ソクラテスの弁明・クリトン(プラトン) (岩波文庫 青 601-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (135ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003360118

作品紹介・あらすじ

自己の所信を力強く表明する法廷のソクラテスを描いた「ソクラテスの弁明」、不正な死刑の宣告を受けた後、国法を守って平静に死を迎えようとするソクラテスと、脱獄を勧める老友クリトンとの対話よりなる「クリトン」。ともにプラトン(前427‐347年)初期の作であるが、芸術的にも完璧に近い筆致をもって師ソクラテスの偉大な姿を我々に伝えている。

感想・レビュー・書評

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  • 悪法もまた法なりという言葉で知っていたソクラテスであり、ギリシャ哲学といえばの人

    ソクラテスがその時代の著名とされる人と対話しその人の矛盾をつきまくった結果悪い噂が流され、不正な死刑を宣告されている状態で友人のクリトンが国法を守って死を迎えるのではなく脱獄しようと提案してくれる

    が、しかし、ここで脱獄してしまえば今までソクラテスやクリトンが大事にして来た国法の威厳が地についてしまうことになるため、自分の命を守ってポリシーを捨てるか、ポリシーを守って命を捨てるかという選択をすることになる。

    というストーリーがソクラテスとクリトンの対話の中で進んでいった。


    無知の知のように、知らないという事を自覚する事からスタートすることが大事

  • ソクラテスという人は正しい人であろうと、真っ直ぐ生きた人のように感じました。
    人にされても自分はしない。。。とても徳の高い方と思いました。

  • 「これに反して前述の人達は恐らく超人間的智慧をでも持っているのであろう。私は実際そういう智慧を持ってはいないのである。」

    これはおもしろい!勿論哲学書としての価値もあるが、読み物としてもおもしろい。ソクラテスが死を直前にしてとても真面目に、自分を陥れようとしたソフィストたちを煽りまくる。ソクラテスは頑固に己の大切にする信念を通して死んでいった。それはクリトンにしっかり描かれている。無論これはプラトンが作為的に編纂した面もあるだろうが、ソクラテスの人となりがわかる貴重な一冊。

  • 西洋哲学は彼から始まったと言っても過言ではない、倫理の授業でも最初に学んだソクラテス。
    ソクラテスがどういう人で、何を言って、どう亡くなったのかは知っていたが、原書を当たったことがなかったので今回読んでみた。

    本書はソクラテスが裁判で、自分に求刑するアテナイの人々や告発者に対して弁明(釈明、弁論、反論のようなもの)をする『ソクラテスの弁明』と、
    死刑が決まってから執行までの間に彼を訪ねてきた弟子クリトンとの対話『クリトン』の2編を収録している。

    新仮名遣いに直したり日本語の表現を改めたりはしているものの、1964年改版の本書なのでボキャブラリーや字体がやや難しい。
    とはいえ慣れてしまえば問題ないし、「けだし(=思うに)」、「なんとなれば(=なぜかと言えば)」のように頻出する古い言い回しを最初に覚えてしまえば難なく読めるだろう。

    句読点や改行のようなものが生まれたのは中世の頃だったはずなので、古来の情報源、原初の原書からすれば格段に読みやすかろう。
    写本や改定、翻訳、改版を経て現代にまで本書を繋いでくれた数多の先人達に感謝である。

    ソクラテスと言えば「無知の知」であるが、その言い回しは直接は登場しない。
    ただ、「私は自分が知らないということを知っているが、彼はそれを知らないことを知っていないため、いくらか自分の方が賢い」という旨を、直接相対する人に告げていたことを自白している。
    なるほど、それを率直に他人から言われたら印象悪い。

    本書を読んでも、ソクラテスの言い分は尤もで、理に適っている。
    この弁明を経れば、実刑はまず免れるだろうと率直に思ったが、なぜか結果は初審で拮抗、再審で有罪多数になってしまった。
    それが余りに不思議だったが、そのあたりの答えは巻末の解説にあった。

