日常生活の精神病理 (岩波文庫 青642-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (606ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003364291

作品紹介・あらすじ

よく知っているはずの画家の名前がどうしても思い出せない。ありえない言い違いや読み違いをしてしまう――日常のささやかな度忘れや失錯の奥に潜む、思いもかけない想念や欲望とは。フロイト(1856-1939)存命中にもっとも広く読まれ、各国語に訳されてきた著名な一作の改訳新版。十全な注と事例の一覧も付す。

感想・レビュー・書評

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  • 度忘れや言い間違い、勘違いといった誰にとっても身近で日常的な失錯行為が、無意識による記憶の改ざんや妨害によってもたらされるという説を提示する著作。全12章、約470ページ。各章末に原注、巻末に訳注が掲載される。11章に渡って、各種の「度忘れ」「遮蔽想起」「言い違い」「取りそこない」「勘違い」といった失錯行為を分類し、それぞれを解説する。第12章は本書を総括する終章にあたる。

    前述のような数々の失錯行為がもたらされる無意識の主な原因として指摘されるのは、「抑圧」である。私たちは基本的に忘れたかった、または思い出したくない何かを常に抱えており、そのような抑圧が失錯行為によって隠蔽され、もしくは逆に暴露として働く。各種に分類された数多くの事例を通し、この事実を証明するために本書は費やされている。

    このような失錯行為の大きな特徴のひとつとして挙げられるのは、失錯行為を行った当事者にとってこそ自覚が難しい現象だということだ。岡目八目とは逆に、本人だけが自分自身の行為の自明さに気付かず周囲との認識との違いに当惑するような経験は、前述のような失錯行為に限らず誰にとっても覚えがあるだろう。このような状況は、著者の次の言葉によって上手く言い表され、生きていくうえでの心構えとしても十分有用に思える。

    「人は誰しも自分のまわりの他人に対して終始、精神分析を行っており、そのため自分のことより他人のことのほうがよく分かっている。「汝自身を知れ」という格言に従う道は、自ら自身が行う一見偶発的に見える行為や不履行を研究するという手順を踏んで進むよりほかないのである」

    自分自身の何気ない失錯行為を虚心に捉える態度は、自らを理解するうえで大事な姿勢ではないかと考えさせられる。また、終章において迷信をめぐって論考を重ねる過程で述べられた次の言葉は、著者の思考の特徴の根本を示すものとして、興味深い認識だと感じる。

    「私は、外的な(現実面での)偶然は信じるが、内的な(心理的な)偶然性は信じない」

    内容面から離れると、本書の構成面でのもっとも大きな特徴としては、とにかく事例が多いことが挙げられる。著者自らの経験も含めて多数の事例を列挙し、章によっては40近い事例が紹介されている場合もある。個々の事例の解説も含めれば、全体的な分析や考察よりも事例にまつわる記述のほうが紙数に占める割合はずっと多いだろう。個人的には途中からは特に、具体的な事例についてはその多くを読み飛ばすか斜め読みする程度に終わった。

    ちなみに、本書にあるような失錯行為が必ずしも無意識的な原因ではない単純な失錯行為の場合があること、また失錯行為に無意識的な原因を求める考え方は著者自身が初めてではないことについても何度か言及されている。

  • 精神分析を創始したジークムント・フロイト(1856-1939)が、人びとが日常生活において犯すさまざまな失錯行為について豊富な事例を用いて論じたもの。初版1901年。その後四半世紀にわたって版を重ねるごとに、失錯行為に関する事例が多数追加されていった。本書においてフロイトは、失錯行為がもつ心的な意味を解釈し、そうした行為が惹き起こされる機制を解明しようと試みた。そこでは、人間の内部にあって自分の意識の統御が及ばない領域としての「無意識」の存在が重要な役割を果たすことになる。

