- Amazon.co.jp ・本 (321ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003100424
作品紹介・あらすじ
学生小町田粲爾と芸妓田の次とのロマンス、吉原の遊廓、牛鍋屋-明治10年代の東京の学生生活と社会風俗を描いた日本近代文学の先駆的作品。坪内逍遙(1859‐1935)は勧善懲悪を排して写実主義を提唱した文学理論書『小説神髄』とその具体化としての本書を著し、明治新文学に多大な影響を与えた。
感想・レビュー・書評
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面白かった~。当時の書生さんの様子を生き生きと描写しつつ、話のスジについてはノリは歌舞伎の世話物に近いですね。
なるほどこれが、『小説神髄』と同時期に書いた「人情」を写実しようとした小説。後の二葉亭の『浮雲』へと繋がっていくんだなぁとか、史実の作者がこの後、結婚で云々するのを知ってるだけに読みながらもなかなか心中複雑。
登場人物が多いのと、章ごとにガラッと登場人物が入れ替わるので、登場人物一覧が欲しいですねw(忘れた頃に再登場したりするので…)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
私はこの小説を江戸時代の戯作の延長線上にしか感じられなかった。坪内逍遙は、「小説神髄」で言文一致を唱え、小説は芸術だと語っていたのだが、この小説でそれが体現できているとはとても思えない。
言文一致については、会話は口語で読みやすくなっていたものの、地の文は全くの文語体で、逍遙は言文一致とは一体どのような意味で言っていたのか、私の理解が到らないのかと疑ってしまうほどだ。考えられるのは、まず、逍遥が考えていた言文一致とは、この会話の表現と実際とを同じにすることだけだった。二つ目は、地の文も言文一致にしたかったが、それまで綿々と受け継がれてきた日本の文学の文体に縛られて、これが限界だった。三つ目は、これでは不十分であることは分かっていたが、これまでと違いすぎることでのハレーションを避けて、中庸を選択した。いずれにしろ、この小説が言文一致としては、全く中途半端であることは、坪内逍遙の影響を受けて、書かれた二葉亭四迷の「浮雲」を読めば明白である。
芸術性については主観的な判断もあるが、会話の鉤括弧の前に話者の頭文字を付けたり、()を使って説明する手法は頂けない。読者には、文脈で話者を分からせたり、通常の文章の流れで理解させたりしてほしい。なぜなら、その方が美的だと思うからだ。これについても、四迷は「浮雲」の中で体現している。
書き言葉が、話し言葉と同じになる前は、文章を書くこと、あるいは読むことは、それを教育されたものの特権だった。つまり、文化はある階級の中で留まっていた。時代を経るに従って、文化の担い手は貴族、武士、商人と広がっていったが、階級は存在しその階級の枠が広がっただけがだった。その枠をぶち壊した一つの要素が、この言文一致だ。そう考えると、この運動が逍遥のレベルから一気に四迷の切り開いた高みまで到達したことは、日本の文学にとって、あるいは、文化にとって非常の幸運なことだったと思う。 -
1885(明治18)年作。
『小説神髄』で大風呂敷を広げた坪内逍遙先生が、実作ではこんな愚作を書いただけということに驚愕した。全然、近代小説になっていない。ヨーロッパの近代小説をあれこれ読んだはずなのに、その形態とはかけ離れて、江戸時代の草紙のような逆行する前-近代に止まっている。
逍遙の提唱する「勧善懲悪を排して写実を」というスローガン、ここでは「勧善懲悪」ではないにしても、地の文ではやたらに説教くさくて全く近代小説らしくないし、当時の「書生界隈」を写実したつもりなのか、ただ漫然と彼らの会話を長々と書いているが、全部無駄口で、すべてを読む必要などない言いたくなる。
しかも「人情」を重視するはずなのに、ストーリーの核心と思われる青年たちの恋愛心理は全然掘り下げられておらず、何も発展してこない。
最後は「芸妓の○○は実は××の娘であった」という前-近代的な「大団円」を迎えるが、こんなものを写実と言われても困る。
この2年後の二葉亭四迷『浮雲』の方が遥かに「近代的」だし「小説」になっている。時代が待ち望んでいたのは四迷・鴎外であったか。
歴史的資料として以外は何も価値の無い駄作である。 -
岩波文庫版で読了。約30年ぶりの再読。内容はほとんど記憶していなかった。
メインプロットは、「書生」小町田粲爾と、彼と実の兄妹のように育った孤児「田の次」との再会だが、そこに「田の次」ことお芳、「顔鳥」ことお新が、谷中の戦場で取り違えられていた、という趣向が加わる。物語の因縁がすべからく1867年の上野戦争から始まっているという意味では、これも一種の戦争文学=戦後文学と言えそうだ。この作品の孤児がいずれも女性で、一人が吉原の遊女、もう一人が芸妓となっていた、という設定にもいろいろ言いたくなる。
