臨床とことば (朝日文庫 か 23-9)

  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (312ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022616623

感想・レビュー・書評

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  • 「聴く」ことの臨床医学の極北/王道にオープンダイアローグがあるのだろうか。
    ●哲学は最初から臨床的だった
    ●ケアの問題のいちばん核心にあるのは、ひとにおいてはだれかの傍らにいるというただそれだけのことで、力を与えあうという関係が両者のあいだで発生することになるのはなぜか、という問いだ

  • 臨床哲学の鷲田清一氏と、臨床心理学の河合隼雄氏との対談を含む共著。
    河合隼雄氏は学生時代から割と読んでいて、自分の中の教育に対する姿勢でかなりの影響を受けていると思う。ここでも彼の考え方や語り口がしっかりと染み込み、本当に心の師だなと再度確認しながら読んでいた。
    一方の鷲田清一氏は、大阪大学総長時代の発言に興味を持ち、京都市立芸術大学の学長となった現在も、朝日新聞の連載「折々のことば」や、数々の著書や発言からさらなる興味と信頼を感じている。
    「臨床」という姿勢を採った両者の考え方に学ぶところは多い。
    河合隼雄氏はかつて京都大学で「臨床教育学」も立ち上げている。
    理論やメソッドに落とし込むことで誤魔化してしまうのでなく、しっかりと個に向きあって対応を考える「臨床」のスタンスを忘れてはいけないし、その為にも自分自身の感覚と知識を研ぎ澄ましておく必要がある(それが「勉強」ですね)なと、改めて思うことができる本だった。
    河合氏に比べると鷲田氏の語り口は哲学者故か、若干わかりにくい言い回しもあるが、言わんとしているところは概ね理解できる。
    二人とも、「人間とはなんぞや?」「生きるとはなんぞや?」という人の根本的、哲学的な問題にしっかりと対峙しているので信頼できるし、自分もそうありたいという、勇気のようなものを与えてもらえるのである。

  • 2016.10.12
    一度読んだ本をまた別の機会に読むと、ぜんぜん違う印象と学びを感じることはままあることであるが、私にとってこの本はまさにそのような印象を与えるものであった。初めて読んだのはちょうど1年前くらいである。本の内容が一年の間に変わることはあるはずものなく、ということは印象と学びが変わったのは、私が変わったということだし、何より今、私は人間関係について、まさに距離について悩んでいる最中だからこそだろう。欲望や関心が、対象の意味を決める、もしくは欲望や関心が、その渇きが、乾くほどに、対象から意味という水を吸い上げる、と言ってもいいかもしれない。
    臨床哲学と臨床心理学の巨匠の対話は、それが臨床、つまりケアの現場の言葉であったとしても、我々の日常の人間関係についても使える豊かな知を提供してくれる。私とあなたが関係して対話するという時、そこに何があるのか。言葉をかわすだけではない。そこには声があり、相手の顔、動きなどがあり、相手に対してのイメージがあり、そしてそれらを全身で感じている。私から見てもこれだけあるものが、相手から見ても同じだけある。言葉を交わす、対話するという中には、とても説明しつくせないほどの諸要素の絡み合いがある。
    「臨床の知とは何か」を読んで、私が科学という一つのパラダイムに強く捉われていたこと、科学は現実を共通了解できるような形で説明するが、それは限定された範囲内の話であり、現実の全ては説明できない、しかし我々はその限定された真実を現実の全てだと思っている、でも現実は科学という枠組みだけでは説明しきれないものであるということを学んだ。まさにその臨床の知を使って、人との関係を育んでいる二人の話は、私には刺激的ではあるが、しかしどうしても、わかることはできなかった。そもそも、臨床の知は言語化可能だろうか、もしくは言語化できても、共有可能だろうか。あらゆるノウハウ的な話は枝葉に過ぎないという、だったら私は人と関わるとき、一体どこを見ていればいいのだろうか。今まで学んできた心理学にしろ哲学にしろの理論が足場から崩れたとき、私は何を拠り所に人と関われるのだろうか。
    身体感覚、触覚の話があったと思うが、思ったことは、例えば箱を想像するとする、形や色など何でもいいが、我々はその質感も想像できるはずである。映像、つまり視覚だけでなく、触覚も想像することができる。聴覚も嗅覚も味覚も想像できる。この、あらゆる感覚を意味から想像できるところに、身体としての人間の関わりがあるのではないだろうか。そして想像ゆえの感覚と感覚の境界線が揺らぐことによる表現が、あつい人、クールな人、硬い人、なのではないだろうか。あつい人が体温が異常に高いわけではない、ではなぜ情熱的な人をあつい人というのだろうか、その答えはこの、意味による感覚の想像によるのではないかと思った。
    こういう考えは少なくとも、言いたいことは言葉にできるとか、相手が言ったことが相手の全てだとかいう、論理的な考え方からは出てこない。この論理を超えたところに、相手の全身的表現を、こちらも全身で受け取るという形があるのではないか。肌と肌が合わさるところに魂があるらしい。前に、人と人の間に生命があるという本を読んだことがある。魂とは、心とはその人から出る全てにあり、つまり身、顔、声、言葉、動きにあり、その全てを私の全て、すなわち身、顔、声、言葉、動きで受け止める時、心と心が通う場所として、そこに生命があると言えるのかもしれない。ここではケアということであくまで聞く側の臨床知が語られていたが、私もまた聞かれる者であるので、相手の魂を聞くなんて分かった気にならず、こちらも心からの表現ができるようなやり方を考えたいと思った。

