- Amazon.co.jp ・本 (356ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000019453
作品紹介・あらすじ
本来、私的な自由である「表現の自由」が、民主政にとって必要不可欠とされるのはなぜなのか。アレント、ハーバーマス、ロールズらの読解を通じて、表現の自由の意義について鋭い考察を加える。また、「萎縮効果論」に着目しながら、アメリカとドイツの判例を詳細に分析、「表現の自由論」の再構築を試みる。
感想・レビュー・書評
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市民的自由との関連性とそれに付随する萎縮効果論が中心。「公共」については、ハーバーマスやアレント等々憲法学ではあまり触れられない思想家が引用されており、政治学的テーマに結構入り込んでいる印象。「表現の自由」は民主政と深く関わるので当然と言えば当然なのだが、ある種の学問のタコツボ化により条文解釈に固執し、そこまで関心を持たない憲法学者が多いのも事実であるように思える。
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「BOOK」データベースより)
本来、私的な自由である「表現の自由」が、民主政にとって必要不可欠とされるのはなぜなのか。アレント、ハーバーマス、ロールズらの読解を通じて、表現の自由の意義について鋭い考察を加える。また、「萎縮効果論」に着目しながら、アメリカとドイツの判例を詳細に分析、「表現の自由論」の再構築を試みる。 -
【書誌情報と内容紹介文】
価格:本体5,700円+税
刊行日:2008/12/18
ISBN:9784000019453
版型:A5 上製 カバー 370頁
本来,私的な自由である「表現の自由」が,民主政にとって重要とされるのはなぜか――.アレント,ハーバーマス,ロールズらの読解を通じて,表現の自由の持つ意義を鋭く考察.また,「萎縮効果論」に着目しながら,アメリカとドイツの判例を詳細に分析,表現の自由論の再構築を試みる.従来の学説・実務に反省を迫る,俊英の力作論文集.
■著者からのメッセージ
“本書は,私が前著『民主政の規範理論――憲法パトリオティズムは可能か』(勁草書房)の刊行以後,問題関心を維持しつつ表現の自由に関して書いてきた諸論稿をまとめたものである.
本論を読んでいただけばわかるのだが,私の関心は,表現の自由が民主政にとって必要不可欠であるとは,どういう意味においてかという問題を回りつづけている.たとえば,私は通勤途中や昼御飯を食べに出るとき,毎日のように百万遍の交差点を通るが,そこにはしばしば拡声器を用いた演説をする人や,ビラ配りをする人がいる.政治的主張を訴えているのだ.だが,率直に言って,私は,彼ら,彼女らは無意味な行為をしているのではないかという思いを禁じえない.演説を聞いている人は誰もいそうにないし,ビラを読む人数が二桁いるか,かなり疑わしい.彼ら,彼女らが演説をしようがしまいが,ビラを配ろうが配るまいが,世の中が変わるなどということはありそうにない.
しかし,では彼ら,彼女らの行為は,円滑な通行のためとかゴミを減らすためとかいう理由で簡単に取り締まってよいものなのだろうか.そうではない.表現の自由への配慮が必要なのだ.しかし,なぜ? 表現の自由の根拠づけについては非常に分厚い議論の蓄積があるが,政治的表現の自由は民主政過程にとって必要不可欠の要素であるという理由は,その主たるものとして一般に承認されている.しかし,あってもなくても国家の,あるいは市のレベルでも,意思形成に関係なさそうな表現行為を弾圧することが,なぜ民主的意思形成過程を歪めることになるのか.
もう一つ,私が得心できないでいたのは,表現の自由法理においてしばしば用いられる萎縮効果論という考え方である.人々が制裁の危険から萎縮してしまうことを防止するために,広めに表現活動を保護する必要があるというのだが,なぜ表現について特にその萎縮を心配する必要があるのだろうか.他の自由においてそうであるように,萎縮するのもしないのも,自由を行使しようとする人間の判断に委ねておけばよいのではないのか.
