- Amazon.co.jp ・本 (275ページ)
- / ISBN・EAN: 9784022606266
感想・レビュー・書評
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嵯峨の話も仙台・石巻の話もなかなかに面白い。
加賀との比較はなかなかに興味深いし、漱石の味方も面白い。やはりこのお人、尋常ならざる文筆家だと認めざるを得ないでしょう。
しかし仙台・石巻編に地震の影が見えてこないところが悲しいというか何というか。ここで描かれた風景はどうなったんでしょうか、、、詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「文明とは、だれでも参加できるもの」「文化とは、そのグループの特異なもの」と定義すれば当時の日本(五世紀ごろ)に必要なのは中国文明となる。土木技術、漢字による文書作成など(P35参照)中国文明なければ今の日本国なしと言い切れるわけである。日本にとっては明治維新は突発的な出来事、出来心ともいえる(笑
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司馬遼太郎の松尾芭蕉についてはちょっと過激であった。松島や~なんてそんなだじゃれみたいな句を詠んでいるわけないだろうと苦笑
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15/1/2読了
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嵯峨のあまり知られていない方面への訪問が司馬遼太郎らしい。仙台、石巻は懐かしい。仙台駅前のペデストリアンデッキの描写は、思わず、「そうそう」と言ってしまいそう。
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嵯峨は京都市北西部の山間。清和天皇陵ほか社寺を訪ねる。仙台は、古代の蝦夷防柵であった多賀城から近代の東北大学の独自性 まで。歴史の大メジャーたる京都よりも仙台のほうが面白く読めるのは、著者がとにかく「北」が好きだから。
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松島の項は、珍しく司馬遼太郎が激怒している。
「松島や ああ松島や 松島や」を松尾芭蕉の作であると、松島の観光業者(?)が掲示しているのを見て、芭蕉がそんな句を作るはずがないと激怒。
私自身も、てっきり、芭蕉の句だと思っていたが、調べてみると江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと伝えられている模様。
司馬遼太郎は、松島に対する芭蕉の表現とその美的センスから言えば、こんな駄作を作るはずがなく、何も考えずに「松島や ああ松島や 松島や」と掲示している松島の観光業者を相当ページを割いて批判している。
ここまで感情的になっている文章も珍しいかも。 -
ダ・ヴィンチ 10年3月号 紹介著書
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深夜徘徊が好きだった。
18、9のころ高円寺の街をよく歩いた。浪人中は受験勉強に疲れ、新入生時代にはやるべき何ものかが掴めず、焦りや不安に負けそうになる深夜2時とか3時とかに歩きに出たものだ。駅近くのアパートから、後に純情商店街と名を変えた北口商店街や、反対側の南口商店街を気まぐれにぐるぐる徘徊した。そのころ出初めだったコンビニの明かりが、ところどころの止まり木みたいだった。ひとしきり歩いて駅前に戻ってくると、いつものラーメン屋がやはり明るく待っていてくれていた。
「らっしゃい、お兄ちゃん」
おやじの声にいつもほっとした。
トレーナーの胸の文字をみて、「りっぱな学校に通ってんだねえ」
社会人になり街を離れてからも、何年かぶりに訪ねると、
「りっぱな会社にはいったねえ、お兄ちゃん」
係長になったとき、名刺をくれといわれて
「りっぱに出世したねえ、お兄ちゃん」
いつもストレートに誉めてもらえるのが、このおやじからだと素直に嬉しかった。私の孤独を、誰よりも見ていてくれた人だったから、かもしれない。
副長に昇格したときも「報告」に行った。
『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』を、今更だが読んだ。ちょうど私の学生時代の頃、週刊朝日に連載されていたものだ。今日まで8年間住んだ仙台に、司馬遼太郎が「来て」、「歩いて」、「どう思った」か知ってみたくなったからだ。
だが、当初のその目論見とは全く関係ないちいさなエピソードがひとしお滲みた。中国の文豪魯迅と藤野先生の話よりも胸に響いた。
司馬氏のある友人は、広島出身のくせに東北大の国文科に学んだ。仙台の駅前に屋台があって彼はよくそこで飲んだ。「飲む側もまずしく、飲ませる側もゆたかでなかった」
だが、「金は出世払いにすっぺし」といって金を受け取らなかった。
彼は卒業し就職し、その後、仙台にゆくたびにその屋台をさがしたが、すでになかった。いまなお仙台の街にくわしい人に会うと、必ず聞いてみるという。
エピソードは、ただそれだけだ。
出世払いすることは、結果的にできなかったワケだ。今でもその屋台を探しつづけるその人の気持ちが、私には痛い。
課長に昇進したときも、高円寺にやはり行った。だが、ラーメン屋は既になく跡地は賑やかな焼き鳥屋に変わっていた。何気にやって来ただけの昔なじみの場所だったのだが、取り返しのつかない悔しい気持ちに襲われた。でっかい穴をぼかんと空けられたかのようだった。
浪人生だったとき、一年生だったとき、スープの湯気に浮かんだバターとおやじのひと言が、埋めようのない漠たる不安の穴に、いつも蓋をしてくれていた。
世間並みの会社員として歩みながらも、私は何かの穴を胸に抱え、止まり木になってくれる明かりを求めていたのかもしれなかった。ようやく課長になれたとき、やはり「りっぱに」というおやじの声が、なんとなく聞きたかった。あそこでだけは胸を張ってみたかった。
俺は、もはや「お兄ちゃん」じゃないし、立派でもないし、出世もしてはいないけれど、こうして生きている。
おやじどこへ行っちゃったのかなあ。
ああ、もう一度、夜中の味噌バタラーメンが食いたい。 -
いずれにしても時の流れの中を縦横無尽に横断し話し説く司馬節にはホトホト関心です。
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状態:古本(若干折り目あり)
定価:504円
上海に住んでいる方に、20元でお譲りします!