    以前から古代のリベラルアーツの中に「修辞学(弁論術)」が含まれていたのをとても疑問に感じていたが、本書を読んで合点がいった。
    なるほど、政治、裁判など、社会を大きく変化させるには大衆の同意を得たり、大衆を扇動したりする必要があった。
    そのため、いかに大勢の人を納得させるか、という技法として修辞学・弁論術があったのだろう。

    論理が整っているか、自分の意志が人の心を動かせるかどうか、積極的に発言できるかどうかといったことが自分の生死、果ては国会や社会の生死にまで関わっていたのが背景から読み取れる。

    ソクラテスはその論理や弁論といったことにまさに秀でていたがために、プラトンのような優秀な後人がつき、そして現代にいたるまでその存在を知らしめたのだろう。

    なんとも心苦しいことだが、結果、論理だけではソクラテスは自分の命は救えなかった。
    しかし、自らの信念を通すがために、あえて自ら死を選んだその思考の経緯と胆力、さらにそれを明快に説明する論理の技術的な部分に含む点それぞれから、「偉人」の称号を得るにこれほど相応しい人はいないと感じた。

    ソクラテスの、神への信仰や自分の信念をもとにして大衆を論理で納得させる姿。これは徳を含むし尊敬すべきことだ。
    しかし現代主流の民主主義のような、多数の意見を聞きいれて多数決を取る、という考え方とは相いれない。
    これは一長一短。
    きっと後世の賢人、哲学者たちがこの問題に向き合っていったことだろう。
    中には、自らの信念を押し通し、大勢を虐殺に追いやったヒトラーのようなものにもこういった考え方を植え付けた。
    ヒトラーが実際にソクラテスの教えを受けたかどうかまでは知らないが、本書、ないしソクラテスの意志を継いだその後の哲学者や思想家の書物を読んだのは想像に難くない。

    民主主義が機能不全になっている現代、改めて振り返ってみても、今の自分の生き方や社会の在り方は本当にベストなのか、もっと磨けるところはないかを見据える上で、本書を読む意義はあると思う。

    続いてプラトンの他の書籍へと読書を進める。

  • アバタロー氏
    参考 宇野氏「民主主義とは何か」20220729

    《ソクラテス》
    BC470~399年 ギリシア哲学者
    ソクラテスの弟子はプラトン
    プラトンの弟子のアリストテレスは、アレキサンドロス大王の師

    《事前勉強》
    ・ポリスとは都市国家
    ・アテナイはポリスの中心で、民主主義を採用、ライバルはスパルタ
    ・紀元前431年~ペロポスソス戦争
    アテナイとスパルタの戦いで、長期戦後アテナイは大敗
    ・民主主義でみんなの意見を聞いていたが、人気取りしか考えない政治家が増えた
    ・デマゴーグとは政治的リーダーで政治を動かしていた
    ・ソフィストとは弁論術や自然科学を教える職業
    ソフィストを論破していたのが老人ソクラテス

    《内容》
    福音書4巻
    ・2巻 ソクラテスの弁明
    舞台は紀元前5世紀のアテナイ
    不当な裁判にかけられてしまい、死刑宣告を受けたソクラテスがアテネ市民に向かって弁明を行う姿を弟子のプラトンが記録した
    ・3巻 クリトン
    獄中でソクラテスとクリトン(幼馴染)の対話形式
    お金を渡せば脱獄できる
    よく生きることだ、正しく美しく生きることだ
    脱走するとは正しいと言えるのか
    不正に対し、不正で答えたことになる

    《感想》
    ソクラテスは哲学の祖と言っても過言ではない知っておきたい人物である
    ソクラテスは死ぬのが怖くなかった
    「この世からあの世へ行く引っ越しのようなものであれば非常に興味深い」
    「死というものが魂が肉体から解放されるだけのもの」と考えていた

