- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004303756
感想・レビュー・書評
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大江健三郎のいくつかの講演を集めた新書。
刊行は1995年、大江がひとまず、作家としての生活に区切りをつけようとしていた時期にあたる。60歳となるこの年、『燃え上がる緑の木』を最後に、小説を書く筆を折り、スピノザ研究にその後の生涯をあてたいと考えていたのだ(実際のところ、翌年、1996年の武満徹の死を契機に、再度、小説に向っていくのだが)。
表題ともなっている本書冒頭の講演は、1994年のノーベル文学賞受賞記念講演のものである。
これと合わせ、1992年から1994年の間に行われた、9回の講演原稿が収録されている。
大まかには、文学論と、家族についてのものの2つに分けられる。
大江の長男、光は知的障害を持って生まれている。幼いころは言葉を発しなかったが、鳥の声をよく聞き分け、音感が優れていた。13歳のころから作曲をするようになり、CDも何枚かリリースされている。大江の作品とも深い関わりを持つ。
家族についての講演は、光との関わりを中心にしている。講演の1つは光の音楽の演奏会の際に行われたものである。
苦悩の時代もあったのだろうが、さまざまなことを乗り越えた円熟の感じられる基調である。時にはユーモアも漂う。
互いに理解しあえないこと、乗り越えられない壁を抱えつつ、それでもそこには思いやりがあり、愛情がある。
障害を持つ光は、普通の子供のようには話さなかった。鳥の声への興味から、音楽へと関心が向き、曲を作るようになる。それはある種、彼の「言葉」だったのかもしれない。その音楽を聴き、大江や妻は、息子の内面に思いを馳せる。
光は涙を流したことがないという。夢も見たことがないようだ。それはどういうことなのか。作家は思索する。
光はいくつか曲を作るうち、「暗い魂が泣き叫ぶ」ような曲も作る。
美しいもの、きれいなものだけを見ていられればそれは幸せではあるが、一方、魂の深いところに降り、暗い澱を見つけること、そしてそれを表現すること、それによって自分が癒されることも、あるいは幸せではあるまいか。その不幸と幸せとの重なり合いが芸術の深まりをもたらすのではないか。
息子を見つめる父のまなざしからは慈愛が滲み出る。
文学論では、日本文学と世界のつながりを見据える。
「あいまいな日本の私」は、大江の前にノーベル文学賞を受賞した川端康成の受賞記念講演「美しい日本の私」を受けている。
川端は日本の美しさをあいまいなものとして提示している。この場合のあいまいは英語ではvagueで、不明瞭で漠然としたものを指す。大江が言う「あいまいな日本の私」のあいまいはambiguousで両義性を指す。
日本の近代化は、西欧に倣う形で進んできた。しかし一方で、アジアに位置し、伝統文化を守り続けてもいる。戦後民主主義はアジアの侵略者としての過去を抱えながら不戦を誓っている。
そうした日本にあって、文学ができることとは何か。世界に対して閉じるのではなく、開かれたものにするにはどのような道があるのか。
井伏鱒二、安部公房、夏目漱石といった作家を論じつつ、大江は、日本文学はもっと外に語り掛けねばならぬと主張する。
一方で、大江の大学時代の師、渡辺一夫にも触れながら、「上品な(decent)」、「ユマニスト(humaniste)(フランス語で「人文主義者」)」としての貢献を目指したいとする。
大江が引くW.H.オーデンによる小説家の定義は、どこか祈りの言葉のようでもある。
正しい者たちのなかで正しく、
不浄の中で不浄に、
もしできるものなら、
ひ弱い彼みずからの身を以て、
人類すべての被害を、
鈍痛で受けとめねばならぬ。
その思いは、障害を抱えた息子・光との日々と無縁ではないだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
四国の山奥に生まれた大江健三郎
彼は少年時代、海外の児童文学にふれて広い世界に憧れ
やがて小説家になるのだが
初期の作風は、実存主義的なものであった
それは一口に言えば、外に目を向けようとする自分に対して
抑圧をかけてくる社会への反発であり
そういう社会を象徴する存在として、天皇を仮想敵とするものだった
しかし1964年の「個人的な体験」以降、作風は大きく変化する
きっかけは、脳に障害を持って生まれてきた息子だった
息子の存在は、世界に跳ぼうとする大江にとって
言ってしまえば足枷だったが
そんな息子との向き合いを書いた「個人的な体験」は
国際的な評価を得て
結果的に、大江を飛躍させた
そういったことから、大江は自らの息子を
天皇に対置される存在…トリックスターと定義するようになった
だから、ノーベル賞を受賞した際のスピーチでも
息子・大江光のことは大きく取り上げている
天皇を嫌う自分が、ある意味では天皇主義者と同じく
息子に依存している様は
確かに「あいまいな日本の私」と称するにふさわしいだろう
父親から自立する道のない息子は
ひょっとすると悲しい存在かもしれないが -
講演内容をまとめたものであり読みやすかったが、前提知識ゼロで挑んだので難しい部分もあった。
日本に生きる私としてもっと日本を知るべきかと思う。 -
志學館大学図書館の【ノーベル文学賞受賞者作品】の企画展示で紹介された本です!