    フロイトといえば、失錯行為、夢、精神疾患など、必ずしも物理学をその典型とする実証主義的かつ要素還元主義的な精密科学の分析に馴染まない精神の領域を対象として、日常的な意識の深層にあって意識それ自体を規定しながら意識そのものによっては到達不可能とされる「無意識」をはじめ、「エディプス・コンプレックス」「死の欲動」など実証が困難な概念を用いて理論を展開していくため、その非科学性が批判されることも多い。しかし、以下の個所には、一見恣意的で非合理的な人間の心的現象のうちに法則性を見出そうとする、自然科学者フロイトの合理的な態度とその方法論が表明されている。

    「〔失錯行為や夢を惹き起こす心的な働きは〕いずれも、一見すると異様な働きと映るが、正常な機能が二つないしそれ以上あって、それらが互いに独特の仕方で干渉しあっていると考えれば特に異常でもない」(p475)。

    フロイトの主要著作は次の通り。

     1900『夢解釈』
     1901『日常生活の精神病理』
     1905『性理論に関する三篇』
     1913『トーテムとタブー』
     1915『戦争と死に関する時評』
     1917『精神分析入門講義』
     1920『快感原則の彼岸』
     1923『自我とエス』
     1924『エディプス・コンプレックスの崩壊』
     1927『幻想の未来』
     1928『ドストエフスキーと父親殺し』
     1930『文化への不満』
     1933『続・精神分析入門講義』
     1939『モーゼと一神教』

    □ 説明原理としての「快感原則」「防衛機制」「抑圧」「無意識」

    ①死、性など、人間がそれによって否応なしに規定されている人間性以前のヨリ根源的で即物的な存在条件と連想的につながる心的内容や、不安、恐怖、憎悪、怨恨、嫉妬、疑心、恥、劣等感、優越欲求、自己嫌悪、自己欺瞞、罪悪感、利己心、支配欲、肉欲など、社会的、文化的に望ましくないものとされる感情や欲求と連想的につながる心的内容は、自らの精神的安定を脅かすものとして自我に強い不快をもたらす。

    ②一般に自我には、快をヨリ多く獲得し不快をヨリ多く排除しようとする傾向(「快感原則」)があり、不快を惹き起こす心的内容(思考、観念、表象、感情、記憶、衝動など)から自らを守ろうとする機能(「防衛機制」)がある。この機能によって、自我は不快をもたらす心的内容を意識の外部へ排除しようとする(「抑圧」)。

    ③このように意識によって拒絶された不快な心的内容が蓄積されるところに形成されるのが「無意識」という領域である。ただし、無意識の領域へ抑圧したからといって、不快な心的内容そのものを無かったことにすることはできない。つまり、抑圧した不快な心的内容は、何かきっかけさえあれば再び意識の領域へと回帰しようとその機会を窺っている。

    □ 失錯行為が惹き起こされる機制

    失錯行為(度忘れ、言い違い、書き違い、読み違い、勘違いなど)とは、意識において或る行為Aを為そうとしながら、実際においてはそれを行為し損ない、結果として別の行為A’を為してしまうこと。こうした失錯行為が惹き起こされる機制は、上述の概念を用いて以下のように説明される。ここでは失錯行為をふたつの場合に分けて説明する。

    ・「シニョレッリ」(第1章)の事例に代表される失錯行為
    以前に無意識の下に抑圧した或る不快な想念が、再び意識の上に回帰しようとして、音や綴りなど動作Aに伴う外的な要素を利用しながら、発声器官や運動器官を作動させて、動作Aを別の動作A’に改変してしまう。つまりこれは、かつて抑圧した想念が再び意識の上に回帰しようとすることで惹き起こされる失錯行為である。

    ・「aliquis」(第2章)の事例に代表される失錯行為
    動作Aが、以前に無意識の下に抑圧した或る不快な想念と連想的に結びつけられることで(そこでは、一切を自己へと関係づけようとする、人間の一般的な傾向性も一役買っているだろう)、その想念を再び意識の上に回帰させる引き金の役割を果たしてしまう場合、快を求め不快を避けるという快感原則から、この動作Aの実現を妨げようとする力学が作動し、音や綴りなど動作Aに伴う外的な要素を利用しながら、発声器官や運動器官を作動させて、動作Aを別の動作A’に改変してしまう。つまりこれは、かつて抑圧した想念が再び意識の上に回帰しようとするのを妨げて、それをいまいちど無意識の下に抑圧する過程で惹き起こされる失錯行為である。