  • 例えを多用したり、場合分けをしながら可能性をつぶさに検討していき、考えを述べるストイックなロジック展開は、確かにソクラテスすげーとなった。ただ、何かを得られる本なのかは正直自分にはよく分からなかった。お恥ずかしい。けだし!なかんづく!
    機会があったら今度は関西弁バージョンも読んでみようと思う。
    https://www.amazon.co.jp/dp/4891947985

  • 未知は恐怖であると同時に希望でもあり得るのだろうか。死とは不思議だ。(恐らく)経験したことがない以上、不用意に恐れるだけというのは生に対して誠実な態度ではないのかもしれない。たとえば死の前後におよそ「個人」が生きている間思い浮かぶすべての洞察を一瞬に理解することができる(そのときの状態は関係ない)のであれば、なにもかも幸福に受け入れることができるのだろうか。すべてを知ってしまうことの恐怖か

  • 非常に難解な内容であるので、ぜひ、解説まで読んでほしい。少し理解が進むだろう。
    そして、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」に加え、「ファイドン」(パイドンと思われる)の3作は、「この世界史上類なき人格の、人類の永遠の教師の生涯における最も意義深き、最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも称すべき不朽の名篇である」とのことで、早速、「パイドン」も読もうと思う。
     ちなみに、「クリトン」は、「ファイドン」よりは事実に近く、「弁明」よりは事実に遠いらしい。

  • 〜わたしたちにソクラテスは必要か?〜 

     では君はソクラテスになりたいと思うか?
     と言う問いからこの感想を始めたい。いまのところ、答えは否だ。
     賢者の無力さがここに証明されているからだ。
     魂の探究ができたとて、人を救うことはできなかった。国家が機能していることを前提として、その国家を損なわないために死を選ぶ彼の論理は通っていると思う。
     が、圧倒的な暴力の前には、その正義はひとかけらの力も持たないだろう。ホロコーストのさなかで、もしソクラテスがユダヤ人だったらなら?聞く耳を持たず、こちらに殺意を抱くナチスに対して問答を仕掛けるのか?仕掛けたとして、側にいる聴取は聞く耳を持っているのか?
     ソ連のホロドモールで餓死寸前の大衆のなかにいたら、彼はそれでも、共産主義者たちに語りかけるのか?
     この弁明が行われた紀元前447年から、ちょうど2470年経った。いまソクラテスがいたとしても、彼が自分のことを賢者だと弁明する以外には、その発言に効力はないだろう。
     国家は暴走し、国法は公のものではなく私人のものになっている。圧倒的力を持った少数の私人が、公人の皮を被って、公人を操り、私人に武器を取らせてないか?
     力無き大勢の多衆である私人は、無知を自覚することすらなく、麦のように刈られては、その長くもない歳月の間の辛抱が足らないために、自ら命を断ってはいないか?

     ソクラテスの賢者の定義はこうだ。
     知らないことを知っているかのように振る舞う(知ったか)のが愚者の行いで、それをしないことがそれをするより優れた行い。
     また、死ぬことを恐れず、公人として活動するのではなく、私人として生活して、蓄財、名聞、栄誉への興味・関心・渇望を断ち切ったものが賢者の生活に相応しい。

     いま、わたしは無力な賢者が語った、後の世を生きている。無知の知が、いま生きるわたしたちにどれほど有力なものなのか。また無知の正体を知っているのだろうか?
     無知の無知が、無知がひっくり返されて、本能のままに生きることになるならば?
     知がどれほどか、わたしたちを幸福にしているかわからない今。
     わたしもまた、わたしの霊魂が、様々な問いかけに対して応答し、わたしに対する断罪に対して弁明に足るものなのか?
     それらを考えながら再読した。(答えは個別に考え残しておく) 2023.06.14.18:12
     