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この土曜日(2008年9月13日)からの連休で東北旅行を計画しています。それで,この本の「仙台・石巻」の部分を読みました。
国内旅行をするときは,司馬遼太郎の「街道をゆく」でその地域のものを読むように努めています。
いつもながら,司馬遼太郎の博識には感心します。今度もいい勉強になりました。
ここに出てくる井上さんは,作家の井上ひさしさんです。
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「ところで」
のどの奥から、赤や青のシャボン玉が出てくるような、ふわりとした口ぶりで、このひとはいう。
「蔵王にいらっしゃったことがありますか」
「ないんです」
「それなら、行きましょう」
「しかし仙台に六時ですが」
「大丈夫なんです」
と、シャボン玉が舞いあがり、結局、山越えがはじまった。蔵王は想像以上に雄大な大山塊で、 車がのぼるにつれて天空に近づく思いがした。
山頂での井上さんはじつに閑々として行雲流水のふぜいだった。が、胸中はそうでもなかったろう。
これが奥州人の意気というものなのである。井上さんが「公私」の軽重を量り、「公」に殉じていることは、私にもうすうすわかっていた。
仙台で井上さんを待っている同級生たちはこの人にとって身内だから親であり、親なればこそ私である。それに対し、外来の人間である司馬ナニガシはより疎であり、しかも客であるために公になる。従って蔵王を越えることも公としての快挙であり、この公の前には、仙台で待つ「私ども」には我慢を強いねばならす、井上さんはそれについて万難の涙をのんでいる。その上での泰然自若なのである。
( なんかよく分かります。井上さんの気持ち。そしてそれを理解している司馬さん。いいですね。東北の人ってこういう人か。 いいな。 )
● 「山片蟻桃は、えらかったですな」
私は、石段をのぼりながら、藤谷氏にいった。蟻桃のような独創的な思想家が、あの窮屈な江戸社会のなかかち出たというのは、奇蹟のようなものである。
「なぜ幡桃というんですか」
藤谷氏は、息を切らさない。
「番頭さんだったからです」
この号ひとつをみても、蟻桃がユーモリストだったことがわかる。しかも、当時の既成思想に対し、コペルニクス的な(語呂あわせのようだが、かれは地動説の論者でもあった)創見をのべつつも、社会のアウトサイダーでもなく、乱臣賊子でも無頼漠でもなかった。
( 以下,山片蟻桃のことが述べられています。ぼくは山片蟻桃という人をまったく知りませんでした。しかし,おもしろい人ですね。このような時代にこのような人が出ているとは。奇蹟のようなものというのも分かります)
● 松島は日本三景のひとつだという。
「しかし、どこがいいのかわかりませんよ」
と、たれもがいう。太宰治の『惜別』にも、主人公の魯迅が、この景色のよさを見つけるために悩むくだり・・・虚構ながら・・・がある。作者の太宰治自身、松島の美のわからなさに閉口していたのにちがいない。
( ぼくの知人も松島に行ったが,沖縄の方がずっといいよと述べていました。そんなものなんですね。名前が先行している。 でも,一度は見たいところです )
● それに、松島で情けなくおもうのは、ほうぼうの看板や説明用の掲示板に書かれている芭蕉作という俳句である。
松島や ああ松島や 松島や
落語の大家さんが、熊公を前にして作りそうな句で、おそらく、江戸期のたれであったか、明月のうつくしきに打たれて「明月や ああ明月や 明月や」と詠んだという噺のような句に、この「松島や」は踏まえられているのであろう。芭蕉もたまったものではない。
(中略)
そういう芭蕉が、
松島や ああ松島や 松島や
などとノンキなトウサンのような句をつくるだろうか。松島の観光にたずさわるひとたちは、いますこし芭蕉に対して粛然たる気持をもってやってほしいものである。
( ぼくは勉強不足でした。芭蕉の句だと思って疑いもしませんでした。改めて考えると落語の大屋さんのような句です。 )
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司馬遼太郎の歴史散歩。
嵯峨野、仙台・石巻