私は本書で,これらの問題に対して私なりの解答を与えようとした.個々人の表現の自由の行使が無意味に見えるまさにその点にこそ,その公共性を見出す端緒が存在する.表現の自由の公共性ともろさを承認し,それに法的に対応することなしに,憲法が想定する自由な民主政を発展させることはできない.”
(「まえがき」より一部抜粋)
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【目次】
題辞 [iv]
まえがき(二○○八年一〇月 毛利透) [v-vii]
初出一覧 [viii]
目次 [ix-xiv]
I
第一章 自由な世論形成と民主主義――「公共圏」における理性 003
一 憲法学体系と「公共圏」 003
二 「切断」の典型例としてのカール・シュミット 005
三 公共的理由」による公共性 007
四 public reason ≠ public use of reason 012
五 憲法学への示唆 016
注 019
第二章 市民的自由は憲法学の基礎概念か 025
一 問題の所在 025
二 自由と理性 028
1 自由への恐れ
2 自由の権力性とは何か
3 公共討論の意味
三 市民とは誰か 035
1 政治に参加する人々は少数であること
2 「大衆」と「市民」
3 市民的自由を保障する意味
四 憲法への要求 045
注 046
第三章 市民社会における法の役割(の限界) 055
序 社会と法 055
一 市民社会論の憲法的意味 057
二 NPOと「政治団体」 059
三 市民社会への法的規律の正当化論(への疑問) 062
1 コミュニケーションの体系的歪み
2 法的対処の可能性
注 068
II
第四章 結社の自由,または「ウォーレン・コート」の終焉と誕生 073
一 NAACP v. Alabama 073
二 「親密な結社」と「表現する結社」 077
三 芦部信喜とフランクファータ、または強制的開示の「抑止効果」 082
四 ウォーレン・コートの始動 092
五 再びNAACP v. Alabama 095
注 097
第五章 アメリカの表現の自由判例における萎縮効果論――ウォーレン・コートからバーガー・コートへ 105
はじめに 105
一 Thornhill 判決の復活 110
1 当初の理解
2 ブレナンの登場と抑止効果論の一環としてのソーンヒル理論
3 抑止効果をめぐる最高裁の揺れ動き
二 New York Times Co. v. Sullivan へ 126
1 リベラル派の優位――「息継ぎする空間」の保障
2 Sullivan判決
3 サリヴァン判決をめぐるいくつかの神話について
4 リベラル派の攻勢
三 曲がり角としてのDombrowski 判決 155
1 ブラックと動揺とCox v. Louisiana
2 Dombrowski 判決における理論の深化と「萎縮効果」
3 マッカーシズムの克服と問題領域
4 萎縮効果論をめぐる攻防
5 もう一つの攻防戦―― Time, Inc. v. Hill
四 O'Brien 判決とBrandenburg 判決の意味 186
1 新たなる基準―― O'Brien 判決
2 フォータスの遺産―― Brandenburg 判決
五 一九七○年代前半の方向性 197
1 バーガー・コートの始動
2 「主観的」「憶測による」萎縮
3 Broadrick判決
4 Gertz判決
おわりに 221
注 226
第六章 ドイツの表現の自由判例における萎縮効果論 243
一 一九八○年代まで 243
はじめに
1 「リュート」とそれらへの批判――七〇年代初頭まで
2 萎縮効果論の登場――八〇年代まで
3 学説の対応と理論的検討
二 一九九○年代 260
1 一九九○年の諸判決――カテゴリカル・アプローチと萎縮効果論
2 「兵士は殺人者だ」事件までの諸判決
3 学説の反応
4 その後の諸判決
まとめ
三 二○○○年代 286
1 過去と未来の区別
2 ホフマン‐リームの表現の自由論
3 カテゴリー相対化
4 シュトルペ事件判決
5 部会による確認
6 批判的検討
注 304
III
第七章 立川反戦ビラ訴訟高裁・最高裁判決への批判 321