    1.無知の知
     よく知りもしないのに、それを愛することは出来ない。
     同じように、国家をよく知らないわたしは、国家を愛してはいない。必ずしも国家を知るべき対象だとは思わないからだ。わたしには知り得ないところで、国家は動いている。
     闇雲に知ることの意義を感じられない。
     でも日本という国籍を持って、この地に安住しているわたしは、この国家の恩恵を受けている。なのに国家をよく知らないのは、怠慢だろうか。

     仮に(今住んでいる)国家の成り立ちや、仕組みを自分の家のように熟知する人間が大半であれば、その国家は安泰ではないか?
     国家によって存在することを自覚し、国家がなすべきことが分かり、そのために自分が今何をすべきかが分かる個人が大勢いる。
     そんな国家が幸福な国家と言えるのかもしれない。

     そこで疑問になるのが、ソクラテスがしたことは果たして国家のためになったのかどうか?だ。

     

    2.暴かれたのは無知だけだったのか?

     本人の意思に関わらず、問答は“公”を敵に回すことになった。
     国家や国法の実行者にある政治家、メディア・市民の娯楽としての役割を果たしていた詩人、建物・公共物・生活の基礎を造る手工者らの無知が暴かれていく。
     ソクラテスが暴いたのはそれだけじゃない。国家の根本システムの虚妄を啓発したのではないかと思う。
     分業の極致である国家そのものの性質/弊害=分断。
     冒頭に書いた、「国家のことをよく知らずにそこに住む」人々の姿が、彼の手によって指摘されたのではないか?
     国家は正義を、国法が善悪を“わたしたちに変わって”考えてくれること、それを利用する人間達が出現していること、それらを知らないままにわたしたちが生きていることの危機的状況が見えてくる。

    3.国家の敵“多衆の誹謗と猜疑”
     『サイコパス』のシビラシステムに対峙する人々とは対照的に、彼は、システムを活用する人間達の盲を開くことに終始する。弁明に続くクリトンには、国家への恭順がより強調される。

     判決が下されたあと、彼は、死刑への反対投票を行った人々を「裁判官諸君」と、それまでの「アテナイ人諸君」とは呼称を変えて語りかける。

     彼の言葉に耳を傾けて、その論理を理解し、自ら選択をして反対投票に応じた人々は「無知の自覚者」として、この国家というシステムに生きる人間たちの無知と脆弱性を理解した自立した人間のように感じられる。
     この場を支配する空気“多衆の誹謗と猜疑”の圧力に屈せず、自分の頭で考えるができる、真の市民の誕生がしたと見える。
     また、“多衆の誹謗と猜疑”こそが、彼が問答の度発見した、無知と言う病巣によってもたらされる状態であるのかもしれない。(彼が敵として挙げたのもそれで、和解には、時間をかけての対話が必要だと語る)
     同時に人々の無知を巧みに利用して私利私欲を満たす人々の存在も明らかにしていく。
     彼らの保身のために“多衆の誹謗と猜疑”は扇動を受けて、今回のソクラテスのような彼らの敵を攻撃しにかかる。
     〈想像力の欠如した凡庸という悪〉を提唱したハンナ・アーレント。彼女が引き合いに出したアイヒマンが、無知者の典型像として浮かんでくる。

    4.死の選択と国家への恭順

     あくまで国家と国法の正当性を保証しつつ、無知者の不正を告発し、且つ人々が無知者にならないよう教育することの重要性を訴えるためには、彼は裁判の決定に従って、その罰を受けなくてはならなかったという背景が考えられる。

     交渉の引き合いとして出された処刑は、国法の運用者である裁判官が、用いる裁定として、最強の暴力に代わり得ることもまた事実だ。
     彼が暴力に屈することで、法を司る者たちが用いる暴力の有用性を明らかにしてしまわないためにも、彼は死を前に、自らの主義主張を変えないことを選ぶ必要があった。

     死の恐怖を利用した通念やシステムは、現在2023/06/13 21:19の時点で、あまりにも社会に浸透している。寧ろ、人類の歴史は、個人の死を避ける方向へと常に進路を選んできた面がある。高度医療技術の発達からアンチエイジングや健康嗜好などの文化発達において、死は好意的に捉えられていない。
     
    5.死は幸福なのか?