    上では「無意識」を説明原理と呼び、あたかもそこから失錯行為の機制が演繹されてきたかのような書き方をしてはいるが、研究史的にいえば、フロイトの理論が歩んだ過程は、当初は作業仮説としてあった「無意識」の概念が、失錯行為、夢、神経症などの膨大な事例研究を通して、その有効性やひいては実在性が明らかになってきた、というのが実際のところだろう。

    「要するに、明らかな語りの障害についても、あるいは辛うじて「言い違い」に数えられるような、もっと微妙な語りの障害についても、言い違いが生じる上で基本となり、また言い間違いが成立してくるのを解明するのに十分だと私が考えるのは、音の接触作用の影響ではなく、語りの意図の外側にあった想念の影響である」(p145)。

    「私たちの心的な働きのある種の不備[略]と、何の意図もないかに見える所作とは、それらに精神分析的な検討を加えてみると確かに動機を備えており、しかも、意識にとって未知の決定要因を動機としていることが分かる」(p417)。

    「それらの現象〔失錯行為や偶発行為〕は、心的な素材が完全には抑え込まれなかったこと、つまりその素材が意識によって追い払われながら、表に出てくる能力をすべて奪い去られたわけではないことに起因する」(p477)。

    こうした失錯行為およびその背後にある無意識の本質を言い当てる思想家や学者の箴言がいくつか引用されており、その簡潔さゆえに理論的な説明以上に印象的でありかつ説得的だ。

    「これを私はやった、と私の「記憶」が言う。私がそれをやったはずがない、と私の誇りが言い、譲らない。ついには記憶が折れる」(p279原注、ニーチェ『善悪の彼岸』より)。

    「長年にわたって、私は、ひとつの黄金律を守ってきた。どういうことかと言えば、総じて私が従っている結論に反する何か新しい事実が発表されたり、新たな観察や考え方が私の前に立ち現れたりしたら、必ずただちにメモを取るのである。というのも、このような事実や考え方は、自分にとって都合のよいものよりも遥かにたやすく記憶から消失しやすいのを、私は経験から学んだからである」(p279原注、ダーウィンの言葉より)。

    「われわれは、小切手より請求書の入った手紙を、うっかり置いてしまいがちである」(p283原注、精神分析学者ブリルの言葉より)。

    なお、不快な想念が抑圧によって忘却されてしまうという現象は、決して個人の意識においてのみ起こり得るわけではなく、民族や国家などヨリ大きな集団の意識においても同様に起こり得る、ということは比較的見て取りやすいだろう。

    たとえば建国神話。或る地域に単一の国家権力が統治する安定的な平和状態が成立する以前、そこには多様な政治的意志をもった複数の集団による暴力的な闘争状態があったはずである。その諸集団の中で最大の暴力を以て血みどろの政治的な闘争を勝ち抜きその地域を平定した集団が、その地域を統治する唯一の権力として自らの正統性と正当性を主張するようになる。つまり、恣意的な暴力が正統的な権力を僭称するようになる。その際、権力がかつて闘争状態において暴力として犯した血生臭い歴史的事件は、権力の正統性を成立させるうえで障害となる。ここに、そうした不都合な歴史的事実を隠蔽し忘却させるべく、神話や伝統といったイデオロギー装置が動員されることになる。これは、「抑圧」の機制が、民族や国家という集団において作動したものであるといえる。

    さらにいえば、これは建国神話にのみ当てはまるのではない。たとえば、敗戦後日本の自己認識。自らを一方的に被害者(原爆、空襲、疎開、飢餓、特攻、玉砕など)としてのみ表象し、実際には加害者でもあったという歴史的事実(侵略、植民地支配、虐殺、戦時性暴力、人体実験など)を「国民」の記憶から排除しようとする動きが顕著である。これはまさに、日本国家と日本国民が共謀して自身にとって不快な歴史的事実を無かったものにしようとする、壮大な自己欺瞞の振舞いである。

