ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫 学術 19)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006000196

感想・レビュー・書評

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  • 古典。

    「精読」部分はノーコメント。
    原典はいたって普通の本で、何故ここまでありがたがられているのかよく分からなかった。

    「アウラ」という手触りをそれっぽくテキトーに記したがために、学者先生とか文化気取りが論じる題材として適当だっただけではなかろうか。

  • (メモ)
    筆者の解説を読んだあと,後半についているベンヤミンの本文を読むと
    分かりやすい.

    アウラの喪失=芸術作品のオリジナルが「一回限り存在する」「いま,ここに在る」ことの真正性がもたらす権威,重みが,写真や映画といった複製技術の登場により,感じられなくなってしまうこと.

    多くの人は「アウラ」を芸術作品そのものに備わる性質だと認識しているが,筆者は社会的条件に注目し,受容者の「心的現象」,われわれが集団内で抱く一種の「共同幻想」ととらえている.

    芸術作品は,原始の魔術的・宗教的儀式にあった「礼拝的価値」から,
    複製技術時代の「展示的価値」に重心が移り,同時に伝統に支えられていた共同体に代わって大衆が中心となる.

    写真は芸術作品を複製するのに対し,映画は機材やセットや俳優含めて複製技術の一部であり,ばらばらのフィルムをモンタージュする.そのためより改良可能性に富む反面,永遠の価値を断念することを意味する.

  • とても面白かった。複製技術はどんどん進歩を経ているが、また我々は同じような課題に直面しているのではないか。今読んでも充分価値はある。

  • 2-3-1 メディア論

  • ベンヤミンのテクスト自体は50ページほどで、簡易にまとまっている。

    これを執筆した20世紀前半というのは、生産側が複製技術を用いることによって大量生産を行うことが可能になり、その結果として資本主義的な世界が発展していった時代だった。
    そして、今現在の21世紀においては、「消費者が」複製技術を用いる事が可能になった時代であり、情報化された商品ははじめから複製される事を前提に作られる様になってきている。

    ニコラス・ネグロポンテの『ビーイング・デジタル』と併せて読むと、現代の情報化社会についてより理解を深められるかも。

  • 文字を追うのと平行して今までの自分の経験に基づく映像が浮かんできた。

  • 今さらながら、ベンヤミン。
    なにか一部の人にはバイブルのような扱いを受ける、複製技術時代の芸術作品です。その人がちゃんと読んだかは、アウラについていかに話せるかでわかる。
    アウラは集団内で芸術に抱く信念、共同幻想。

  • はじめてベンヤミンの世界を知るには良い本かもしれないが、これで終わってはいけないと感じた。

  • ベンヤミン入門書として最良のものなのでは。最後に付随されている翻訳原版を読んでから、多木さんの精読を読んでもう一度原版を読むと、わかった気になれる。

  • 【目次】

    1 テクストの誕生
     日本への紹介/ことの始まり/修正されたフランス語テクスト/「古典」の注釈

    2 芸術の凋落
     変わりゆく芸術/二つの問題──技術と知覚/大衆の時代での芸術作品/芸術は盛りをすぎた──ヘーゲル/ベンヤミンのデュシャン論

    3 複製技術というパラダイム
     史的唯物論とベンヤミン/著作のネットワーク/『生産者としての作家』/芸術作品の生産装置/ダダイズムの評価/創造と受容の結合/複製という技術的パラダイム/芸術が失ったもの

    4 アウラの消える日
     アウラ──集団の幻想/『写真小史』/アジェの写真/知覚の役割/アウラなき世界/時代の顔──あらたな観相術/写真の政治性

    5 知覚と歴史
     リーグルの「芸術意欲」と「知覚論」/ウィーンの美術史家たち/知覚の二つの極

    6 芸術と政治
     アドルノとの食い違い/礼拝的価値と展示的価値/伝統と大衆/生きのびるための技術/「政治」を根拠とする芸術

    7 芸術の知覚
     複製の違い/人間と機械装置の釣り合い/無意識の知覚/映画の精神療法的効果/映画の触覚的な質

    8 ミメーシスと遊戯空間
     映画論による冒険/映画俳優の演技/観客の経験/あらたなミメーシス/展示的価値の政治学/映画の可能性と危険

    9 触覚の人ベンヤミン
     くつろいだ鑑賞/歴史的な力の中心/建築の経験/触覚的受容/触覚による思考の組み替え/大衆を朝刊する技術/遊戯性と触覚性/未熟な社会を成熟させる芸術

    ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(野村修訳)

    ヴァルター・ベンヤミン略年譜

    あとがき

    *****

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著者プロフィール

1928〜2011年。哲学者。旧制第三高等学校を経て、東京大学文学部美学科を卒業。千葉大学教授、神戸芸術工科大学客員教授などを歴任。1960年代半ばから、建築・写真・現代美術を対象とする先鋭的な批評活動を開始。1968年、中平卓馬らと写真表現を焦点とした「思想のための挑発的資料」である雑誌『プロヴォーク』を創刊。翌年第3号で廃刊するも、その実験的試みの軌跡を編著『まずたしからしさの世界を捨てろ』(田畑書店、1970)にまとめる。思考と表現の目まぐるしい変貌の経験をみずから相対化し、写真・建築・空間・家具・書物・映像を包括的に論じた評論集『ことばのない思考』(田畑書店、1972)によって批評家としての第一歩をしるす。現象学と記号論を駆使して人間の生と居住空間の複雑なかかわりを考察した『生きられた家』(田畑書店、1976/岩波現代文庫、2001/青土社、2019)が最初の主著となった。この本は多木の日常経験の深まりに応じて、二度の重要な改訂が後に行われている。視線という概念を立てて芸術や文化を読み解く歴史哲学的作業を『眼の隠喩』(青土社、1982/ちくま学芸文庫、2008)にて本格的に開始。この思考の系列は、身体論や政治美学的考察と相俟って『欲望の修辞学』(1987)、『もし世界の声が聴こえたら』(2002)、『死の鏡』(2004)、『進歩とカタストロフィ』(2005、以上青土社)、『「もの」の詩学』、『神話なき世界の芸術家』(1994)、『シジフォスの笑い』(1997、以上岩波書店)などの著作に結晶した。日本や西欧の近代精神史を図像学的な方法で鮮かに分析した『天皇の肖像』(岩波新書、1988)やキャプテン・クック三部作『船がゆく』、『船とともに』、『最後の航海』(新書館、1998〜2003)などもある。1990年代半ば以降は、新書という形で諸事象の哲学的意味を論じた『ヌード写真』、『都市の政治学』、『戦争論』、『肖像写真』(以上岩波新書)、『スポーツを考える』(ちくま新書)などを次々と著した。生前最後の著作は、敬愛する4人の現代芸術家を論じた小著『表象の多面体』(青土社、2009)。没後出版として『トリノ 夢とカタストロフィーの彼方へ』(BEARLIN、2012)、『視線とテクスト』(青土社、2013)、『映像の歴史哲学』(みすず書房、2013)がある。2020年に初の建築写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』を刊行した。

「2021年 『未来派 百年後を羨望した芸術家たち』 で使われていた紹介文から引用しています。」

多木浩二の作品

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