     動物が生きようとする意志(のようのもの)と、人間の死にたくないという意志の性質は異なると思う。動物は生きたいなどと思うだろうか?ガゼルがライオンに追い回されているときと草を食んでいるときのそれぞれでその身体を動かしているものは異なるか?動物も死ぬのが怖いのか?もしそれが可能なら、ずっと生きていたいと思うのか?

     死にたくないという意志が動物に一般的なものだとすれば、死を受け入れる態度は人間的なものなのか?それとも、死を受け入れる態度もまた人間には固有のものではなくて、動物的なものなのか?そもそも、人間に固有なものとは何なのか?
     ガゼルがライオンに襲われたとき、草がガゼルに食べられるように、ガゼルが無抵抗のままで食われたとしたら、死にたくない気持ちは人間に固有だと言えるかもしれない。

     ソクラテスは死刑を受け入れる理由の一つに、自分がもう七十を過ぎた高齢者であり、余命が幾ばくも無いことを上げる。もし医療技術が別次元的に高度に発達して、人間の寿命が千歳になったとしたら、彼は何と言うだろうか?残り九百年はあるかもしれない生を捨てて、同じように死刑を受け入れるのか?
     が、死ぬことが恐怖であるというのは無知から来るもの(とソクラテスは言う。ただ、わたしたちはそれこそ何千年も前から死に直面してきたわけだ。死を自然なものとして受け入れらいわたしたち。その恐怖は。市民生活に特有なものなのか。それこそ、生や死にまつわる虚妄に囚われ、知を獲得したつもりが、逆に、知から離れてしまったのか?)その意見は寿命の前提が変わったくらいでは揺るぎそうにもない。

     死への恐怖は痛みへの恐怖であったりするかもしれない。死刑ならば、電気椅子で皮膚が焼かれるような痛みとか、絞首刑なら窒息する痛みとか。ただ痛みが属するのは感覚ある生の領域だ。
     わたし自身は、もはや意識が永遠に失われることが堪らなく恐ろしい。そのことを考え始める恐ろしくて息がつまり、動けなくなるくらいだ。
     でも、ソクラテスが言うように、死んでいる状態が無意識なのだとすると、死んだらもう死ぬことへの恐怖からは解放される。よくよく考えれば、死ぬことの恐怖は妄想の領域を出ない。死は生のなかに存在できない。生が死の中なかに存在しないように。
     
    6.霊魂を良くすることについて

     霊魂については、形而上的な意味合いなのか?例えば神々と国家とを信奉する敬虔な市民生活とか。労働や公共活動への参加か。日々の暮らしの充実なものなのか。はたまた学問や芸術の探求やらなのか。
     ただ、それがどんな形をとるのかは個人によって違えども、蓄財や名聞や栄誉を求めることを避けることで、本来霊魂が向かうべき道から逸れるのを防いでくれるとひとまず受け取った。

     正義を為すには公人として活動するのではなく私人として生活せよと語るのは、公人がいかに蓄財と名聞と栄誉の上に成り立っているかがよく示されるからかもしれない。
     公人はまた、正義を貫こうとすれば、その生命を犯されるともソクラテスは言う。
     政治をする公人たちが腐敗しているのなら、その扶養者であり教育者である国家や国法は間違えていないのか?これに関してはソクラテスが何と言うのかを知りたい。
     公人を揶揄するソクラテスは、国家や国法の限界を見たのではないか?私人として正義を発揮する彼の生き様は、腐敗した公人の運営する国家と国法によって成り立っていた。
     ならば、私人として公人よりも強大な力を持つ必要がある論理に行き着かないだろうか?
     また公人の腐敗を防ぐための一手段に、ソクラテスの問答があったと考えれば、新たに、私人と公人との問答が公に開かれるものがあってもいい気がする。
     例えば、国会議員に疑問があれば、対面してその真偽を問いただすことができるような場と方法を用意するとか。国会議員はそれに応じる義務を持つとか。

