失われた時を求めて(6)――ゲルマントのほうII (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003751152

作品紹介・あらすじ

祖母の旧友ヴィルパリジ夫人のサロンで、「私」はゲルマント公爵夫人とついに同席。芸術、噂話、ドレフュス事件など、社交界の会話の優雅な空疎さを知る。家では祖母の体調が悪化。母、医師、女中に見守られ、死は「祖母をうら若い乙女のすがたで横たえる」。

感想・レビュー・書評

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  • 第3篇『ゲルマントのほう』 第2部「ゲルマントのほう II」
    6巻で語られるのは、祖母の旧友ヴィルパリジ夫人のサロンでの会話、その帰り道にシャルリュス男爵から”私”への申し出、そして祖母の病気と死。
    なお、澁澤龍彦『異端の肖像』では、シャルリュス男爵のモデルといわれるロベール・ド・モンテスキウについて書かれている。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309400523#comment

    ヴィルパリジ夫人のサロンの内容はほとんど読み取れず_| ̄|○
    なにしろ会話といえば、芸術、ドレフェス事件、ゴシップなのですが、現実でも人の噂話を横で聞いてもあんまり面白くないですよね(^^;
    そのうえ正直言って彼らの洒落た言葉や言葉の影に隠された(が、はっきりそれと分かるように言う)当てこすりや本心などが全くわからない、というか、面白くない。「ある公爵はこのような言葉を洒落ていると思って使っている俗物である」「この夫人はこんな言い回しで自分の評価を上げている」と言われているんだが、なんというか「人間付き合いってたいへんね…」という感想しか出ない。
    そもそもこのサロンに集まる人は、ブルジョワ、没落貴族、田舎貴族など三流者ばかり。ではなぜそんなサロンになってしまったのかが書かれるんだが、上流社会のなかでもそんなことで階級が上下するのかとやっぱり大変だなあ…という感想しか浮かばず_| ̄|○
    もっともそんな三流サロンだからこそまだ若者の”私”が参加することができたんだが。

    それでもところどころ「上流階級なのにやってることは俗物じゃないか!」と感じられて面白いところもあった。
    まずはサロンの主のヴィルパリジ夫人。シャルリュス男爵からお金を借りたのだが、電報為替で返すのにピッタリの金額、つまり実際に借りた金額より為替代を差し引いた金額を返した。シャルリュス男爵が「お貸しした金額から為替代が足りませんが?」といっても「わかってますわ」と平然としている。
    現代の「振込手数料はお客様持ちでお願いします」と同じですね(^_^;)
    そしてドイツの大公がアカデミー会員に選ばれることを熱望して人脈の広いノルポワ氏に取り入ろうとする様相。自分を推薦してもらうために勲章を渡したりもする。しかしノルポワ氏は「私があなたを推薦しないのは、あなたのためですよ」とまったく動じない。勲章ってそんな風に決められるのか、そして大物になるにはもらったものに対していちいちお礼の心なんか持たない厚顔さが必要なんですね(^_^;)
    <ノルポワ氏とドイツの大公は、身近にチンピラを知ることはなかったが、国家と同じ次元でクラスことに慣れていた。国家なるものも、いかに偉大に見えようとも、これまた利己主義と策略のかたまりと言うべき存在で、それを手懐けるには力によるか、その利害を考慮する他ない。P199>

