- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000225830
作品紹介・あらすじ
「社会的想像」とは、何か。近代の核心にあるものとは、何か。社会の道徳秩序に対する新しい思考の系譜を辿り、近代をかたちづくるものの本質を解明する。
感想・レビュー・書評
-
「近代」という時代がどんな時代なのか。ぼくの単純な理解では、共同体が崩壊し個人が社会の基本的構成要素となるような時代のことだと思っていた。
ところが本書は、そのような「個人による社会の構成」を実態ではなく〈社会的想像〉の産物であると断じ、その「近代」という〈社会的想像〉は市場経済・公共圏・人民自治の順で人々のなかに共有されていくという道筋を描き出す。かような「近代」の道筋には、権力の外部化という問題がそれぞれ対応していて、市場経済は権力による経済的介入からの自立、公共圏は公的決定機関から自立した討論空間のこと、最後の人民自治は人格的な権力からの自立、ということになろう。
そしてこのような「近代」への変転の起動力となったのが、道徳規範であるという。しかもこの近代をもたらす道徳規範は、キリスト教に代表されるような「枢軸宗教」が、「人間の反映を超えたところに人間の善がある」とする超越的権威を想定することによって生まれたという。すなわち、人間を、宇宙的な聖なる世界に埋め込まれた状態から解き放ち(これをテイラーは〈大いなる脱埋め込み化〉とよぶ)、神のような超越的権威を権威としていわば彼岸に追いやることによって、現世における平等なに個人の析出を可能にせしめるというのだ。
とはいえ、むろん「枢軸宗教」が、即座に近代的な個人主義を生み出したというわけではなく、社会的に埋め込まれた人間が、特定の言語における対話のなかで、一人の個人であることを神と関係づけて(つまり道徳秩序の観念と相即で)会得しうるというのだ。そしてその素地から「近代」が社会的想像たりうる具体的過程が、「市場経済・公共圏・人民自治」というプロセスなのだ。
「近代」への道程を、歴史的過程のなかから、しかも相当に長いスパンで描き出そうとする著者の試みは壮大で魅力的である。ただ、日本においてこれはどうなのか。たとえば、著者がいうように近代が人格平等的な水平的世界だというならば、戦前日本の天皇制はどう理解するのか(近代ではないというのか)。さらに日本に限らず、非西欧世界でこれはどうなのか。そこは各地域の歴史研究において、明らかにされるべきなのだろう。「近代」を考えるひとつの起点が、この本にはある、と思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【選書者コメント】コミュタリアンの一例として。
-
「社会的想像」という言葉をキーコンセプトに、いかに近代というものが私達の中に形成されていったのか、そして近代以前からの系譜としてそこに特徴的なものは何かを論じている本。
訳者のあとがきにもあるように、テイラーの本の中ではどちらかというと政治思想史、社会思想史的な側面が強く、やや僕の趣向とは異なっていたので飲み込みづらい(というか強い興味を持ちづらい)箇所が散見されたのが正直なところだが、宗教に関する言及に関してはやはり興味をそそられた。
まだ邦訳されていない次作『世俗の時代』においては宗教が主題となっているらしいので、とりあえず邦訳され次第そちらを参照してみたい。原著で読めよという話もあるんだけど分厚いのだもの……(うちの学科では去年のゼミで読んだらしいけども) -
(後日追加)