     私人が貧乏であることで、一種の防止弁としてこれら霊魂への弊害を防いでくれているのかもしれない。

     が、ソクラテスは炉端のホームレスのような貧乏人なのではなく、支援してくれる財力者に囲まれている。好んで清貧の暮らしをしているが、望めば豪勢な暮らしのできる彼にとっては、蓄財は無意味だと言えるかもしれない。理解者、協力者に囲まれながら、彼らの支援を個人的なことのためには必要としない生活だ。

     陥りやすい過ちにはこう答えている。
    「自分自身のことを顧慮する前に自分に属する事柄を顧慮しないように~国家そのもののために顧慮する前に、国家に属する事柄を顧慮しないように、その他一切の場合にもこの順序に従って顧慮するように」
     自分自身のことと自分に属する事柄との違いは何だろう?
     意志はどちらにあたるだろう?人間であることが先にくると、どの国の人間かは後者にくるか?
     会社に行きたくないのが自分自身だとして、社員なのだから内情を押しても出勤するのが当然と考えるのは自分に属する事柄だろうか?
     父親で或る以前に、ひとりの人間であるとか。
     この帰属関係の順序を誤ると、大金持ちになりたいが先行して、何のために金を稼ぐのかの目的が低次の手段に取って代わることになってしまう。見たところ実際的で即物的な内容ほど、この順序の誤謬に見舞われやすい。

     正義に反して少しの譲歩もしたことが無い。
     誰もが円滑さの前に様々な譲歩をする。円滑なコミュニケーションのために、主義主張を巧みに変えつつ、空気を読んで、円滑な社会運営に適応して漂うような行き方を選択する自分たちは、なんと譲歩を身につけていることだろう。
     結局、ソクラテスが危惧したような、無知な大衆とそんな大衆の無知を巧妙に扱う上層とで分断された現代の国家がごろりと目前に転がっているように思える。国家は個人にとっては、まるで他人だし、個人は国家にとって確かな役割を持っているとも感じられないまでになっている。
     目線を上げないように、顔を見られないようにしながら地面を見つめて、早々と通り過ぎるような無知なわたしたちは、地べたに座り込んで、今自分が座っているのはどこなのだろうかと考えるべきなのかもしれない。(初読所感 2023/06/14 0:30)


    背景〜

    「私以上の賢者はひとりもいない」と神託の下ったソクラテス。彼は、この神託の立証を始める。賢者と評される人々のところへ赴いては、その無知を明らかにして自らがより賢者であることを確かめた。そうして知ったかぶりを指摘された人々の憎悪を買う。政治家、詩人、手工者…。やがて青年たちが彼の問答を真似始めて、この地は論破ブームの熱狂に侵されていく。


    『クリトン』

    ~人間の子、国家の子~

     わたしが恋人とよく話すことのひとつに、子供を作って親になるなら、自分の生活より子供を優先すべきだし、それができないなら子供を作るなという話題がある。
     ネグレクトや虐待のニュースを見ると、尚更養育能力に欠け、養育環境に不足しているのにどうしてこどもを作ったんだ?と思う。

     “産まない”という選択肢もあったはずでは、と。

     それを考えると、いくら政治が主導で“子育て支援”“育児世帯への補助”を打ち出したところで、結局のところは、子育てをする当人の主体性に焦点があることに、ぼんやりと、政策頼みの少子化対策に対する疑問が浮かんでくる。

     わたしはこどもを生もうとは思わない。少なくとも現時点では。こどもを養育するに足る蓄財や安定的な収入がないし、またこどもを持つためにそれらに対する努力をしようと思えないからだ。

