- Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003101322
作品紹介・あらすじ
『墨汁一滴』に続き、新聞『日本』に連載(明35.5.5‐9.17)し、死の2日前まで書き続けた随筆集。不治の病にたおれた「病牀六尺」の世界で、果物や草花の写生を楽しむ一方、シッポク談議、子どもの教育論と話題は多岐にわたる。旺盛な好奇心が尽きることのない子規(1867‐1902)の姿には目をみはらされるばかりだ。
感想・レビュー・書評
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凄く面白い。
寝て過ごさないといけないようになってからやりたいことのリストとか、辛さの表現とか。こんなに赤裸々に書けるのがすごい。
「飯炊会社」を作ればいいとか、「食べ物がどんどん柔らかくなってきている」とか、こんな頃から言っていたのかと思うと面白い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
死の2日前まで様々なヒト、モノ、コトに関心を持って生きた子規。そのしなやかな強さに感じ入る。
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病床六尺という、とても狭き空間の中に身を置きながらも、子規の世界は限りなく広い。
外の世界に思いを飛ばしても、病の壮絶な痛みで身悶え、病床に心が引き戻されている。
激しさ、伸びやかさ、関心と造詣の広さ・深さを感じ、所々クスリと笑える。
長命であったならば、どのような作品を残していただろうかと、むなしい想像をせざるを得ない。 -
病床六尺、狭いけれど大きな世界に身を置いていた子規。
いつか自分も病に伏せったら読みたい本。 -
正岡子規が死の直前、明治35(1902)年5月~9月に新聞に連載した随筆。
冒頭に「病床六尺、これが我世界である。」とある。床を離れない病人なので見聞の範囲はおのずと狭くなるはずだが、文学や世事の批判、見舞客の持ってくる世間話、書画鑑賞など、話題は多岐にわたる。
その基になっているのは旺盛な好奇心。
「余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文学談にあらず、宗教、美術、理化、農芸、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない。(四〇)」「話の種は雅俗を問はず何にても話されたし。学術と実際とにかかはらず各種専門上の談話など最も聴きたしと思ふ所なり(七十七)」等。人に会い、話を聞くことを楽しみとしていた様子が窺える。
子規は病を得てからも好きなものや旨いものに執着し、時に体が受け付けなくても食べたという。それだけが楽しみだったという理由もあろうが、食への執着と、知識への執着と、どこか通じるものがある。
また子規と言えば手厳しい批評の人という印象であったけれども、自分の考えと異なっていても理屈に納得すれば認める素直さ(七十一等)が意外であった。かと思えば、色恋沙汰と思わせて種明かしをするユーモア(百四)もある。一方では惨憺たる病苦を訴えながら、こうした柔軟さを持ち続けたことは確かに偉い。
ただ、看病している家族への視線はずいぶん思いやりに欠けた冷たいものに感じた。明治の男の視点ゆえなのか、病人としては日常生活に関わる部分にはやはり不満を持たずにいられないのか。 -
ここで子規は、自分の好きな絵は「略画中」の「略画」と言ってるハズなのに、子規の画は漱石曰く「文章は巧みな彼なのに、画と言うと何時間もかけて書いた塗沫主義な拙い画である」というのが、なんかすごく好きです。
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この人凄すぎる。
不治の病に侵されていながら、何なのこのバイタリティ。
俳句、短歌、絵画の趣味をいきいきと語るかと思えば、次の瞬間世相を鋭く斬ってみせる。
死の二日前まで書き続ける執念、凄まじいというほかない。
子規の号は、血を吐きながら鳴き続けるホトトギスとの意味を込めて付けられたそうだ。その真骨頂ここに体現せりといったところ。恐れ入る。
折節自分も手術後で床に臥せっているときに読んだので、病人の心境を吐露した箇所は感情移入して読めた。 -
再読
1927年出版
持っている本が2005年58刷発行
読んだきっかけ
EテレのJブンガク(2011年)で杏さんが朗読していた
《感想》
何度も読み返せる良書
好きな本の1つだ
読みやすく現代仮名づかいに改めているとはいえ、少々難しく感じたが、慣れると面白さにはまる
俳人の文章は音読すると心地よい
ユーモラスで性格の細かさが伝わって非常に楽しい
著者の心境が読み取れた -
死ぬ直前まで書いていた随筆で、病気への苦しみが痛々しく伝わってくる内容もある一方、当時の流行や思想なども鮮やかに描かれている作品だった。
個人的には子規の日本画や俳句への批評が面白く、勉強になったと思えた。特に、俳句などはこれまで読んでも何が良いのか、どう作るのか、どんな句が評価されるのかなどさっぱり分からなかったけれど、子規がこれはこういう理由で良い、趣がある、厭味があると評していくのを読むうちに、少しだけ分かった気がした。