東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (170ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000058728

感想・レビュー・書評

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  • 1999年9月30日に起きた東海村臨界事故。
    本書は医療の立場から事故の検証をしたNHKスペシャル番組を書籍化したものである。
    日本、いや世界といってもいいだろう、どんな最新の技術や機器をもってしても、その治療をあざ笑うかのように被曝した臓器や組織を次々破壊しつくす中性子線はこの治療にあたった東大病院医療チームを絶望のどん底に突き落とした。
    被曝患者をどうしても救いたい前川医師、しかしそれは同時に被曝患者に生き地獄以上の苦しみを与えることにもなる。助けたい、けれど治療を続けることは果たして正しいことなのか?その狭間で苦悩する医療チーム。
    事故から83日後に大内氏は無残な姿となって力尽きた。そして前川医師が出した答えは「放射線の恐ろしさは人知の及ぶところではない。原子力という人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる。そのとんでもないことに対して一介の医師が何をしてもどうしようもない、とても太刀打ちできない」ということだった。
    こうしてこの事故に関わったすべての者に苦しみを与えた「クリーンで安全」なはずの原子力とはいったい何なのか。本書は問い掛ける。しかし我々はこの重大な問いかけに耳を傾けることはなかった。
    そうしてこの事故から12年。東日本大震災によって起きてしまった福島第一原発事故。
    この東海村臨界事故関係者からの命の、そして原子力への問いかけを無視した代償は大きかったのではないか。

  • 事故後は普通に見える身体が、どんどん放射能に侵されていくところがとても怖かった。

  • 高濃縮ウランをバケツで汲んで沈殿槽に移す、という裏マニュアルによる作業で臨界事故が起こったのは、12年前のことだった(母が死んだのと同じ年)。もうそんなに前なのかと思う。私がフルタイムで働きはじめた最初の職場にいた頃である。

    この臨界事故で被曝した大内さんの83日間の治療記録が、新潮から『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』という文庫になっていると「ブックマーク」の読者からおしえてもらって図書館にリクエストしていたら、親本があったようで、そっちがきた。

    借りてきた日に、読んでしまった。『チェルノブイリの少年たち』でも、爆発した原子炉の処理にあたる「決死隊」が出てきたが、この東海の臨界事故でも「現場ではJCOの社員による決死隊が組織され、国の現地対策本部の指揮下で、臨界を収束させる作戦が展開された」(p.12)と出てくる。

    「決死」という言葉に、"安全"で"クリーン"ていうのは何やねんと思う。
    大内さんたちは、青い光(チェレンコフ光)を見た。当初、大内さんは8シーベルト以上の放射線を浴びたと推定された。死亡率は100パーセントという被曝量である。最終的には20シーベルト前後とされた。

    被曝2日後の大内さんに会った前川医師は、どこから見ても重症患者には見えなかったという。意識もしっかりしていた。東大病院が受け入れることになった。看護婦たちは、テレビでやってる被曝の患者さんが来るときいて、二次被曝を怖れた(この事故での大量被曝は中性子線とガンマ線によるもので、二次被曝の心配はほとんどなかった)。

    その看護婦たちも、転院してきた大内に「よろしくお願いします」と言われて、ふつうに会話をできる状態だとは思っていなかった、外見的にもかなりダメージを受けているだろうし、意識レベルも低いのではないかと想像していた、と語っている。「ひょっとしたらよくなるんじゃないか。治療したら退院できる状態になるんじゃないかな」という印象をもったという。

    だが、そんな印象と、現実のデータは全く違っていた。被曝4日目に採取された大内さんの骨髄細胞の顕微鏡写真にうつっていたものは、ずたずたに破壊され、バラバラになった染色体だった。血液専門の平井医師は「放射線というのは、なんと恐ろしいものなのだろうか」と呆然とする。

    放射線は「新しい細胞をつくりだすところ」にダメージを与える。バラバラの染色体は、新たな細胞がつくられなくなったことを示す。染色体破壊は、まず血液の異常としてあらわれた。リンパ球が全くなくなり、白血球も大幅に減少した。皮膚も古いものがはがれ落ちるばかりで、新しい皮膚ができなくなった。放射線障害はどんどんすすんでいった。

