- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004307709
作品紹介・あらすじ
二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロから、対テロ戦争、そして戦後処理へ。一連の事件は、これまでの秩序観や世界認識のあり方に強い揺さぶりをかけた。テロ後にどんな現実が姿を現し、これから世界はどこへ向かおうとしているのか。いま、私たちが思考すべきこととは何か。内外の識者たちが様々な角度から行なった思索を集める。
感想・レビュー・書評
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テロの違法性や人間の安全保障といった価値観を共有する国際政治学者による編著。当時の9.11及びアフガン空爆が国際社会へ与えた影響やその課題が論題となっている。
非国家主体による越境テロおよび対抗手段としての他国による広域な武力行使といった新しい事象の法的位相にかかる考察などを通じて、国際社会において恣意性を排して多数が正当性を認められる秩序づくりを行うに際しては粘り強い検討が必要であることや、なお当事者を巡るパワーバランスなどが常に影響することを学んだ。何に対するテロなのかをどのように捉えるかによって、対抗方法や範囲が変わってくるという点も新しく学んだ。
なお、人権と民主主義を推進する側の国際社会の成功事例として、カンボジアにおいては加盟以来ASEANの働きかけが功奏して地域紛争が再発していないという視点も新しく学んだ。
中盤で紹介されたアフマルバフ作『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』も積読。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
朝日新聞2011911掲載 評者: 岩崎稔(東京外国語大学教授・哲学・政治思想)
朝日新聞2021911掲載 評者: 三浦俊章(朝日新聞編集委員) -
イスラエル問題とは長らくキリスト教ヨーロッパでユダヤ人問題として語られてきたものの帰結である。もともと湯dさ野人が存在することを問題にしたのはキリスト教社会であり、ユダヤ人問題はキリスト教ヨーロッパの宿啊だった。
ナチスの収容所でユダヤ人は同僚のユダヤ人の死体を遺体と呼ぶことも許されていなかった。それらをFiguren(姿形、人形)と呼ぶことを強制されていた。つまりユダヤ人からは死さえも奪われていた。死体というのはかつて生きていた人間であったことを含意するが、ユダヤ人は人間でないから死体にすらなれなかった。
そして死を直前にした状態を隠語で「イスラム教徒」と呼んでいた。彼らは死ぬ直前はイスラム教徒に変質してから死んでいったのだ。
冷戦の終焉を迎えて辺境での紛争に戦略的な関心を失ったアメリカは自らが育てた残虐な武装勢力を残したまま、紛争で荒廃した社会の後始末を国連に委ねてほとんど手を引いてしまった。
国際関係では軍事力相互の威嚇によって秩序を支えることはごく普通のこと。
冷戦後の精度構築が準備されていたヨーロッパとは異なり、西欧世界の外では精度構築もないただの大国の撤退として冷戦が終わった。 -
9.11後の世界、内外の識者が様々な意見を書く。
アメリカの考え方、報復の是非、9.11が与える影響など、世界がどう動いたかを、改めて確かめることができる。 -
タイトルを見れば解ろうが、本書はテロの後に国際政治がどう変わったのかについて、12人の論者が論じたものであり、とは言え岩波新書というところからも推察できるように、アメリカの「帝国」に対して懐疑的な人々による論考が多く並んでいる。
メンツはド派手である。
坂本義和に始まり、西谷修、ウンベルト・エーコ(!?)、杉田敦、大澤真幸、スタンリー・ホフマン、最上俊樹、そして編者である藤原帰一。笑っちゃうような面々がそれぞれの観点から、テロ後に、アメリカがどういう対応をし、またそれはどのような性質のもので、そしてどう危ういものなのかが描いている、というと言い過ぎか。
ただし、取り立てて、新しいこともない。思想畑の知識人による、いつものやつであった。 -
出版は2002年。中身の論文は、半分が9.11テロ直後。
それだけに「世界」がどうとかいうより、
「アメリカ」がどうなのかに終始した印象。
まあそれだけ世界はアメリカの存在感が大きいということの裏返しなのか。
アフガニスタンへの空爆は正しかったのかどうか、今になって改めて考える。当時はまだ何も分からなかったからね。 -