     “人は子供を産ませるようなことをしないか、それとも、その扶養と教育とに伴って来る困難を堪え忍
     ぶか、どちらかにしなければならない(p,68)”

     このクリトンの発言を言い換えると、人間は「こどもを生まないという自由」を持っている。誰かや何かに強制されてこどもを生まなくてもいい。が、もし生むという選択をしたなら、養育の義務を負うことになる。

     では(こどもを作るきっかけになる性行為、そのきっかけを作る)性欲に関して考えてみる。性欲を抱く/抱かない自由があるというのは、文章的には飲み込めても、意味的には納得できない。“性欲を感じる”行為は、選択できるものじゃないからだ。もちろん感じた性欲に基づいてとる行動をコントロールすることはできる。
     理性的にこどもを作ろうとする人間にとって、クリトンの説はしっくりくるのかもしれないが、人間の自然的な感情でこどもが欲しいなと感じることに対しては、“養育の義務”論はあまりにも不釣り合いな印象を与える。

     “われわれに従って市民生活をすることに同意して来たのだ~特にここで子供を拵えたのは(p,81)”

     どこか国法や義務によって子育てや養育のあることが薄気味悪く感じられる。返す刀で子育てを親の義務と捉えている自分にもまた薄気味の悪い、なにか言い訳じみたものを感じる。
     子作りに関して、多分に法律的、国家的、国法的な意味合いが含意されることで、「子供を産んで、育てたい」という自然な感情が害され、むしろ影をさすかのような、影響を与えているようにすら感じる。

     少なくともわたしは、子育てをするのは親の義務であり、責任を伴う行為であると自覚している。
     そして、こどもを持ちたいという自然な感情が、そもそも、もう湧いてこないのだ。これは、同じように出産適齢世代の男女に一定的な影響を与える文言だと思う。
     わたしたちの国家社会は、国法によって負わされる義務と責任によってしか、子どもを養育できなくなってしまったのではないか?と仮説を立てる。
     文字通り、国家や国法が人の親としての効力を強く発揮している社会では、人間の動物としての自然な感情・行為過程を経て生まれてくる子どもが、その誕生前から義務的要素を含まされて生まれてくる。
     
     そう考えるととゾッとするのはわたしだけだろうか?

     これが少子化の根底にある背景だと感じる。
     国家ありきの個人だと考えるのなら、個人の意思もまた国家に左右される。国家が養育に足る環境を用意できず、個人もまたそんな国家の影響を受けて子どもを産む、生まないの選択をする国家と国民の関係があまりにも不健康に感じられる。(ひとりっ子政策なんかはその典型)

     ソクラテスが国法に従うことを是と言うのには、国家が誤っている場合もあり、誤った国家に対して、比肩しうる力を個人が持つには余りにも現実味がないという理由から反対の立場を取りたい。

     国家を正すだけの力の無い個人は、その国家を後にするか、その国家のいかなる命令にも従う外ないことを認めれば、ユダヤ人のホロコースト、ソ連のホロドモールもまた致し方ないことになる。

     人間の子は国家ではない。人間の親は人間であり、国家や国法などの理性的建造物の産物ではない。

     子供としては、義務的に育てられることに違和感を感じるし、子供をまた市民として教育することに生き甲斐を感じるのかといえばそうは思わない。

     絶対的な国家というものは、まだこの地上に存在したことがないのだから。

     国家を間違ったものにさせないためにも、ソクラテスは自らを国家が殺さないように、最善の手を尽くす必要があった。クリトンやプラトンを擁する援助によって自衛を施しながら、再審の機を得るために奮闘し、一歩も退かずにアテナイにとどまることは出来なかったのだろうか?
     クーデターや革命という手段によってだ。(こう書いていると、アウンサンスーチーさんが思い浮かぶ)

