狂気について 他二十二篇(渡辺一夫評論選) (岩波文庫 青 188-2)
- 岩波書店 (1993年10月18日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003318829
感想・レビュー・書評
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エラスムスは『痴愚神礼賛』で「狂気」を風刺として用いる。ここでいう狂気が何を意味しているのかが本書では示される。
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寛容と不寛容についての話が興味深かった。ヴォルテールの寛容論を読み直したくなった。
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「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容であるべきか」
これだけはお読みください。 -
私たちは機械か?
「機械であり、かつ共謀者だ。」 -
全体的に難解でしたが、以下は何とか読めて為になりました。
狂気について
不幸について
寛容は自らを守るために不寛容に対して寛容になるべきか
IV
レビューを参考にして、読める部分だけ読むとよいかもしれません。 -
フランス・ルネサンス研究やラブレーの翻訳で知られる仏文学者 渡辺一夫の随筆集。暴力・狂気(非理性)・不寛容を静かに峻拒し続けたユマニスト(人文主義者、ヒューマニスト)。僕だったら理性や合理主義に或る種の抑圧や頽落を見出して己の疎外の源泉としてしまうところであるが、渡辺は理性的であることの良質な部分を決して手放そうとはしなかった。彼は、宗教戦争が酸鼻を極めた16世紀フランスに於いて穏当な理性と健全な懐疑主義と寛容とを保持したラブレー、エラスムス、モンテーニュを評価する。
モンテーニュ『エセー』からの次のような引用は、現代日本に於ける排他的愛国心の跳梁を思うにつけ、実に印象的である。"私は一切の人間を同胞と考え、・・・民族的な関係をば、全世界的な一般的な関係の後に置く。・・・我々の獲得したこの純粋な友情は、共通な風土や血液によって結合された友愛に普通立ち勝っている。自然は、我々を自由に、また束縛せずに、この世に置いてくれた。しかるに我々はペルシヤの王たちのように、我々自身をある狭い地域に跼蹐せしめているのだ。このペルシヤ王たちはコアスペス河の水より他に水を飲まないという誓いを立てて、愚かにも他の一切の水を用いる権利を自ら抛棄し、従って彼らから見れば、他の世界はすべて涸渇しているわけであった。"
「文法学者も戦争を呪詛し得ることについて」
平和時の人間に物質主義的堕落を見て戦争を精神主義的に賛美しようとする議論に対して、モーパッサンを引きながら、戦争を起こして利益を得ようとすることこそが物質主義であるとする箇所は、極めて痛快であり、昨今の幼稚な反平和的言辞に対する鋭い批判である。物質主義が戦争を求め、不寛容が戦争を支持する。
「人間が機械になることは避けられないものであろうか?」
政治・経済・法律・社会・宗教・学問 etc. の諸制度が物象化して官僚制に堕するとき、人間は制度の手段として巨大機構の歯車と化してしまう。諸制度を常にヒューマナイズし続けることが必要だ。つまり、人間性の観点から批判し続けること。
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」
異物排除の欲望に覆われた社会は、次の文章を読んで寛容について再考すべきではないか。"秩序は守られねばならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当る人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果して永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の中には、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。"
不寛容が溢れる現代に於いてこそ貴重な、懐の深い理性に包まれた評論集である。 -