    「ある民族の伝統や伝説が成立する上で、民族感情にとって都合の悪いことは想い出から排除し抹殺しようとする動機が作用しているのを勘案しなくてはならないことは衆目の一致するところである。さらに詳細に辿っていくなら、民族の伝統成立と個々人の幼年期の想い出とがそれぞれ形成される経緯については、完全な類比が見て取れるようになるのではあるまいか」(p258)。

    □ 人間の何気ない言動の多くは無意識を通して無意識のうちに為される

    偶発行為、症状行為とは、他の行為の実現を妨害することを通して無意識の想念に表現を与える失錯行為とは異なり、他の行為に自らを仮託することなく、それ自体として無意識の想念を発現してしまっている行為のこと。このように、意識の上に自覚的に現れてこないまま実行されてしまう何気ない言動の端々に、その人の無意識の下にあって当人自身も自覚できずにいるところのさまざまな想念が、露呈してしまっている。

    「気がつかないだけで、心には何千という穴が開いておる。目敏い者には心の中身なんぞ立ちどころにお見通しよ」(p372、ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』より)。

    「不思議だけれど、この手のことは毎日のように起こっている。ただ、観察力のない連中には見えないんだ。説明しろだって。憎悪がもつ心的な力は、われわれが考える以上に大きいんだ。ちなみに、僕が君にもらった指輪だけどね、石が落ちてなくなった。修理ができないんだ。駄目だね。僕と別れる気はないか……」(p371、ストリンドベリ『ゴッチクの部屋』より)。

    「実際、人は誰しも自分のまわりの他人に対して始終、精神分析を行なっており、そのため自分のことより他人のことのほうがよく分っている。「汝自身を知れ」という格言に従う道は、自ら自身が行なう一見偶発的に見える行為や不履行を研究するという手順を踏んで進むよりほかないのである」(p369)。

    とりわけ、言葉、文字、名前、数など、それ自体でさまざまな想念の象徴たり得る記号を読み書き等する際には、そこに意識の上には自覚的に現れ出てこない無意識の下の想念が顔をのぞかせやすいだろう。

    「かなり以前から、私は、数であれ名前であれ、それらを好き勝手に思いつくことなどできないという認識を得ている。たとえば冗談や悪ふざけで口走るなどして、ごく恣意的に作られたかに見える何桁かの数字も、それを調べてみるなら、そこには実際のところ到底ありえないとしか考えられない動機となる要因による厳密な決定が認められるのである」(p419)。

    「書き方が明晰で疑問の余地のないものであれば、著者が自分の書くことについて納得していることが分かるし、一方、わざとらしく回りくどい表現で、たとえそれ自体、正しいことを言っていても額面通りには受け取れないようであれば、私たちはそこに、著者にとって十分に解決しておらず、事態を紛糾させる思いや、自己批判の声が抑え込まれているのを聞き取ることができるのである」(p177)。

    「思っていることを話したり書いたりして表現するその言葉遣いにもそれを決定する微妙な要因が作用しているが、このことも丹念に検討してみる価値がある。ひとは一般に、自分の想いをどのような言葉で装い、どのような比喩で着飾るかは、自分で選んでいると考えがちである。ところが、少し詳細に観察してみるなら、表現の選択を決定する上で別の様々な観点が関与し、思いや考えという形を取りながら、そこにもっと深い、時に自分でも意図しない意向がほのかに透けて見えることが分かる」(p376)。

    □ 超自然主義への志向性と無意識

    失錯行為、とりわけ偶発行為や症状行為が興味を惹くのは、当該行為は確かに実在する具体的な人間によって物理的に実行されているにも関わらず、その行為は行為者の無意識の下で錯綜する多様な心的作用の結果として発現するため、当の行為者自身が、自らの意志によって当該行為を実行しているという自覚を持てないまま、それを実行してしまっている、という点にある。そのため、当該行為は個人の意識を超えたところから発する不可思議な事象である、と見なされがちである。もし無意識の理論に通じている者であれば、その不可思議さの理由を人間の内部に求めることができるが、そうでない者は、その理由を人間の外部に求めるしかない。ここに、「人知を超えた超自然的なもの」(運不運、運命論、神話、迷信、神秘思想、心霊主義など)への志向性が胚胎する余地が生じる。