    ~多衆の偶然性~

      “彼らには人を賢くする力も愚かにする力も
      ない。彼らのすることは皆偶然の結果なのだよ  
      (p,66)”
      “多衆というのは軽率に人を殺すかと思えば、ま 
      た、何らの熟慮なしに、出来るならばこれを蘇  
      生させてみたいなどと考える連中なのだ。
      (p,75)”

     多衆の偶然性は例えるなら、雨や風のような自然の運動だと思う。そのものに善も悪もなく(多衆における当事者たちが善悪の立場を明らかにしていようとしまいと)その行為によってもたらされる産物もまた偶然の結果だ。という説明はある程度納得することができる。

     つまるところ、国家はその構成員である多衆の自然災害的な運動に悩まされ、ときには、人災として、多衆の影響が個人の上や特定の集団に降りかかってくると解する。
     
     “国法のない国家を誰が好く者があろう。(p,85)”

     では偶然によって“多衆はやっぱりわれわれを殺すことが出来る(p,74)”ことを許す国法を持った国家は好かれるのだろうか?ソクラテスの死刑は、寧ろその逆で、偶然の結果、公正なる人間を処分することを国家が許容し、黙認する国法を持った国家であることを示唆しているのではないか?

     “世人のあらゆる意見が尊重されるべきではなく、ただ一部だけが尊重されるべきであり、他は尊重されるべきでないということや、また万人の意見が尊重されるべきではなく、一部の人の意見は、尊重さるべきであり他の者の意見は尊重されるべきでない(p,71)”

     多衆を制御し、導く一部の尊重されるべき国法とその運用者を持った国家こそ、あるべき姿のはずじゃないかと思う。(共産主義の形態で、それは失敗に終わっている。衆愚政治に陥らない民主主義の形態は未だに模索中)ソクラテスは国法に従って、処刑されることで、アテナイとその国法がまだ健全に機能している/機能させるのは個人だという範を垂れーたのだろうけれど、それは間違っているものを、正しいかのように見せかけただけだろう。結局は、腐敗した国家は滅びるしかなかったのかもしれない。

    ~公正と正義の論(正義の正義性)~ 

      “何人に対してもその不正に報復したり禍害を加えたりしてはならないのだね、たとい自分がその人からどんな害を受けたとしても。~ところがこの信念を抱く者と抱かぬ者との間には、まったく協議の余地が無い(p,77)”

     これがために、『クリトン』におけるソクラテスの論理が最強になっていると思う。
     ここでソクラテスの言う公正さとは、裁判官のもとに、告訴する人間がいて、投票者がいて、正式な手順と原則に則って行われた裁判とその決定を指す。
     国家にとっての正義が、その都度変化するような人情を持つ多衆によって審判されることを、ソクラテスは認めている。公正な原則、手順によって下された決定が正義だとするならば、正義の正義性が問われる必要がある。(それには多数決ではない、どこか普遍的な意思決定のあり方が必要かもしれない)
     寧ろその“正義の正義性”について、ソクラテスや同時代のアテナイ人は語り合うべきだったのではないかと思う。公正さに依存するあまり、正義を問考えることから逃げ出した人々の国家と国法にもはやどれだけの正義が残されているかは、考える由もない。(二読目感想 2023/06/15 17:23)

     

  • 難しかったが、ソクラテスの細かいほどまでに公平さ求める姿があったからこそ、死刑となっても語り継がれるのだろうな。いや、死刑になったから余計語り継がれたのか?ソクラテスとクリトンのように、私も問答してみたかった

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著者プロフィール

山口大学教授
1961年 大阪府生まれ
1991年 京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学
2010年 山口大学講師、助教授を経て現職

主な著訳書
『イリソスのほとり──藤澤令夫先生献呈論文集』(共著、世界思想社)
マーク・L・マックフェラン『ソクラテスの宗教』(共訳、法政大学出版局)
アルビノス他『プラトン哲学入門』(共訳、京都大学学術出版会)

「2018年 『パイドロス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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