この本の中の1つの論説「揺れるアメリカ社会−法の支配と愛国心−」三浦俊章
「アメリカ同時多発テロ」に対する措置が戦争だったのか?そもそもテロは誰に向けられたものだったのか?この論説は、同時多発テロで感じていた自分の心の中に「?」に光を当てるものだった。
N.Y.で「グラウンドゼロ」を見てから、あの出来事をテレビでリアルタイムに目撃したときの衝撃、それ以降の世界の流れに「?」を感じている自分がこの本を手にしている。
やっぱりどうにも短絡的過ぎる。
確かに、アメリカ同時多発テロは、旅客機という「人の足」が「武器」となってツインタワーに突っ込み、ツインタワーが崩落していく様はかなり衝撃をうけた。未曾有の世界がリアルタイムに報道された。罪もない一般人を巻き込んだテロは断じて許せない。
でも、その後の世界の流れがあまりにも短絡的過ぎる。
「反テロ」の国際理解・国際協調のもとにはじめられた「軍事行動」は、国を挙げて(「国際協調」に賛同した国々?)強大な軍事力を行使しての「報復」に思えてしまう。「仏像破壊」で悪名高く、かつ、同時多発テロの首謀者達をかくまっているといわれるタリバーンが政権を握っているとはいえ、世界の中でも最貧国といわれているアフガニスタンを最新兵器で身を固めた国々が戦争を仕掛ける。戦争に直接参加していなくとも後方支援に回る国々。いくらピンポイント爆撃しているといっても、罪のない一般市民に多くの死傷者が出る。なおかつ、その戦争の根拠すら曖昧・・・その後のもイラク戦争でも同じだ。 いくら「テロとの戦い」「21世紀型戦争」とはいえ、この「軍事行動」は明らかに従来型の「戦争」だと思うし、こういった措置は「前世紀的」に感じる。
なんとなくモヤモヤとしていた点を、筆者は簡潔に3つの問題点としてまとめている。
�テロの否定という点では一致するとしても、それは誰の視点に立っての反対なのか?
�多数の国家が反テロリズムの主体となったことは、何を意味するのか?人類的な視点で一致したということなのか?
�反テロという、一般的には正当な目的を達成するためにアメリカがとった「戦争」という手段は、一般的に正当化できるものなのか?
論者の言葉を借りれば、「自分のモヤモヤしていた点というのは、人間・人類」という視点に立ってみたときの、アメリカの姿勢であったり、日本を含めた国際協調であったり、武力行使についての問題点ということに気づいた。
この視点から「テロ後」の世界を、自分の国を、論じてきた(論じている)だろうか?
今からでも遅くはないはずだ。
「これは「戦争」ではない−世界新秩序とその果実−(西谷修)」には、9.11同時多発テロ以降の世界の流れについて、
自分が感じていたことを叙述に書いていた。
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P44;
『インディペンデンス・ディ』のタイトルが示すように、この手の映画ではつねにアメリカが世界の中心であり、世界はアメリカの延長でしかない。このアメリカ中心主義が、「悪」を成敗し「自由」を守るアメリカと言う単純なイメージを、自己満足的に生み出してきた。だが、いま緊急に必要なのは、「不謹慎」を咎められる映画の続きを、世界を巻き添えにしながら現実の場で念じることではなく、アメリカの「自由」だけに自足する「映画」の外に出ることなのだ。
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この「インディペンデンス・ディ」というハリウッド映画を見たことがあるだろうか?
地球征服を狙う宇宙人が、UFOで爆撃。NYを始め、世界の主要都市が壊滅的な被害をこうむる中、アメリカの研究者がUFOに張られたシールドの解除方法を解明し、アメリカ大統領が「世界のインディペンデンス・ディだ!!」と世界へ演説し、アメリカ主導の下、世界各国が協調して宇宙人の侵略を拒んだというストーリー。アメリカ大統領が世界を鼓舞し、世界をまとめ、侵略者を撃退するというストーリーは、アメリカらしいなと思った記憶がある。
それは「映画」の話で、「現実」からは程遠い。
9.11の同時多発テロ。その後、「これは戦争だ」という演説。世界各国に「対テロ戦争」「21世紀型戦争」への協調を求め、アフガニスタン、イラクへの戦争が行われた。今、そこに至るまでの過程を大観して見ると、まるで「映画」のような「善の帝国のリーダー」を演じているようにすら見える。
現実は単純ではない。世界は多様なのだから、単純化してはいけない。
『インディペンデンス・ディ』のくだりで、そんな風に思った。
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