    「ひとつの出来事が成立するのに自分の心の活動が何ら関わっていない場合、私は、その出来事が自分に、現実が将来どう形成されてゆくかについて何か秘密のことを教えてくれるとは信じない。しかし、自分自身の心の生活が意図せぬまま表出したものは、それ自体ほかならぬ私の心に属していながら何か隠されているものをやはり私に暴露してくれている、と信じる。私は、外的な(現実面での)偶然は信じるが、内的な(心理的な)偶然性は信じない。迷信を信じる人はその逆で、自分の偶然の行動や失錯行為に動機があるなどとは思い至らず、心理的なものには偶然性が存在すると信じている。それでいて、外的な偶然には何か意味があり、それがやがて現実の出来事となって現われ出るであろうと考え、偶然を、何か外にあって自分には隠されているものの表現手段と見なしがちである。私と迷信深い人との違いは二つある。第一に、迷信深い人はあるひとつの動機を外に投射するのに対して、私はその動機を内に求める。第二に、迷信深い人は、偶然を外の出来事によって解釈するが、私はそれを想念のせいだと考える。しかし、迷信深い者が想定する何か隠されたものとは、私が考える無意識に相当し、偶然をけっして偶然としてそのまま認めずそれを解釈せずにおれない強迫という点では、私たちは共通する。
     さて、私の想定では、この、心的な偶然の背後に潜む動機について意識の上で知らないものの無意識に知っているということが、迷信の心的な根幹のひとつである。迷信深い人は、自分の偶然的な行為には動機のあることをつゆ知らないが、その動機となっている事実のほうは本人によって然るべきかたちで認知してくれと迫るものだから、その人は、この動機を遷移させて外界の中に収容することを強いられる」(p444-445)。

    より現代的なオカルトの分野(都市伝説、陰謀論、疑似科学、超能力、未確認生命体など)を受容する現代人の心性に関しても、無意識との関係で理解できる部分があるかもしれない。

    □ 思弁の心理学的解釈

    さらに一般化して考えてみる。従来、人間は、意識の上で自覚的に展開される理性に基づいて、思考し行動すると考えられてきた。しかし、フロイトによる無意識の領域の発見以降、意識は無意識を通して理解されねばならなくなった。つまり、人間の理性は、無意識の働きに支配されながら、当の無意識の存在を認識し得なかったがゆえに、本来は無意識の働きに帰するべき事象について、定義が曖昧な概念を用いてさまざまな思弁を繰り出していた、ということになる。とするならば、これまで人間が意識の領域で自覚的に理性を用いて産み出してきたものされてきたさまざまな思弁を、改めて、無意識によって規定されたものとして捉え直す必要がある。

    ① 形而上学批判

    こうした思弁の最たるものが、形而上学であろう。フロイトは、形而上学を心理学的に解釈し、以て心理学に従属させようと試みる。則ち、形而上学は無意識の作用の影に過ぎない、と。フロイトは後年、『トーテムとタブー』『幻想の未来』などの著作において、宗教や道徳を精神分析の概念を用いて心理学的に解釈し批判していくことになる。

    「さて、私の想定では、この、心的な偶然の背後に潜む動機について意識の上で知らないものの無意識に知っているということが、迷信の心的な根幹のひとつである。迷信深い人は、自分の偶然的な行為には動機のあることをつゆ知らないが、その動機となっている事実のほうは本人によって然るべきかたちで認知してくれと迫るものだから、その人は、この動機を遷移させて外界の中に収容することを強いられる。[略]。実際、私には、今のこの現代の宗教の中にまで及んでいる神話的な世界観の相当部分は、心理が外界に投射されたものにほかならないと思われる。心的な要因や関係について無意識がもつ密かな認識(言うなれば内部心理的知覚)は、超感覚的な現実の構築というかたちで反映されるのであり[略]、科学はこれを無意識の心理学へ戻してやる必要がある。人はあえて、楽園と原罪、神と善悪、不死などの神話をこのような形で分解し、形而上学〔metaphysics〕をメタサイコロジー〔metapsycology〕へと転換できるのではないか」(p445-446)。

