- Amazon.co.jp ・本 (178ページ)
- / ISBN・EAN: 9784000614849
作品紹介・あらすじ
直感と自意識のあいだを揺れながら書かれ、読まれる「小説」という言語芸術。そこでは実体験が想像とどう混じりあい、キャラクターがプロットや時間とどう組みあわされ、描写が絵画や博物館とどう結びついているのか。そして小説独自の「隠れた中心」の感覚とは何か。『わたしの名は赤』『雪』の作家が語る至高の読書論/創作論。
感想・レビュー・書評
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トルコのノーベル賞作家オルハン・パムク(1952~)は、米国のハーバード大学で、通称ノートン・レクチャーズとよばれる文学講義をおこなっている。この本はその講義録。ノートン・レクチャーズは詩人のT・Sエリオットやボルヘス、オクタビオ・パスやウンベルト・エーコといった、世界で活躍している詩人や音楽家あるいは小説家などを招いておこなわれる詩的コミュニケーション形式の講義だ。
かつて作家のエーコは、テクスト(本)を広大な「森」とみたて、そこを散策してみよう~というテーマのもとに、物語に流れる「時間」という概念を考察した。パムクはそのエーコの森で「空間」を考察しているようだ。文学と絵画の類似性を説き、「読む」ということは、言葉で絵を描くようなものだという。
「読者は小説の言葉に囲まれているのではなく、風景画の前に立っているという印象をうけるのです。ここでは視覚的な細部に対する書き手の注意、それに、視覚化によって言葉を大きな風景に変換する読者の能力が、決定的な意味をもちます」
とはいえ、絵画は見た瞬間、全体の構成をおおかた把握できるのに対して、小説はそういうわけにはいかない。まず一本一本の木を想像で立ち上げながら、しだいに林に分け入り、深部の森へと進んでいく必要がある。ときどき森の高みから首を出して全体を見晴らし、その森の広さや密度や深さをおもんぱかり、そこらに点在している小説の中心を探索していく……こう考えると、「読む」ということは複雑な作業なんだな~。
さらにパムクの考察がおもしろいのは、書き手と読み手の感性についての考察だ。
「直観的」(ナイーブ)な感性とは、小説を書くことや読むことの人為的な側面に全く注意を払わない。その一方で、「思索的」(センチメンタル)な感性とは、小説を書くのに使われる手法や、読書中の頭の働き方に注目する読み手や書き手の感性をいう。
もっとわかりやすく、ドイツの詩人シラーの考察を紹介している。子どものような性質の詩人と、無邪気さを失った悩みの多い詩人を分類し、前者にはダンテ、シェイクスピア、セルバンテス、ゲーテなどをあげている。シラーは後者であると自己分析しながら、先輩のゲーテに羨望を抱いていたよう……なんだか涙ぐましい。
それらを敷衍してパムクはこう述べる。
「直観」の詩人は自然と一体で、自然に似ていて穏やかで残酷で賢い。一方、「自意識」の詩人は自分の五感も疑問で、自分の言葉にリアリティがあるか不安があり、よって手法やテクニックに意識を働かせる。パムク自身は後者の作家だと自己分析しているし、わたしも彼の作品をいくつかながめてそう感じた。
決してどれが優れているとか、どれが劣っているといった優劣関係にあるものではない。一見すると矛盾するこの二つの感性を磨き、かつそれらをバランスよく統合すること、それができなければおそらく小説は書けないだろうし、たぶん小説はよく読めないだろうし、ひろく芸術も生まれないはずだ。
「小説を読むということは、世界を非デカルト的論理で理解することを意味します。非デカルト的論理による理解とはつまり、矛盾する複数の考えの存在を同時に、ゆるぎない確信をもって信じる能力だ」
そんなパムクの作品をながめていると、とてもスマートで思索的であまり隙がない。ところが、男女の描写についてはすこしテイストが違う気がする。戯画化されたような、絵画のような印象があって不思議でしょうがない。でもわたしは原作を読む前に解説本の類を読むことはないので、やっとこの本を読めた感慨はひとしお。パムクの感性と微妙なバランスに少し近づけたようで嬉しくなった。
ほかにもパムクの言説は興味深い。表現の自由度が高く、それが当然の前提となっている欧米諸国の文学作品や作家連とはちがい、東欧やアジアやアフリカなどが置かれた閉鎖的な社会状況を、またそこで執筆する作家の苦悩を、非西欧のトルコの作家が語ることは、とてもリアリティがあって切実で視野が広がる。
思えば、東欧や旧ソ連国(ウクライナもしかり)とよばれる地で生きる人びとを活写した作品は、わたしの好きな作品群のひとつ。それはボスニアの狭い監獄と呪われた中庭で耐え忍ぶペタル神父であったり、「プラハの春」を目のあたりにした青年たち、あるいはチェコの小さな町のゴミ焼却場に働きながら、捨てられた禁書の西欧文学を読み漁るハニチャだったり……かれらは決して本のなかの住人ではなく、いま・ここの現実世界を生きている人々ではなかろうか? という想いをこの本は思い起こさせる。
「政治性を小説に含めることはいくらでもできます。なぜなら、小説家は自分と異なる人びと、つまり、他の共同体、人種、文化、階級、国家に属する人びとを理解しようとする、まさにその努力において政治的になるからです。最高に政治的な小説とは、政治的なテーマや動機をもつものではなく、すべてのものを見てすべての人を理解すること、最大の全体像を構築することをめざすものです。したがってこの不可能な仕事をやりとげられた小説はもっとも深い中心をもつことになります」
かつてナチス独裁の暴走を止められないまま世界大戦に突入してしまった猛省と努力を、ロシアのリーダーは平然と踏みにじってはばからない。ウクライナへの侵略やジェノサイド(集団虐殺)を止められない憤怒と焦りと苛立ちが世界中に蔓延している。オーウェルの『1984年』のような全体主義の暗黒世界にならないよう不断の努力をするのは、正直ひどく骨が折れ、ときに虚しくなる。でもその力を養い続け、浅薄な意見や情報をふるいにかけ、冷笑的なシニシズムに陥ることなく、その一助になってくれるものは、じつは身近に存在しているパムクのいう深い中心をもつ小説であり、多様な芸術であることをこの本は気づかせてくれる。
ウクライナの惨劇が一日も早く終息することを強く願っている(2022.3.7)。
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「小説の主人公があまりに悪人なら少し善を足さねばならないし、あまりに善人なら少し悪を足さねばならない」(トルストイ)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ものすごく面白い。
副題にもある「直感の作家と自意識の作家」という言葉。
ざっくり言えば、天才型か思考型かというようなことだが、人の中にある感覚と思考のバランスを、ノーベル賞受賞作家が自身の作家生活と重ね合わせなが慎重に分析していく。なんという贅沢な講義なんだろう。天才の頭の中を本人が解説しようと試みてくれているのだ。 -
2021/11/16