村に火をつけ,白痴になれ――伊藤野枝伝

著者 :
  • 岩波書店
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感想 : 89
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000022316

感想・レビュー・書評

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  • とにかく強い。
    えっ…ていう部分も無きにしも非ずだけど、
    強大なエネルギーに満ちていたからこそ、これだけ暴れまわれたんだろうな。
    やりたいことはやる。皆、闘え。

  • 2020.02.22 図書館

  • 読み物として面白かった。伊藤野枝を扱う他の新刊で興味を持ったが、期待した面白い話と、それを平易に面白く説明してくれたので予想以上だった。

  • ひそかファンな、伊藤野枝さん。
    入り口は、誕生日が同じ。
    住んでた地域が同じ。という事で。
    小学校の頃のエピソードなんかも共感するなぁとか。
    にわかファンですが、私は、アナキストというか、そうとはおもわず。
    彼女がやっていたのは、人が人を支配する構造や、女性が搾取されるあらゆる構造の撤廃、労働者の権利向上を訴えるべく『筆一本で』闘った。
    道徳というボロ着を着せ、人のあるべき態度や行動、考えを一本化させ、それをはみ出すと排除する。
    表現・言論の自由の弾圧や、利権社会。資本家が労働者を食う。
    いつの時代もそうなんだろうけど、彼女の生きた時代背景が特に他人事とは思えない今。
    野枝さんはとにかく頭が切れて、野生的。今生きていたらこの日本にどんなことを言うんだろう?
    野枝さんに同化したような、それでいて客観的な栗原さんの文章が読みやすく、面白かった。

  • 確か「芸術新潮」だったかの書評を読んでかなり前に買っていたのだが、積読状態であった。少し前に「紀伊國屋じんぶん大賞2017」の4位になっているのを知って、本棚から取り出して読んでみた。改めて調べてみると、著者の本は2015年から3年連続で「紀伊國屋じんぶん大賞」に入っているんだな。すごい。

    アナキズムのことはよくわからないけど、伊藤野枝は面白い人だということがよくわかる。近くにいたら迷惑そうだけど。

    伊藤野枝の全集から、以下のような引用がある(p.39)。これは共感できる。

    > 皆は私のことをわがままだとか手前勝手だとかいっていますけれども本当に考えてみると私よりも、周囲の人たちのほうがよほどわがままです。私は自分がわがままだといわれるくらいに自分の思うことをずんずんやる代りに人のわがままの邪魔はしません。私のわがままと他人のわがままが衝突した時は別として、でなければ他の人のわがままを軽蔑したり邪魔したりはしません。自分のわがままを尊敬するように他人のわがままも認めます。けれども世間にはそういうことを考えている人はそんなにありません。皆誰も彼も自分はしたい放題なことをして他人にはなるべく思うとおりなことはさせまいとします。

    共感できるのだが、最後の一文はちょっと違うような気もする。普通の人は、自分が世間体などを気にして「したい放題なこと」をできないから、したい放題をしている他人に対して、非道徳的だとかわがままだとか言って責めるのではないだろうか。自分がわがままになれないから、わがままに見える他人を許せない。余計なお世話だけど。そのおかげで随分生きづらい世の中になっているのだ。

    アナキズムのことを考えると、やっぱりよくわからないけど、相互扶助があるからこそアナキズムは成り立つのか。この本を読む限りは、伊藤野枝の生き方も相互扶助(というか、彼女のわがままを受け入れてくれる周りの人たちの存在)の上に成り立っていたようにみえる。ならば、昔ながらの相互扶助が弱くなっている現代では、アナキズムは孤立化に帰結してしまうのか。孤立化が必ずしも悪いことだとは思わないけど、孤立主義的なアナキズムはちょっと寂しすぎるのではないか。

    というわけで、次は『「ひとり」の哲学 (新潮選書)』(山折哲雄)を読んでみることにした。「孤独でなぜ悪い」。

  • 元々、内容が面白そうだし、強い女の人の物語が好きで読み始めました。
    硬い文章だと読めないかもなぁ、と思って読み始めてびっくり。著者:栗原さんの文体が野枝の生き様のスピードに合っているような、カジュアルなんだけど、力強い。きっぱりと面白い。想像してた文体と真逆。ぐいぐい読める。

  • 野枝はすごい!!つよい!!わたしは絶対に真似できない!カッコいい人だと思うけど実際に近くにいたら距離を置きたい。。。
    野枝がどんな人だったのかは分かったけど、だいぶ作者の解釈というか言葉で綴られていて、本当にそんなこと野枝は本当に思ってたのかな??とか思った。セックスってことば描きたがりすぎ。文体は斬新だけど、ちょっとひいた。

  • ウリのひとつなのだろうが、名詞をどんと置く文体の多用が気になる。
    なんとなく受け売りの人(受けも辻や平塚や大杉や渡り鳥的な)と感じていた野枝を"迸る感情"、と肯定的に書いてあり、自分も少し肯定的に考え直せそうだ。

  • 関東大震災の際、官憲の手で、どさくさの中、殺された人物の思想と伝記にも関わらず、この軽快さはなんだ!

    解放とは、人を追い詰めて勝ち取るものでなく、こういう軽快さの果てになくてはならないのだ。そうじゃなきゃ何もかもウソだ。

    アナーキズム、恐るべしである。誤解していた。無にすることが目的ではないのだ。秩序とそこから生まれる権威をぶっ壊し、その先をめざすものなのだ。

  •  おなじ栗原さんの書いた『一遍上人伝』という、かなりぶっ飛んだ作品(『伊藤野枝伝』よりもさらに平仮名が多い)を読んだあとだったので、そこまで引っかからずに読めてしまったが、冷静に考えると、それは感覚が麻痺しているだけであるだろうなと我ながら思う笑 

     ところで、冷静に考えて納得がいかないのは、青山菊栄(後の山川菊栄)との廃娼論争に関しての、野枝の主張と態度である。正直に言って、ここでの議論は菊栄のほうが筋が通っている。しかも、さらに詰められると「自分は専門じゃないんだ」とかいって逃げてしまう野枝の態度は「いかがなものか」という感じである。しかし、なんだからわからないが、栗原さんは「野枝の圧勝だ」(p72)とか書いてしまっている。これは煙に巻かれた感じがするし、あまり印象がよろしくない。

     文体が面白いのは良いが、やりすぎなところも少なくない。それを面白いと見るか、どうか。
     以下は、伊藤野枝が、当時のパートナー辻潤の母親に責められてゲンナリしているシーンでの、辻潤についての記述(すべて地の文)。
     
     「そこを辻がたすけてくれればいいものだが、そういうときはだいたい家の端っこでピーヒョロロと尺八をふいている。なんなんだ、こいつは! なんなんだ、こいつは! ダダイスト、辻潤である。はたらかないで、たらふく食べたい」(p75)

    →これ、辻潤じゃなくて、ただの栗原さん本人じゃねえかw いいかげんにしろ!

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著者プロフィール

1979年埼玉県生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。著書に『大杉栄伝 ―― 永遠のアナキズム』(夜光社)、『はたらかないで、たらふく食べたい ――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)、『村に火をつけ、白痴になれ ―― 伊藤野枝伝』(岩波書店)、『現代暴力論 ――「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)、『死してなお踊れ ――一遍上人伝』(河出書房新社)、『菊とギロチン ―― やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス)、『何ものにも縛られないための政治学 ―― 権力の脱構成』(KADOKAWA)など。

「2018年 『狂い咲け、フリ-ダム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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