渡辺一夫は大江健三郎の師であり、ラブレーの翻訳・研究で知られるフランス文学の泰斗である。ユマニストの立場から暴力を嫌悪し、寛容の精神を説いたが、戦後民主主義の象徴である平和主義の旗色悪い昨今、次第に顧みられることの少なくなった思想家ではある。渡辺のユマニスムは確かに「甘っちょろい」。この点から渡辺を毛嫌いする保守派知識人(例えば同じ東大名誉教授でルネサンス文学研究者の平川祐弘)は多く、彼らの批判もあながち的外れとは言えない。だが、渡辺の思想が「甘っちょろい」ことは渡辺自身が自覚していたし、社会主義陣営の崩壊という歴史的事実の高みに立って、その現実認識の甘さを断罪してみてもあまり生産的ではないだろう。
渡辺のユマニスムにはその追蹤者にはないある種の強靭さとしなやかさがある。一つには渡辺のユマニスムの「甘さ」そのもの、あるいは「甘さ」の自覚である。渡辺は王侯貴族に取り入って無心を繰り返すラブレーの「いやしさ」を肯定し、生き延びるために弟子を見捨てたエラスムスを「あまりに人間的過ぎる思想をその肉体に宿したために、その行為は非人間的になった」と擁護する。ここに戦争に徹底的に抗することができなかった戦中世代の屈折を読み取ることもできようが、自らの弱さを自覚しない偽善的ヒューマニズムだけは免れている。
今一つは、より重要な点だが、オートマティズムへの警戒である。人間が自ら生み出した思想や制度の機械になり下がることを渡辺は忌避したが、そうした忌避自体がともすれば硬直的となり、自らの反対物へと転化する危険性を渡辺は見通していた。渡辺に学んだ戦後民主主義が渡辺から学ばなかったのは、この懐疑をも懐疑する精神であり、これこそユマニスムの真髄であると思う。この点が最もよく表れて味わい深いのが「戯作者の精神」というエッセイだ。スノビズムへの風刺がもう一つのスノビズムに堕すことを戒めている。
モンテーニュを読めば分かるように(『 エセー〈3〉社会と世界 (中公クラシックス) 』)、ユマニスム自体は右でも左でもない。評者は大江健三郎の政治的主張にひとかけらも共感しないが、人間の内奥にうごめく狂気を直視し、それを鎮め、希望をつなぐために破壊と創造を繰り返す彼の文学的営為には敬意を表するし、そこに師渡辺の精神は受け継がれているように思う。本書と合わせ『 フランス・ルネサンスの人々 (岩波文庫) 』の一読を勧めたい。 -
先日、約10年ぶりにウクライナの友人に会いましたが、彼がこんなことを言っていました。「どうしたらウクライナの人たちを良くできるかをずっと考えている。彼らは、話題性にばかり投票して、政治をうまく行うことができない。日本は、地方のおじいちゃんおばあちゃんがちゃんと投票に行ってくれるから、急進的な政党が勝って戦争に進むことは無い。成熟しているんだ」
おじいちゃんちゃんおばあちゃんたちが自民党に投票するのは、世界的に見るとそういう文脈もあるのか、そんな風に考えたことは無かったと思うと同時に、であるなら、あと10年後20年後は日本も危ない、と思ってしまいました。
ウクライナ侵略の2022年に読むと、やはり、人間は歴史に学ぶことは不可能なのではないかと、暗澹たる気持ちにもなります。
(203頁のロシアに対する記述は、『白鯨』の中にアフガニスタン戦争の記述があるのと同じ衝撃)
それでも、諦めずに信じて、考えることをやめてはいけないと、教えてくれる本です。 -
ラブレー研究などで知られるフランス文学者の著者が執筆した数多くのエッセイのなかから23編を収録し、弟子の清水徹と大江健三郎の「解題」および「解説」を付した本です。
『ガルガンチュア=パンタグリュエル物語』にかんする文章では、「テレームの僧院」を題材に、一見したところ些末な点にこだわっているように思える文学研究に対する著者のスタンスが示されていて、興味深く読みました。著者は、「テレームの僧院」についてのラブレーの叙述に、彼のいつもの笑いが見られず、台所の存在についての記述が漏れていることから、そこにラブレーの信仰告白を見いだすことができるのではないかと考えていました。しかしその後、研究者の綿密なテクスト解釈を通じて、そうした理解に留保を付する必要があることが判明し、著者はそれまでの主張に対して慎重な見解を示しています。
また著者は、ラブレーの「笑い」と比較しながら、モンテーニュの懐疑的な態度や、エラスムスの宗教改革に対して躊躇する態度などを掘り下げ、そこに見られる深い「人間」の理解がもっている意義を掘り下げようとしています。さらにこうした著者の「人間」解釈は、「人間が機械になる事は避けられないものであろうか?」と題されたエッセイなどを通じて、著者のくぐり抜けてきた時代に対する静かな抵抗のスタンスへとつながっていることを読みとることができます。