    「大内さんのように急性の放射線障害で二週間以上生きているケースがなく、参考になる文献も当然なかったのです」と皮膚科の帆足医師は言っている。

    すべてが手探りの治療。それも、被曝後50日後になる頃には、大内さんを引き受けた前川医師のなかにも治療を続けることへの迷いがうまれはじめていた。大内の治療にかかわった研修医の山口医師は、考え続けていた。
    ▼客観的に見ると生きながらえる見込みが非常に低い患者であることは、だれの目にも明らかだった。助かる見込みが非常に低いという状況のなかで、日に日に患者の姿が見るも無惨な姿になっていく。その患者の治療に膨大な医薬品や医療資源が使われていく。しかし、そうしておこなった処置は患者に苦痛を与えているのだ。医療者はこの状況に、この治療に、どこまで関わっていくことが許されるのか、山口はつねに考えつづけていた。(p.94)

    看護婦たちもつらくなっていた。ここに寝ているボロボロの体でまわりに機械が付いている人が、大内さんと思えない状態なのだった。転院してきたときには会話を交わしていた、妻に語りかけていた、あの大内さんを思い出しながらでないと、看護ができなくなってきていた。

    被曝後83日目、大内さんは35歳で亡くなった。

    名和看護婦は、大内と出会い、そのケアを担当して自分が変わったと思うとこう話している。
    ▼自分にとって大切な人とはいっぱい話をして、その人がもし口もきけなくなって、治療するかしないかという選択を迫られたときに、この人はこういう人だったからこの治療は続けてくださいとか、この治療はやめてくださいとか、そういうことが言えるくらい、たくさんたくさん話をしたいと思うようになりました。(p.144)

    「原子力防災の施策のなかで、人命軽視がはなはだしい」と大内さんが亡くなったときの記者会見で前川医師は言った。被曝治療の位置づけが非常に低いことを前川医師は身を以て知ったのだった。

    ▼事故など起きるはずがない――。
     原子力安全神話という虚構のなかで、医療対策はかえりみられることなく、臨界事故が起きた。国の法律にも、亡妻基本計画にも、医者の視点、すなわち「医の視点」が決定的に欠けていた。
     放射線の恐ろしさは、人知の及ぶところではなかった。今回の臨界事故で核分裂反応を起こしたウランは、重量に換算すると、わずか1000分の1グラムだった。原子力という、人間が制御し利用していると思っているものが、一歩間違うととんでもないことになる、そのとんでもないことにたいして、一介の医師が何をしてもどうしようもない。どんな最新の技術や機器をもってしても、とても太刀打ちできない。その破滅的な影響の前では、人の命は本当にか細い。(pp.155-156)

    本には、東大転院時(被曝8日後)には赤くはれているだけだった右手が、被曝26日後には表皮が失われ赤黒く変色している様子が写真で並べて掲載されている。この写真は、小出裕章さんの「隠される原子力」の講演(http://youtu.be/4gFxKiOGSDk)にも出てくる。

  • 山岸涼子氏の短編漫画「パエトーン」を思い出す。
    身の程を知らず、御し仕切れない日輪の馬車を暴走させ、地上を焼き尽くした愚行。
    原子力、放射能、ウラン、安全である有用であると言いながらも、決められたルールも守れず、作業の危険性を十分に知らせずに、現場の職員に業務を行わせていたその行為は、まさに「パエトーン」だ。
    当時、放映を見た時は大変にショックだった。
    ショックが大きすぎて、詳細が頭にはいらなかった。
    今回は、文章でしっかり読むことができた。
    被爆によって、身体が破壊されるということ。
    全力で治療にあたった医療関係者の思い。
    なによりも、最後まで頑張った、ご本人と家族の方々の力。
    司法解剖の結果、他の痛々しく破壊つくされた臓器のなかで、心臓の筋肉だけは鮮やかに赤く残っていたとのこと。
    もっともっと、家族とともに生き続けたかったことでしょう。
    心より御冥福をお祈りいたします。

  • 単行本が絶版?で、文庫版もまだ、という状況で中古購入したので高かったです(今は文庫版あり)。でも内容は、それに値するものでした。

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