一 東京高裁判決の一般論は受け入れられない 321
二 具体的衡量にあたっては、市民の政治活動の重要性と、その萎縮しやすさを考慮に入れなければならない 324
三 どのように衡量すべきだったか 328
1 被告人らの立入り行為の穏当さ
2 ビラ配り禁止の掲示について
3 居住者の不快感について
4 結論
四 最高裁判決について 332
注 337
あとがき [343-349]
判例索引 [4-7]
事項・人名索引 [1-3]
【抜き書き】
・本文は二重引用符“ ”で、注は黒四角■ではさんでいる。
・いまのところアーレントを論じる第二章がメイン。まず第二節の末尾から。
□32-33頁
“筆者は正義への配慮が必要ないということを言っているわけではない。法が各市民に対し直接正義への配慮を義務づけるべきではないと言っているのである。政治活動をおこなおうとする者にあらかじめ理性ないし正義への配慮を法的に求めることは不要であり、かつ実際の議論をゆがめる危険が大きい。そのような隠れた理性に信用を置くべきではない。公私の区別、正義と善の区別は、具体的にそれを決めなければならない場面においては、当然論争的である。各個人が自分の頭で引いた線引きが一致している保証はどこにもない。むしろ、自身がその社会で置かれている立場によって、何が社会共通に受け入れられる根拠であり、何がそうでないかの判断も影響を受ける。一定の線引きを強制しようとすればたちまち国家権力による過度の自由制約を招きうるし、自己規律の要求も公共の議論を萎縮させるよう利用されうる。井上の指摘する様に、実際にはさまざまな「市民」がいる[9]。地域エゴを追求したり、少数者の排除を求める「市民」も確かに多いだろう。しかし、彼らの多くも「「社会の公共的利益」を看板に掲げ」ているのであり、その活動が権力者との癒着や暴力の行使などによって「自由」に求められる無力さを捨ててしまっていない限り、その正当性を法理論の名において否定するには慎重でなければならない。彼らに対しその正義要求との乖離を指摘すべきは、実際に彼らと議論する当事者をおいてない。論争の当事者たちが、普遍的視点からの理由づけというより強い説得力によってより多くの人々を巻き込もうと努力することによってのみ、より公正な世論形成に近づくことができる。具体的問題において何が公正な解決法なのかは、自由かつ開かれた議論を経なければわからない。「他者を受容する責任」を通じて自由を鍛え上げること自体は、多様な人間の共生にとって確かに必要である。しかしこの鍛え上げも、互いに自己の意思を強要できない無力な者どうしとして他者と現実に直面する公共討論の試練によってしか実現できないであろう。そして、まさに人々が結びつく過程において、万人の前で言論の説得力を競うというフィルターを通してのみ、理性は現れうるのである。したがって、法があらかじめ市民的自由に対して内容的制約を課するには、少なくとも具体的危険に基づく理由が必要だと考えるべきである[10]。”
■[10] 井上達夫『法という企て』(2003)は法を「正義への企て」、「正義適合性の批判的再吟味に開かれた試行的決定の体系」(10頁)であるという。このこと自体は正しいと思う。ただ、「批判的再吟味」を開いておくためには、むしろ「正義の法に対する超越性が永続的に解消不可能であること」(xi頁)に由来する法の限界づけが重要な問題となる。筆者は、そのためには法は市民に「自己規律」を求めるべきではないと考える。法にふさわしい「正義への企て(への)参与」は、市民への正義考慮の直接の要求ではなく、相互主観的理性が機能するように市民活動の環境を整備することにある。■
□35-36頁
“ 三 市民とは誰か
1 政治に参加する人々は少数であること
繰り返し言えば、それ自体としては無力な表現活動の自由こそ民主的に世界を変える唯一の正当な手段である。個々の発言の政治への影響など実際にはほとんどないに等しい(国会での討論すら、その大半は議決に何の痕跡も残さない)にもかかわらず、それが多様な価値観の共存を危うくするように見えてしまうのは、どの発言も他者を説得し大きな政治的影響力の源となる可能性を潜在的にもっているからである。自由の行使自体は無力であって許されねばならない。そして一方で民主政は、この自由のもつ潜在的な政治力に自らの正統性を賭けているのである。私の意見を公に述べることは、私的な自由の行使であると同時に公論生成への寄与である。