    そして、いままでも妙な存在感を示していたシャルリュス男爵が、本格的に「私」に接触してきた!
    サロンの帰り道でシャルリュス男爵は、わざわざ「私」と一緒に歩き「若いあなたが社交界に出て地位を築くために力になりたい。私はこんなに実績があり(自慢話が続く)あなたに教授したい。まずは毎日会う必要がある」と申し出る。
    今までのシャルリュス男爵は、「妻を亡くした」嘆きを口にはするが、同性愛者というのは周知の事実のようで、スワン氏からはのちに妻になるオデットの見張り役のようなことを頼まれたり(同性愛者だから取られる心配がない)、ユダヤ人への侮蔑を公言したり、自分は上流貴族のわりには爵位への皮肉を見せるなどの反骨者。
    <治そうといてはいけない病気というものがあって、なぜかというと、その病気があればこそもっと重大な病気から守られているのです。P267>
    <かくしてエゴイストはつねに相手をやりこめてしまう。自分の決心は揺らがぬものと最初から決めているから、その決心を思いとどまらせようと情に訴える相手のやり方が胸を打つものであればあるほど、エゴイストたちは、そんな訴えに聞く耳を貸さない自分は棚に上げ、聞く耳持たぬ状況に自分を追いやる相手をけしからんと思うのだ。P243>
    『異端の肖像』では、シャルリュス男爵のモデルといわれるロベール・ド・モンテスキウについて書かれている。
    https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309400523#comment
    モンテスキウの世紀末退廃感もすごいが、プルーストの倒錯もすごい。「失われた時を求めて」といわれたらものすごい大作家の書いた大難物の大作で心して読まねばと思ってしまうのだが、考えてみたらそんなもんよほどの変わり者でないと書けない。あまり気負わず読んでいこう。

    そんな絡まった上流社会の付き合いから、ラストには祖母の死が静かに語られる。
    発作を起こすようになった祖母がべッドに横たわる姿を「獣のよう」と言われるような苦しみも見せる。いよいよ死にそうなときには「慰めたくて」と客が強引に立ち入ってきたり、やっぱり上流社会の人付き合いって面倒くさいな。
    そしてラスト。祖母は息を引き取り、その姿からは苦痛が消えていた。この描写が美しい。
    この6巻は、人々の思惑が絡み合い、腹を探り合いで進んでいったのだが、ラストの静寂さには心が洗われるようだ。
    <祖母の目鼻立ちには、純血と従順によって優雅に書かれた線がよみがえり、つややかな両の頬には、長い年月がすこしずつ破壊したはずの汚れなき希望や、幸福の夢や、無邪気な陽気さが漂っている。生命は、立ち去るに当たり、人生の幻滅をことごとく持ち去ったのだ。ほこかな笑みが祖母の唇に浮かんでいるように見える。この弔いのベッドのうえに、死は、中世の彫刻家のように、祖母をうら若い乙女のすがたで横たえたのである。P378>

  • 「結局われわれは、自分の暮らす樽の底で、ディオゲネスよろしく人間を求めているのだ。」
    「世界は、一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される」

    サロンで舞う陽気な陰口のワルツ。ドレフュス事件においてのそれぞれのあらゆるスタンス。さらにくわしく語られるヴィルパリジ夫人のひととなり。ゲルマント夫人の生き方(イメージと全然違った!)。第一線にはいない夫人たちのそれぞれのサロンと彼らの静かなる攻防がおかしい。本音と建前と符牒の政治的かけひき、愛と軽蔑が目まぐるしくアラベスク模様のようにひろがり、まるでミラーハウスのなかにいるような奇妙で可笑しいラビリンス。
    可哀想なロベール。必死なシャルリュス(ちょっとこわい!)。いまにも病いに押しつぶされそうなおばあちゃん。あの帰り道を染める夕陽はきっとわたしもわすれることができない。臨終に聴こえた長く幸せな歌声とともに、その終焉をちょっぴり滑稽に描くさまには瞠目。人生なんておかしくって途方もなくて、そして人生の幻滅をことごとく持ち去ってくれる美しく静かな希望が、最期にはまっているから。

    デュ・ブルボン先生のはなしを聴いて、なるほど健康なる心身は、読書や芸術鑑賞など必要としていないのかもしれない、なんて想った。
    「どうか疲れたとはおっしゃらないでください。疲労というものは、そう思う先入観が器官にあらわれたものにほかなりません。」
    はい、きょうもあしたも、なんとかいきてゆきます。棘のあることばも虚妄も、なるたけうけながして。幸福の風がわたしのこころを撫ぜる瞬間を、日々まっている。
    さて、ポランスキーのドレフュス事件「オフィサー・アンド・スパイ」をみましょ。恬淡とする境地にあるわたしの人生における、ほんのすこしの愉しみに加えて。



