラスの武士でも、実際に鑓で戦った(p58)

・通説では、鉄砲→弓矢→長柄槍→白兵戦→追撃戦、であるが、鉄砲から白兵戦となっている(p59)

・通説で裏切ったと指摘されている、赤座・朽木は記載がない点は留意される(p82)

・小山評定について、同時代の一次史料には直接言及されていない、家康が7月25日に小山へ来るように命じた書状は一通も残っていない(p95、99)

・岐阜城攻城における家康方諸将の構成が、そのまま関ヶ原の戦いでも展開された(p109)

・問鉄砲の話は、関ヶ原の戦い当日の状況を伝える一次史料には記載がない(p122、151)

・我々が良く見る布陣図は、明治時代になって参謀本部ば創作したフィクションであることが明確になった(p198)

・関ヶ原の戦いは、「石田・毛利方の公儀軍」対、「公儀から排除された家康方の軍勢」という対立となる(p220)

・関ヶ原合戦において、家康に味方して戦った部将は、それほど多くない。徳川家以外では、東海道外様グループと、遠国外様グループの合計4万人程度、石田・毛利連合政権が動員できたのは、19万人(p223)

2015年7月18日作成

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史・世界史
感想投稿日 : 2015年7月18日
読了日 : 2015年7月16日
本棚登録日 : 2015年7月15日

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