しかし実際には、「私の意見を公に述べる」市民はごく少数しかいない。政治活動をおこなう人々の割合はどの民主主義国家でもごく限られており、かえってそういう人々が「一般市民」とは隔絶した存在だとみなされがちである。現実社会を見れば、民意を形成しているのはマスメディアの圧倒的影響力である。そんななかで一般市民の活動が政治を動かす可能性は皆無に近く、圧倒的多数の人々がそんな無駄なことに乗り出そうとしないのも当然である。言論はそれ自体としては無力であり、どのような言説がどれだけの他者を説得できるかはやってみなければ分からない。こんな危うい試みに人生の限られた時間のうちで優先順位を与えるのはよほどの変人であろう。民主政の正統性が変人に依存していてよいのだろうか。
政治に参加するのは少数である。それで何の問題もないし、そうでなければならない。こう言いきったのはハンナ・アレントであった。著書『革命について」で彼女は、近代の革命が常に生み出しては挫折してきた自由の空間たる評議会制について、政治に参加することに「公的幸福」を見出す「普通のものではない」情念の持ち主が、連邦制的組織の基礎たる各地方において「自分自身を組織」するものだと主張している。評議会からは誰も排除されるべきではないが、それでもそこに参加しようとする者は多くはなく、「政治的な能力」をもつエリートのみである。しかし、政治を単なる支配服従関係にしてしまうのではなく、自由の空間を維持することができるのはこの評議会制のみである。「たしかにこのような「貴族政的な」統治形態は、今日理解されているような普通選挙の終りを意味するであろう。「基本的共和国」の自発的な一員として、自分の私的幸福以上のものに気を配り、世界の状態を憂慮していることを証明した人だけが、共和国の業務を遂行するうえで発言する権利をもつ」。[13] ”
■[13]Hanna Arendt, On Revolution 275-279 (1965)(志水速雄訳『革命について』435-441頁)■
□44頁
“政治活動は、このうえなく反功利主義的行為である。人々の前でしゃべることによって自己の目的が直接達成されることは、ありえない。だからこそ、人権として保障する必要性が高い。そもそも人権自体が、「この世界に無用な人間はいない」という、常識に反する反功利主義的論理に基づいている。他人の価値と自分の価値を確認できないで生きる今日の人々にとって、人権が疎遠に感じられるのは当然なのである。その中でも政治的活動は、一見したところの無意味さにおいて群を抜いている。街頭でデモをしても世の中変わるはずがない。しかし、これを無意味だから禁止してよいと簡単に考えることは、まさしく個人個人の存在の価値を根本的に否定することになってしまうのだ。政治的活動は、個人個人のユニークさを公的領域であえて示す行動に他ならないからである。公的領域において常に新たな「始まり」が生み出され、無力な活動の積み重ねで長期的には世界が変わっていく場合にこそ、我々は誰もが価値ある存在だと気づくことができる。世界を様々に解釈することこそが世界を変えることなのだ。政治的活動のこの人権の基礎原理にとっての重要性と、それに一見反する個々の政治的活動の無意味さとのギャップが、憲法による保護の必要性の高さを説明するのである。”
□45-46頁
“実際、アメリカやドイツの諸判例は、表現の自由「行使(exercise, Gebrauch)」を促進することに関心を払っている。〔……〕一般に権利を行使するかどうかは人権主体の判断に委ねられており、市民的自由でもこのこと自体は妥当するが、しかしここではだからといって国家が自由の環境に無関心でよいということにはならない。公論が市民の自由な議論からのみ発生するものである以上、市民参加は支配の正統性基盤となっているからだ。特に代表民主政においては、人々が絶望の中に放置されがちなだけに、公的領域への「現れ」を促進する必要が高いのである。法によって活動のためのリスクを引き下げ、議論を活性化させることで、自由から「権力」を生むチャンスを拡大させなければならない。だから、ある措置がもつ表現の自由「行使」を躊躇させる「萎縮効果」は、すでに法的な自由「制約」ではないかとの問題を少なくとも提起する。