    ところで、フロイトとほぼ同時代のヨーロッパに生き「厳密学」を標榜したフッサール(1859-1938)の現象学にとって、フロイトの精神分析は心理学主義あるいは自然主義として批判の対象になるのか。そもそも、フッサールとフロイトとの学問上の影響関係や人的な交流は存在したのか。

    なお、フッサールの主要著作は以下の通り。

     1891『算術の哲学』
     1900ー1901『論理学研究 純粋現象学序説』
     1904ー1905『内的時間意識の現象学』(講義録、出版は1928)
     1907『現象学の理念』(講義録、出版は1952)
     1911『厳密な学としての哲学』
     1913『純粋現象学と現象学的哲学の構想(イデーン)』
     1929『形式論理学と超越論的論理学』
     1931『デカルト的省察』
     1936『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

    ② 自由意志の否定と心的決定論

    さらにフロイトは、自由意志という観念も、無意識の心理学の立場から批判する。多くの人間は、或る動機から或る行動を実行したとき、その行動を実行に移せたのと同様にそれとは別の行動を実行に移すこともできたはずだ、と考える。このことは、意識の上に現れる動機以外にも自分の行動の決定に関与し得る何か別の要因が存在することを示唆している。従来、こうした意識的な動機とは別の要因が存在し得るということが、自由意志の存在を証明するものであると考えられてきた。ところが、フロイトによって、人間の意識は、その深層に意識それ自体を規定しながら意識そのものによっては到達不可能な無意識の領域をもつ、と考えられるようになり、状況が変わる。フロイトによれば、意識的な動機以外に自分の行動の決定に関与し得る別の要因が存在し得るという事実は、自由意志の存在を含意するのではなく、逆に、人間の行動は無意識の下に隠れた動機によって完全に決定されてしまっていることを含意する、ということになる。こうして、人間の一切の精神活動や行動はそれに先行する心的事象によって決定される、という「心的決定論」が主張されることになる。

    「意識的なものから来る動機による決定と無意識的なものから来る動機による決定という区別を導入すれば、この〔自由意志が存在するという〕確信感は、私たちに、意識的な動機が私たちの行動に関わる決定のすべてに及ぶわけではない、ということを教えてくれている。[略]しかし、このように一方の側から放免されても、もう一方の側、無意識から来る動機による決定は受けているのであり、それゆえ、心的なものはやはり一部の隙もなく動機によって決定されているのである」(p440)。

    畢竟、「自由意志」とは、人間が自分にとって不可視であり不可知であった無意識の働きに対して、それを自分自身の意志の働きであると誤認して、そこに貼り付けてしまったラベルに過ぎない、というのがフロイトの考えだろう。

    □ 無意識によって規定されている意識が無意識を認識することはいかにして可能か

    「知覚した外的な現実の像は、通常、知覚する個々人の心的特性をくぐり抜ける中で歪められるものであり、現実の像を歪みから守るなどというのは、どうやら、選び抜かれたごくごく僅かの、よほど冷静沈着な頭脳にしかなしえないものらしい」(p398-399)。

    これは無意識という領域を備えた主体が現実世界を認識することに伴う困難を述べたものだが、これと並行的でありかつヨリ原理的な困難、則ち無意識によって規定されている理性が当の無意識を対象化してそれを認識することに伴う困難、について最後に考えてみる。

    もし人間の理性が、意識の深層にある無意識によって規定されているものであるとするならば、その理性が、自らの前提条件である無意識を、フッサールの厳密学の理念に則る形で、無前提的に理解することは不可能ではないか。理性によっては到達不可能な無意識からの影響を被るという構制のうちにおいてしか、当の無意識について思考することができないとするならば、無意識によって規定される理性による当の無意識の理論とは、一体どのような境位にあり、どのような権利をもった理論なのか。人間の理性が、もしそれ自体にのみ依存する形で、則ち自立的な仕方で、存在しているとするならば、そこを起点にして世界の他の一切を対象として理解することが可能であるかもしれない(「アルキメデスの点」)。しかし、人間の理性が自ら以外の何かに依存していて、さらにその何かについて理性が完全に理解することが不可能であるとするならば、理性は自らの限界すらも自らの力、権利では確定させることができないということになる。

