日本人の歴史意識: 「世間」という視角から (岩波新書 新赤版 874)
- 岩波書店 (2004年1月20日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004308744
作品紹介・あらすじ
歴史好きだといわれる日本人だが、その一方で歴史意識の欠如が問われることも多い。日本人にとって歴史とは何だろうか。これまで「世間」という視角から日本社会・日本人を論じてきた著者が、西欧社会と比較しながら、「世間」を歴史侵に分析して、日本人の歴史認識の根底にあるものは何かを考察する。
感想・レビュー・書評
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著者の「世間」論にかんする著作のひとつで、とくに日本人の歴史意識と歴史学を考察の対象としています。
日本の学問の輸入的性格を批判的に論じている本はこれまでにも多くありましたが、そこでしばしば目にするのは、西洋の学問が生活世界のなかに根づいているのに対して、日本の学問は生活から切り離されてしまっており、二つの世界が関係をもつことなく併存しているというものです。著者は、こうした日本の学問の見方にある部分では同意しつつも、それにくわえて日本の学者たちがきわめて日本的な「世間」を生きており、アカデミズムがそうした世間的な常識にしたがって運営されていることを指摘しています。これは、たんに日本の学問がそれを営む人びとの生活から切り離されているというだけでなく、学問がそうした「世間」と向きあいこれと対峙するようなスタンスをもっていないことへの批判を含んでおり、より踏み込んだ議論になっているということができるように思います。
本書は、親鸞や井原西鶴などのテクストを通じて「世間」を対象に分析をくわえつつ、そこに生きる人びとが「世間」とどのようなしかたで向きあっていたのかという点にも目を向けます。こうした「世間」に対する批評的まなざしこそ、この国の学問にとって重要だということが、著者の専門である歴史学の事例を踏まえながら論じられています。
著者の「世間」論は、われわれにとってなじみ深い「世間」を対象としながら、「世間」のなかで生きているわれわれ日本人が「世間」を学問の対象とすることはどのようにして可能なのだろうかという、すぐれて学問論的な問いを基軸にしているため、すっきりとした議論にならず、やや見通しがきかないように感じられることがすくなくありません。しかしながら、われわれがそのうちに属している「世間」を度外視して、たんなる学問の対象として「世間」を分析することの不毛性と、反対にわれわれがすでにそのうちに身をどっぷりと浸している「世間」から身を引き離すことなく実感信仰におぼれてしまうことの危険性の両方を避けつつ「世間」という問題に切り込むためには、著者のようなスタンスをとることは避けがたいのではないでしょうか。その意味で、著者の「世間」論の読みにくさは、著者の責任というよりもむしろ事柄そのものに起因するものというべきでしょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
世間だった
無意識なのでは -
【由来】
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【期待したもの】
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※「それは何か」を意識する、つまり、とりあえずの速読用か、テーマに関連していて、何を掴みたいのか、などを明確にする習慣を身につける訓練。
【要約】
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【ノート】
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ドイツ中世史を専門としつつ、「世間」をキーワードに独自の日本人論を展開し、一橋大学長も務めた阿部謹也氏(1935~2006年)が、「世間」という視角から「日本人の歴史認識」を考察したもの。
著者の基本的なスタンスは、日本人は欧米には存在しない「世間」という独自の生活の形を持っており、「世間」は自らの中に時間を持ってはいるものの、「世間」そのものは常に変わることなく時間を超越しているのであるが、そうした「世間」の歴史意識を分析すれば、日本人全体の歴史意識を知ることができるというものである。
そして、以下のように論を展開していく。
◆古代の知識人にとっての「世間」、即ち、『万葉集』や『方丈記』の中に表現されている「世間」は世の中の無常を説いているが、そうした思想の背景には仏教の経典があり、それらによれば「世間」という言葉は否定すべきものという意味を持っている。また、古代の民衆も、「世間」の生活の中には因果応報と前世の縁という原則があり、そうした不安定な生活を、天界を含めたあらゆるものと贈与・互酬の関係(=呪術的な関係)を結ぶことによって安定させようとした。
◆鎌倉時代に親鸞は、その教義において「世間」の呪術的な性格を否定し、その門徒の集団は独自な形で合理的生活様式を作り上げたが、これは日本の「世間」の歴史の中で全く新しい出来事であった。また、貨幣経済の進展によって増加した商人達も「世間」にとらわれない集団であった。
◆「世間」に生きる人々にとって、歴史とは「世間」の外で演ぜられるドラマであり、時には突然「世間」に影響を与えることはあるものの、普段は自分たちの生活とは関係のない出来事として理解される。
◆西洋社会では、12~13世紀に呪術は解体され、近代的合理主義成立の基盤が生まれた。
◆日本では、上記にも拘らず、「世間」は連綿と維持された。明治時代には、西欧近代社会に学び、個人を中心とした社会を目指す向きもあったが、明治政府は、教育勅語において西欧社会をモデルにしながらも個人の尊厳を認めなかったように、「世間」を残しながら近代化を果たそうとした。
◆社会の呪術的性格を払拭して近代化を果たした西欧では、歴史学は、時の権力者が形成に関わっている歴史的神話に対して、歴史の事実を確認することを使命として発展してきた。それは、未だに、歴史を「世間」の外のドラマだと思い、自分が歴史を生きているという意識の低い日本人の感覚には実感しにくいものであるが、我々は、「世間」と闘いながら、自分たちの歴史への展望を開く必要がある。
E.H.カーの名著『歴史とは何か』を意識しつつ、「日本人にとって歴史とは何か」の問いに答えようとしたユニークな作品である。
(2005年9月了) -
日本人の歴史意識を日本人特有の「世間」という観点から考察した1冊です。「世間」という言葉の起源から、現代の私たちの「世間」を解明しようとしています。
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浅羽通明氏推薦
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分類=日本社会・日本史。04年1月。