    「政治上の真実なるものは、事情に通じた人物と近づきになり、いよいよその真実にてがとどくと思ったそのときこそ、かえって捉えられない。」

    「だって私、社交界の盛大な儀式って何なのか、今もってよくわからないんです。おまけに私、社交界のことにはまるで疎いもので。」

    「法を定め、罰せられざる犯罪のあまりにも膨大なリストに決着をつけるのは、そもそも政府の役割であることは言うまでもありませんが、もとより社会主義者や怪しげな軍隊の扇動の尻馬に乗るなどもってのほかです。」

    「われわれが互いに相手にいだく意見なり、友人や家族との関係なりは、不動のように見えてもそれはうわべだけで、じつは海と同じように果てしなくゆれ動いていることである。」

    「ぼくにとってあの子に関することは何から何まで途方もなく巨大で、まるで宇宙のように広大なんだ」

    「人は愛する者のことをまったく知らずに生きているというのが、複雑きわまる人間同士のつき合いに発現する自然のありがたい法則だからである。」

    「同一の心のなかに共存する善意と悪意との関係は、その関係がいかに多様であろうとも、それを明確にできれば興味深いだろうと考えていた。」

    「われわれは病気になると、自分ひとりで生きているのではなく、ある異界の存在に縛りつけられて生きていることに気づく。われわれとはさまざまな溝で隔てられ、われわれを知りもせず理解もしてくれない異界の存在、それがわれわれの身体である。」

    「人間の考えは内部で変化するもので、それは当初おのが反対意見にうち勝ち、自分の考えに合うとは想像だにさず蓄えられてきた知的財産をあらたな糧とする。」

    「私たちの知る偉大なものは、ことごとく神経症の人からもたらされたものです。あらゆる宗教を創始し、あらゆる傑作をつくったのは、神経症の人であって他の者ではありません。」

    「神経症が治ると、奥さまがその本を愛読なさることもなくなるでしょう。そもそもこの私に、その本の与えてくれる歓びと、そんな歓びをとうてい与えることのできぬ健全な神経とを交換する権利があるでしょうか?」

  • 外交についての洞察。
    祖母の死。病気の考察。

  • この巻では、ヴィルパリジ夫人のサロンの様子と"私"の祖母の死までが描かれました。
    上流階級のサロンと祖母の死。2つは全く異なる出来事ですが、人の言動はどちらも同じように、どこか喜劇的なのが印象的でした。
    人生は端から見たら、大真面目に喜劇を演じているようなものなのかもしれないと思いました。

  • 前半はヴィルパリジ夫人のサロンの様子。ほとんどが社交の挨拶、噂話、そしてドレフェス事件の言及に費やされている。噂話の中に実在の人物が登場するので現代人には訳がわからなくなる。有名と言っても歴史上の人物ではなく、その時代の旬の人なので、その時代の人が読めば多分面白いんだろう。なので現代人は主要人物の動向だけ追っていればそれなりに面白く読める。

    後半はおばあちゃんの病気が悪化して死に至るまでが克明に綴られている。その最中にサン・ルーが主人公を避難する手紙が届き、何故そんな事を言うのか気になる。なんとなく察しはつくが、如何なるものか?続きが楽しみ。

  • 死が近付いて来る祖母を冷静な目で観察している「私」が印象的だった。
    果たして「私」は祖母を心から愛していたのだろうか。
    消え去った人物に対する虚無感は時間と共に薄らいでいく。
    アルベルチーヌが亡くなった時、「私」がどのような反応を示すのか興味深い。

  • 5巻の勢いで6巻も。いよいよ社交界へデビュー。サロンでの会話だけで200ページ近くある。わかってたけど長いよ。
    今後出てくる同性愛のテーマもちょっとずつほのめかされてきた。
    20

  • 第6巻。
    社交の場と祖母の死が描かれる。
    どちらにも共通しているのは、プルーストの、ある種の冷静さではなかろうか。サロンにおける社交の滑稽さを風刺する一面も勿論あるだろうが、当時の雰囲気や複雑な人間関係、それ以上に複雑な登場人物の心情など、単に風刺するだけでなく、冷静に観察して描き出しているように感じた。

  • 社交の場の描写は死ぬほど退屈だが、祖母の病気から死に至るまでの一連の描写はプルーストの文体と相性が良いのではないか。

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