日本の憲法学は表現の自由の重要性を説きながら、それを「行使」している人間は全人口からすればごく少数しかいないということの意味についてまったく考察してこなかった。なぜそうなのかを問わないから、表現の自由において「行使することが有すべき積極的意味についても考察がない。少数の者が参加する公共圏が民主政を支えているからこそ、少数者になることのリスクを減らす必要がある。アレントが現代における政治への参加者として想定していたのは、生活に不自由のない富裕層ではない。日常的な社会の不公正に耐えられなくなって、どうしても異議申立てをしたいという人々だ。「臆病者」こそ「本来の意味の勇気」をもてると彼女は言う[31]。この勇気があっても世界は多分変わらないだろうが、それがなければ世界は絶対に変わらない。憲法は、臆病者の勇気をくじかず、促進するインセンティブを与えなければならない[32]。民主政を支えているのは、普通の人々ではなく、市民的自由を行使する変人である。そして、誰もが「市民」に、つまり変人になれることを保障するのが憲法の重要な役目である。”
■[32] 情報はその効用が直接の購買者に限られないという意味で公共財としての性質をもつため、消費者の「ただ乗り」によって情報生産のインセンティブが減少し過少供給に陥る危険が高いとし、表現の自由への特別の保護はこの危険への対処として説明できると説く論説として、Daniel A. Farber, Free Speech without Romance, 105 HarvL Rev. 554 (1991)が知られる。金銭的に割に合わない情報生産をするのは、何かにとりつかれた人であろう。しかし、そういう人がいなければ、我々は社会について十分な情報を得ることができない。「我々は、言論の重要な生産者として、――あからさまに言えば――変人(kooks and cranks) (より好意的に言えば、夢想家や聖なる運動家[visionaries and crusaders])に大きく依存している」。だから、革命レトリックを振り回す変人の主張を容認しておくことが、社会全体にとって有益なのである。ファーバーは、「言論は、その効用の大半が話者によって捕捉されないため、他の活動よりも萎縮しやすい」として、表現の自由における萎縮効果論の意義も認めている。
しかし、情報の効用が直接の消費者に限定されないことにのみ注目するのでは、たとえば著作権を強化して対抗すべきだという結論を導くことも可能である。情報の公共財性を生み出している原因は、現在の法的制度の不備なのか、それとももっと原理的問題が存在しているのか。本章の視点からは、むしろ、表現行為はもともと特定の人間に消費してもらうためのものではなく、その効用は社会に表現内容が拡散することによって生ずるのだということになる(たとえば新聞社も、自己の報道内容はお金を出して新聞を買った者にしか知られたくないので、できれば購買者には内容について黙っておいてほしい、と考えているわけではなかろう)。しかも、社会に影響を与えようという表現行為者の意図は、単にものを売るという場合と違って、この拡散によってもほとんど達成されない。したがって、表現行為者への見返りが極端に過少となるのも当然である。また、そもそも表現行為者のインセンティブの大きな部分が、見込みの少ない経済的利益というよりは社会に影響を与えることであることから、表現行為の場合、消費者だけでなく生産者側にも「ただ乗り」が発生する。誰かが公共の場で意見を表明してくれれば、それと似たようなことを自分が表現しても社会への影響力が増えるわけではない。であるなら、表現行為は他人にまかせておけばよいのであり、私がたとえばデモに参加すべき理由は、存在しない。この「ただ乗り」によっても、情報の供給は過少となろう。表現の自由が公共財としての性質をもつ原理的理由は、これらの点に求められる。■