「書生気質」の本来の焦点たる「書生」の風儀習俗の様子も面白かったが、娼妓芸妓の世界がなかなか詳しく描かれていたことも重要。とくに、梅毒検査の様子をうかがわせる部分は貴重。物語としては決して出来が良いとは思えないが、小説の〈語り〉の歴史的資料という位置づけだけではもったいない作品。 -
日本における近代文学の幕開けとしてしばしばその名の挙がる坪内逍遥と二葉亭四迷。後者の『浮雲』は以前読んだが坪内逍遥のものは読んだことがなかったので、読みにくいことを覚悟で今回読んでみることとした。
著者は、
「小説」は単なる「稗史」ではなく、それ自体が芸術の一ジャンルであること、「勧善懲悪」などの特定の道徳観に拘束されぬ、自律的な価値を持つべきこと、荒唐無稽を排し、人間心理を「模写」することが重要である(安藤宏『日本近代小説史』p.29)
と、『小説神髄』において論じており、本作はその実践として書かれたものだ。
会話文はともかく、地の文は古めかしく読みにくい。内容については、書生と芸妓の恋について描かれてはいるが、当時書生というものがどんな存在であったかを、様々な書生の様子から知り楽しむ、といった感じ。
『浮雲』では、坐薬を無理矢理尻にねじ込まれたような絶望的虚無感が主人公から感じられ、登場人物のそれこそふらふらと浮かぶ雲のような不安定な心が垣間見られるが、本作はそのような激しさはない。日常系アニメを観ているかのように(勿論良い意味で)、書生たちの日常を楽しむ感じ、といったところだろうか。
読んでみて面白いよ!と人に勧めるものではないが、日本近代文学史の足跡を辿る楽しさは何物にも代え難いものがあった。 -
現代の小説の先駆的作品。戯作の要素がまだ残っているなあという印象。小説が小説たらしめるのは、登場人物たちの人生を、社会を描く事らしい(解説より)。戯作は出来事のみを描写すると考えるならば、小説はより深くその出来事を追求するといった感じか?
誰の台詞なのかの表示を付け、「」で改行しないので、文章がだらだら繋がって、読みづらさがある。その読みづらさから、現代の「」の使い方が生まれたのかもしれない。思考錯誤の過程を見ることが出来る点では☆5つけてもいい。それから、言葉。明治の書生が使用していた俗語がバンバン出てくる。特に国立の学校の書生は、本編のように英語やドイツ語を普段の会話の中で使っていたという。まるでルー大柴みたいだけど、当時の書生の中ではポオズというか格好つけだったのだろうな。
内容は書生の生活を描き出すこととしていた割には、小山田と田の次を巡る話がメインに近かった。そこはなんか残念なところ。まーでも、今も昔も学生かわらずってとこなんでしょうかネ。 -
小町田粲爾の恋物語と、上野戦争で母妹と生き別れになった守山友芳の話を主軸に、明治初期の書生達の生活を写実的に描いたというもの。
全20章+αからなり、基本的には様々な書生諸君が授業をサボって牛鍋屋で昼間から酒を飲んだり、借金を拵えたり、アルバイトをして小金を稼いだりする話になっています。
執筆されたバックボーンや、逍遥が目指し、体現した本作の形にこそ語るべき部分はあれど、内容に関していえば、面白いものではありませんでした。
登場人物がやたらと多く、場面の移り変わりが激しい上で、歴史的仮名遣いと当時独特の言い回しのオンパレードとなっており、読み終えるのにある程度の根気と、時間が必要です。
ラストだけ、ああ、なるほどといった落ちになっていましたが、とにかく面白い小説を読みたいからといって、本書を手にとるのはおすすめできません。
一方で、文学史上の意味としては誰しもが知っているほどに重要な意味を占める作品となっています。
それまで日本にあった滑稽者や戯作からの脱却を目指して、海外のノベルに並ぶべく書かれた、近代文学の先駆け的作品であり、本書を持って近代小説文学が始まったと言っても過言ではない位置にあります。
それ故に、小説の黎明的な文章も多く、各章の頭に筆者の考えのようなものが長々と書かれたり、会話の頭には話している人物名が記載していたり、5・7のリズムで文章が区切られていたり、それまでの戯作文学の名残と思われるような書き方が目立ちました。
ラストも落ちはつきましたが、話の途中でブッツリと終わり、早々に本書の続編の話の腹稿がある旨の本書の内容に関係のない文書が始まります。
そういったところも含めて文学の黎明を感じられる作品でした。 -
まだ文体は江戸時代の名残を残している。上野戦争で生き別れになった兄妹の再会までの経緯がメインの内容になる。いろいろな書生の話。後半になるにつれ面白くなります。当時の有名な鳥料理屋が上野にあったようで気になるものです。