- Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003256060
作品紹介・あらすじ
「〈デッサン〉とはかたち(ルビ=フォルム)ではない。かたちの見方なのだ」——親しく接した画家ドガの肉声を伝える美術論。その人柄・技法・芸術に対する姿勢の素描と、ヴァレリー独自の芸術・身体観とが交錯。本書には、幻の初版でのみ知られる、ドガのダンスのデッサン全五十一点を掲載。絵画と思考の自在な往還を再現する初の邦訳。[カラー版]
感想・レビュー・書評
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デッサンはデッサン、文章は文章で別々に出したほうが良かったのではと思うぐらい構成に脈絡がない。私が詩を解する人ならまた何か違うものが見えたのかも知れない
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「鉛筆を1本持って、ものを観る」のと、ただ「ものを観る」のと、どこが違うのだろうか。この問いを聞いて、デッサンを試してみようと思わない人は、どうかしている。けれども、素人のわたしにも、その後の展開は理解できるところだ。そんな単純に、ことを知ることはけっして起こらないのだ。「まったく違う二つのものを見ているに等しい」とヴァレリーはいうのだ。
画家ドガはここが異なるらしい。「作品はある主題とある才能の幸福な出会いから生まれるように見えるが、それと反対にこの種の深い芸術家、おそらくは賢明な深さを超えてなお深みに降りていこうとする芸術家は、楽しみを遅らせ、困難を創りだし、最短の道を恐れるのだ」というのだ。彼はこのことに気づいていた。
どのような困難だというのだろうか。鉛筆を持って、右目でテーブルの瓶をみて、左目でテーブルの灰皿をみる。ところが、描かれたと思っていた瓶と灰皿が同じテーブルの上に描かれていないのだ。絵がバラバラなのだ。目で見たときにはふつうであっても、いざ描いてみると、はじめに知覚していたもの、よく知っていると思っていたものが「ひどく変形してしまう」ことがデッサンではよく起こる。デッサンを描くには、右目と左目に加えて、手や身体のあらゆる器官の協力が必要であったのに、目は彷徨い出そうとするし、手は勝手に自動的に動き、仮想の世界を創り出そうとするのだ。つまりじつは、わたしが世界というものをまったく知らなかった、部分的な感覚に頼って、誤解していたことに気づくことになるのだ。
このような「障害は両義的な記号であり、それを前に絶望する者もいれば、そこに理解すべき何かがあると理解するものもいる。しかし、障害というものに気づくことさえない人たちもいる」のだ。わたしはたとえ不器用であっても、鉛筆を1本持って、「何かがあると理解する」者になってみたいものだと考えている。 -
ヴァレリー氏が目指すところは「大芸術」なんだそうで、その内実はともかく、このネーミングだけで(フランス語の語感ではまた違うのかも知れないが)鼻をつまむ向きも多かろう。迂生もまた、この文字を見つけて、思い切り引いた口である。決して来ない完成を目指して、己の全存在を掛けて描き直しを続ける芸術家を理想とし、印象派もキュビストもシュルレアリストもお気に召さなかった(アーティストとは親しく付合った)とか言われると、こりゃあ、敬して遠ざけるに如くは無いかな、とも思える。縁なき衆生は度し難しとでも言われるかも知れないが、うーん、救われなくてもいいような。
ヴァレリー氏が描くドガ氏もまためんどくさそうな御仁で、十九世紀的で、ロマンティックな芸術家像そのままという気がする。先に触れたヴァレリー氏の芸術観からすると、鵜呑みにしてよいものかとも思うが。 -
ドガのデッサンは素朴というかかわいいけれど、詩人の文章はなんだかおもしろくないというか退屈だった。
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斜め読み。
文庫版なので、当然掲載されているデッサンの絵は小さい。
ドガの研究者、ファン、勉強している人なら良い本だと思う。
この小さい字を読むのは、大変。