「資質・能力」と学びのメカニズム

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  • 東洋館出版社 (2017年5月29日発売)
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新学習指導要領について。
以下、本書より。

【教科は非常識】
2004年、国立天文台の研究者が小学校4~6年生を対象に調査したところ、約4割の子供が「太陽が地球の周りを回っている」と答えました。
結果は学校でも報告され、担当者は「現在の小学校の学習内容は極めて不十分」と断じ、ちょっとした論争になりました。

興味深かったのは、当時、天文台の主張を支持する人たちが「地動説くらい常識だろう」といとも簡単そうに語っていたことです。
これには心底驚きました。

もちろん、今日では大人なら誰しも地球が動いていることを知っています。
しかし、初日の出を拝みに行って「おお。新しい年も地球は高速で自転しながら公転しているぞ」なんて感覚を持つ人は多分どこにもいません。
今日でも素朴な人間の感覚経験としては、動かない大地の上を太陽が東から西へと巡るのであり、天動説の方がずっと自然な世界観なのです。

この素朴な感覚経験は心理学でいうインフォーマルな知識、理科教育でいう素朴概念の一種であり、人間の思考において極めて強靭で支配的に作動しています。
だからこそ、永年に渡り人類は天動説を常識としてきましたし、カトリック教会は宗教裁判の末にガリレオを幽閉したのです。
言うまでもなく、カトリック教会は大常識派でした。
コペルニクスやガリレオがすごいのは、いかに天動説に矛盾する計算結果や観測データを得たとはいえ、それを根拠に永年の人類の常識、自身の感覚経験の方を疑い、ついには地球の方が動いているという、当時からすればおよそ非常識な理解に到達したことでしょう。

データの存在がただちに科学的発見を導くわけではないことは、科学史の研究に基づきハンセンやクーンが明らかにしていた通りです。
そこには飛躍的な認識のジャンプ、クーンのいうパラダイムシフトを必要とします。
この「科学的に正しい非常識」を生み出すことこそ科学の本質であり、科学のかっこよさなのではないでしょうか。

これは自然科学に限りません。
芸術の世界でも同様で、ピカソもジャクソン・ポロックも、当初は「あんなもの絵じゃない」と酷評されました。
彼らの作品は当時の美の常識では理解しがたい代物であり、およそ非常識な造形だったのです。
そして、ピカソもポロックも戦い続け、ついには教科書にすら掲載されるようになります。

教科は、学問・科学・芸術などの文化遺産を足場に構成されます。
したがって、そこで教える知識や価値の多くは『現在では常識であっても、生み出された当時はおよそ非常識な代物』でした。
そして、日常の生活経験だけでは到達するのが困難な非常識なものであるがゆえに、人々をして自分たちがはまり込んでいる生活世界の相対化を促し、それを根こそぎ改革する力を秘めているのです。

たとえば、1789年に始まるフランス革命以前の社会において、人々が「平等」であることは決して常識ではなかったでしょう。
だからこそ1762年、その文字通り革命的な観念を高らかに宣言したルソーの『社会契約論』そして『エミール』は発禁となり、彼はフランスを追われたのです。
しかし、ルソーの著作によって目を開かれた人々は市民革命を敢行し、旧来の常識は徐々に書き換えられていきます。
「知は力なり」とはこのことを意味するのだと、私は理解します。

『教科は非常識であるがゆえに素晴らしい。』
教師がこの真実を深く胸に刻み、その時代の非常識を次世代の常識へと変えていった革命的な知識の生成と、それを可能とした独創的でありつつ理にかなった「見方・考え方」、認識方法や表現方法の世界にいざなう時、子供たちは教科のかっこよさに目を見張り、その系統との出合いを通して、日々自分たちの世界観を、さらに現実の世界をも、今より少しでもよりよいものへと更新し続けていくでしょう。

子供たちが学校で学ぶことの幸いに気付くのは、そんなめくるめく経験を得た時ではないでしょうか。
本来バラ色の経験であるはずの教科学習を灰色の無味乾燥な暗記ものに貶めたのは、「地動説くらい常識だろう」といとも簡単に言い放つ、いかにも思慮の浅い無教養な大人たちなのです。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年5月31日
読了日 : 2019年5月31日
本棚登録日 : 2019年5月31日

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