1994年ノーベル文学賞 受賞記念講演内容収録! -
今期,大学の非常勤でテッサ・モーリス=スズキの『日本を再発明する』を教科書として使っている。今回はとてもいい選択だったと思う。とても授業がやりやすいし,学生の反応もまずまず。もちろん,理解が浅い部分もあるが,そのくらいの難しさを兼ね備えているところも理想的。
ということで,レポートのテーマとして「日本論・日本人論・日本文化論を読む」という課題を設定した。この件については,西川長夫『地球時代の民族=文化理論』を読んだ時にも,主要な日本論については読んでおかなくてはと思ったが,今回そのいくつかをレポートの課題図書として設定することで自らも読むことにした。
まず,読み始めたのがこちら。ノーベル文学賞を受賞したときの公演が書名となっているように,1994年の受賞前後の公演の内容を収録したもの。岩波新書の一冊です。
あいまいな日本の私(1994年12月,ストックホルム・ノーベル賞授賞式)
癒される者(1994年10月,東京・国際医療フォーラム)
新しい光の音楽と深まりについて(1994年10月,東京・サントリーホール)
「家族のきずな」の両義性(1994年11月,東京・上智大学)
井伏さんの祈りとリアリズム(1994年11月,広島)
日米の新しい文化関係のために(1992年5月,シカゴ大学)
北欧で日本文化を語る(1992年10月,北欧諸国)
回路を閉じた日本人ではなく(1993年5月,ニューヨーク)
世界文学は日本文学たりうるか?(1994年10月,京都・国際日本文化研究センター)
こうして目次を見ると,公演がかなり多いことに驚きます。ノーベル賞を受賞するくらいの作家になると公演も主な収入源になるんですかね。大江健三郎の作品はきちんと読んだことがない。以前,母の家に泊まった時に,暇を持て余して書棚にあった日本文学全集の大江の巻をちょっと読んだが,非常に驚いて,今度改めて読もうと思った以来,岩波現代選書の『小説の方法』は読んだが,小説作品には手を出せていない。しかも,『小説の方法』を読んで,彼がミラン・クンデラやバフチンを読んでいることを知って,やはりノーベル賞を受賞するくらいだから,日本の小説家としては珍しく批評もしっかりしている人だという認識は持っていた。
目次からも分かるが,講演先でその場にあったテーマを選んで素晴らしい話をしている。しかし,ノーベル賞受賞が決まってからはあまりにも頻繁に公演があったので,やはり内容が重複しているのは仕方がない。また,彼には障害を持つ息子さんがいて,そのこと自体を作品に書いているということは知っていたが,その息子さんが音楽家としてCDも出しているという話は初めて知って,しかもその話をいろんなところでしているということだ。
まあともかく,大江健三郎という作家は国内外にさまざまな目を向けている世界的視野に立った人であるということが再認識できる一冊です。一度きちんと彼の作品を読まなくてはと思いました。 -
あいまいな日本
という あいまいな状態に 人格を与えた唯一の作家。
あいまいな日本の私、が あいまいだ。
とは 必ずしも言えないよね。
だって あいまいさを自覚した時点でそれは 属性で
あいまいでない人とは 一線を画すから。
そういうことが言いたかったのかどうかは 忘れてしまいました。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/705223 -
ノーベル賞作家 大江健三郎の講演集。知的障害を持つ、息子さんの話しを中心に、家族の絆、日本人としてあるべき姿を語っている。私は、純文学は非常に苦手であまり読まない。だからなのか、大江氏の文体もすっと頭に入ってこない。合わないのかなと思った。
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随分と前に登録してたんだな。ブックオフでたまたま、と思ったんだが。大江さんが気になったのはもちろん、加藤典洋本の影響。
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【要約】
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【ノート】
・新書がベスト
・これは確か、トンデモな例で挙げられてなかったっけ?