    意識や理性が自己関係的な構制のうちにあるという事態は、厳密学の理念に則る形で「意識の学」を構築することが論理的に不可能であることを、含意しているのではないか。とするならば、第一に取り組むべきは、意識や理性が置かれている自己関係的な構制を無矛盾に形式化した論理体系を構築することが可能か不可能か、可能であるならばそれをいかにして構築するか、という問題ではないか。もっとも、そうした構制はそもそも論理学では担いきれないものである、という可能性もある。

  •  原著は1901年から1924年頃までにかけて増補・改訂されたもの。
     本書は人文書院の『フロイト著作集』だと第4巻に入っているもので、フロイト存命中は世界中で最も読まれたベストセラーであったらしい。日本で本書が根付かなかったのは、恐らく新潮文庫のラインナップに入らなかったためだろう。もっとも本書の解説を読むと1941(昭和16)年にいちど岩波文庫で出たようだ。本書は同文庫の新訳版である。
     言い間違いや度忘れなどの錯誤の裏面には、その人の願望や様々な無意識的機制が働いている、というのが本書の大筋で、かなり大量に実例が列挙されてゆく。実例が多すぎて読んでいて疲れてくる部分もあるが、何しろ学術書なのだから仕方がない。例の不評な「氾-性-論」がほぼ出てこないので、多くの読者には受け入れやすいのではないだろうか。
     こんにちでは、フロイトなんて、とさげすみ、完全に捨てて顧みない人も多いようだが、そこまで「完全に」無効だとは私は思っていない。何よりも、現在は常識となった「無意識」領域のロジックを初めて大々的に明るみにし、20世紀の知の進展を支えた点は、歴史上かけがえのない偉大さだ。
     それまでは文学にしても哲学にしても意識上の思考などだけが語られていたのに対し、意識という表面にまで浮上しない底の方で、無意識という、常識的には不合理な、非=理性的でもあるシステムが機能しているという発見とそこに注視する思考は、私見では構造主義思想の先駆のようにもなっている。
     実は本書の言う「日常生活の精神病理」については、自分が最初に気づいたことではない、とフロイトも明言している。すべての「言い違い」に同じような無意識の機制が働いているのか、というと、そこはフロイトも断言はしない。こういった細かい部分を読んでいくと、学者として慎重な、真摯な姿勢も見られるのである。

  • ど忘れも科学的な研究材料にするフロイトもすごい。

  • 第一章 固有名詞の度忘れ
    第二章 外国語の言葉の度忘れ
    第三章 名前と文言の度忘れ
    第四章 幼年期想起と遮蔽想起について
    第五章 言い違い
    第六章 読み違いと書き違い
    第七章 印象や企図の度忘れ
    第八章 取りそこない
    第九章 症状行為と偶発行為
    第十章 勘違い
    第十一章 複合的な失錯行為
    第十二章 決定論、偶然を信じること、迷信、様々な観点
    後年、論理的に展開されている発想の芽が、早い時期の記述の中に垣間見える
    不快や刺激の軽減こそが有機体の本質
    後年の洞察は具体的な事例の観察の中から生まれてきた
    20世紀初頭・緊張と暗い予感を孕んでいた時期

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著者プロフィール

Sigmund Freud 一八五六―一九三九年。オーストリアの精神科医、精神分析の創始者。モラビア地方の小都市フライベルク(現・チェコのプシーボル)にユダヤ商人の長男として生まれる。幼いときにウィーンに移住、一八七四年ウィーン大学に入り、八一年医学の学位をとる。開業医としてヒステリー患者の治療を模索するなかで、従来の催眠術と決別する精神分析療法を確立。二十世紀思想に決定的ともいえる影響を与えた。

「2019年 『精神分析学入門』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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