- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003360149
感想・レビュー・書評
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知識とは何か?
今回は3つの仮説を検証し次の結論を得ている。知識とは感覚ではない。知識とは真なる思いなしでもない。知識とは真なる思いなしに言論が加わってできるものでもない。以上。へっ?(笑)
最後にソクラテス自身が上記のように簡潔にまとめているが、本書では知識そのものを主題にしているというよりは、当時流布していた知識論の有力説を巻き込んでの検証を主としており抽象論が多い上、また、まわりくどい述語の多用のせいで(ないということはない、ということがないならば・・・、のような使い方)、結局、肯定文なのか否定文なのか直截的に捉えづらい議論がわかりにくく論理を追うのに難儀した。(泣)それに「プラトン」でよくありがちな、一旦、ソクラテスに「正」と証明させておいてから、「否」と再論証する構成にも頭が混乱してしまった。(笑)
最初の検証における、プロタゴラスの「あらゆるものの尺度は人間」とする説とヘラクレイトスの「万物は流転している」とする説の批判はなかなか興味深い。認識にいたる仕組みを想定し、「ある」と「なる」の相違を明確にした上で、主体認識と物事の相対性のせめぎあいの論説は本書の大いなる見どころだ。各人の感覚が違うからといってその物自身が違うわけはない、しかも全ての物は流動的なものである、しかし、固定しなければ知識とはなりえないとした上で、知識は感覚とは別のものとする。ところで、故・プロタゴラスが地面から首だけを出して本議論を聴きに来るという風景はかなりシュール。(笑)2つ目の検証では、真なる思いなしとは何か?というよりは、「そもそも虚偽の思いなし」が可能かを、「知っている/知っていない」「感覚している/感覚していない」の組み合わせによる正否分析に重きがおかれいて、「虚偽の思いなし」は不可能との結論を得ている。しかしその後、「記憶違い」「勘違い」レベルにまで議論を辿っていくのはいいとして、「知っているのに知っていない」可能性の議論にまで発展するのは少々広げ過ぎな感がある。そして、3つ目の検証では言論=言葉を、単語とその単語を構成するアルファベットレベルにまで分解し、単純要素とそれの束になったものでの可知/不可知レベルの検証を行っているが、これも少々度が過ぎているのではないか。(笑)
プラトンの対話篇はソクラテスV.S.大物という議論の図式がとても面白いのだが、今回のテアイテトスの設定がかなり若い「お坊っちゃん」であったためか、産婆であったという母親に習い大人向け産婆を自認するソクラテスの論証の独壇場の感があり、白熱した議論があまり見られなかったところは少し拍子抜けがした。(笑)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何とか読み終わりましたが、まあ、亀の歩みでした。プラトンの対話篇(対話の形で話を進め、事の真なる様相を明らかにしていこうとする様式)の一つで、ソクラテスとテアイテトス、そしてテオドロスによる「知」についての対話を、30年後に知人が友人にその書付を紹介する形で記されている。正直、話があっち行ったり、こっち行ったり、結局提出された3つの主張はすべて否定され、前2人の話を聞いていたテオドロスも途中でソクラテスにより巻き込まれる等々、よく分からないまま読了しました。しかし、対話という形式で、一から「知」について考え調べていこうという話の性質上、自分もこの対話に巻き込まれ、日常においてそれは何であろうかと折々考える事になりましたし、結論が出ないという事も結局、日々謙虚に事象を受け止め思考していくことが人して大事なのだよ、とソクラテス(≒プラトン)に言われているようで、励ましを得ました。そして、何より仕事仕事の毎日の中、時間や空間の束縛を離れ、真理の楼閣を仰ぎ見るような思いに時折触れられたのは、久し振りに心地よかったです。
しかし、話の最後はこれからソクラテスが死へと誘われる裁判沙汰へ向かう場面という、そこはかとない暗さ、悲しさを感じる終わり方。全体の内容と共にダイナミックスさも感じました。今度は『ソクラテスの弁明』を含めたの対話篇も読みたいと思いました。但し、もう少し予習をしてから(笑)。 -
読んでて楽しい(かもしれない)プラトン対話篇シリーズ、本書の副題は「知識について」。構成としてはプロタゴラスの人間中心説や「感覚は即ち知性である」といった説への反駁が中心となり、結論として知性とは何かというものは明示されることなく終わる。若干煙に巻かれたような気もするが、問われている内容に関しては20世紀の哲学問題とリンクするところもあって興味深い。それにしても相変わらず、プラトンの書くソクラテスは若い男の子が大好きだ。「それはつまり君が若いからなんだよ、愛する坊やさん」とか完全に口説き文句じゃないですか。
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屁理屈とも取れるようなことを延々とやっている。語られ方は一緒でも、語られる対象が違うことでこれほど難解になるとは。「ゴルギアス」のように明快ではない。
結局結論はというと、人間は知識というものを判別することは出来ず、ただ出来るのは、知らないことを知っていると思い込むことがないことを知っていれば、人に対して、迷惑をかけることがなく、より人と円滑にコミュニケーションがとれるということなのだろうか?本当にそうかしら???
よいものは善であり、真理は善であるとするなら、そういうことになるかなあ。 -
改版前の旧版 (2012 年、おそらく最後の刷) として登録。
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プラトンの書籍の中では議論は愚鈍だが、相対主義批判の先駆けと考えれば、何かくみ取れるものもあるだろう。
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現代芸術の戦略から
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知識とはなにか?という問い。