  • いじめが起こるんは自分の悪の無自覚性から。故に、悪を対象化できる対象を探し出し集団、または個人で攻撃する。

    集団の心理とでもいうべきであろうか、善悪二元論にも帰結する要因がある。

    科学と臨床の関係。科学は普遍性を追求していくものだが、臨床は個人の個別性、特異性を見ていかなければならないから、折り合いが難しい。

    ケアする側とされる側の関係性。そこに生きる意義が生まれることもあり、また聴くことの奥深さも知った。

    受け身はケアされる側もどんどん悪化に向かって行ってしまう。

    相手の世界に入り込み、聴く。そのことによりクライアントが逆に客観化した位置をとることもできる。


                                                                                                                                                                                                                                                                                 

  • 2015.11.12
    臨床心理学の河合隼雄さんと、臨床哲学の鷲田清一さんの対談。臨床と科学の違い、聴くということ、人との距離についてなど、学として理論と向き合うのではなく、個別具体的な"あなた"と向き合う中で見出されてきた普遍性を言葉にしようとする対談だったのではないか。目から鱗だったのは、聴くという他者との関わり方である。私は自分のことを聞き上手な方だと思っていたので、余計に鱗が落ちた。これまで私はどうも、見るということに主眼が置かれていて、自分との関わり方も他人とも世界とも、そうやって見ることで関わっていたように思う。見るとは考えることであり、科学である。しかし、目に見えることだけではそのすべてを知ることはできない。私もあなたも彼も彼女も、目に見えないものを抱えているからである。自分にしてもそうだ。あれやこれやと考えるだけでは、意識に上る心象を見るだけでは、それをこねくり回すだけでは、本当に知ることは、向き合うことはできない。相手もそうだ。相手の仕草や発言を見るだけでは、その奥にあるものを知ることはできない。人間の外界把握の器官は視覚だけでなく五感である。目で見ること至上主義の現代だが、それ以外の感覚をもっと意識する必要があるのではないか。また最近読んだ発達心理学の本に、一人称の心理学、二人称の心理学、三人称の心理学、という記述があった。三人称の科学は、100人の共通項を以って、人間に関する理論を構築する。しかしそれは人間の最大公約数的要素であって、その理論に還元できない要素も個人は多分に含んでいる。そういう、考えることでは見つからないもの、見ることでは見えないもの、科学の理論では当てはまらないもの、に対する理解というか、そういう存在を認めることができた。思考の限界、科学の限界というものを知ることができた。目に見えずとも感じるものがある。理論に当てはまらずともリアルな実感がある。言葉にできなくても確実にあるものがある。そういうところに、アンテナを反応させる力がほしいなと思った。考えること、見ることだけで自分のすべてを理解し、発達心理学の理論通りに生きれば豊かな人生になる、と考えていながら、どこか不安というか、何か違うと悩んでいた私を、ブレイクスルーさせてくれた一冊だった。他者と向き合うにしても、自分と向き合うにしても、向き合うとは、見つめ合うではなく、五感で感じ合うものであるし、そういう関わり方の中で、相手(自分)の言葉、しぐさ、声色、表情、表に出てくるあらゆる要素の、下の下にあるものを感じ取れるような、まさしく「魂を見る人」になりたいなと、そんな感性をほしいなと思った。それはもう、見るとか聴くとかを超えていて、心で感覚する、心覚とでも言える第六感的なもんじゃないか。私の感覚という感覚すべてを合わせて、目に見えないものを見、声にならない声を聴き、言葉にできない何かを感じるということ。今まで頭でっかちに生きてきたけど、考えるだけ、意識するだけ、科学だけの、言葉になるものだけの世界ってのは、つまり見えるだけの世界ってのは、狭い世界だったんだなと。ただ、相手を自分の枠組みで判断せず、相手の世界に自分がはまっていく、というのは、なかなか難しいなと思った。でもそれも魂に目を向けるような姿勢でいると、自然と身につくのかもしれない。それでいて見ようと聞こうと気張らず、しかし魂に目を向ける、これって、瞑想的な方法じゃないかな?瞑想の感覚を持って、静けさと敏感さを持って、相手の魂を見据えるような姿勢、なのかな。なんにせよ大切なのは結果でなく姿勢、関心を向け続けるその姿勢こそが理解。理解とは結果でも知識でもなく、姿勢である。臨床に関わる2人の対談から、世界と、他者と、そして自己との関係の取り方と、目に見えない言葉にならない科学にできないものの大切さ、思考や科学は認識の一手段でしかなく、それは大事だけど限界もあるのだと、学ばせてもらった一冊。あと、p50にあるジャコメッティの、1人の人を描き切ったら誰の顔でもあるように見える、という話も印象的だった。個別から普遍性へ、私は私という個別と向き合うところから、普遍的なところへ向かいたいと思う。

  • 本屋さんでふと目に入った河合隼雄さんと鷲田清一さんの対談本。
    今の自分に必要なことが書いてあったので、メモを取りながら読みました。

    例えば、個別性の普遍化について。

    私は「個別のことをぐっと深めることで普遍化することができる」という考えに対してずっと疑問に思ってきました。
    personal is political も然り。
    深めることは大切だけれど、量もまた、必要なのではないかと。
    個別の事例をもとに導かれた普遍的とされるものに同意できる場合もあれば、疑問ばかりが膨らむこともあり、その違いはどこにあるのかをずっと疑問に思ってきました。

    答えはとてもシンプルでした。その個別性の中のどこを普遍化するかがポイントとのこと。うん、そうですよね。どうしてこんなにも長いこと考え続けていたのだろうと、再び首をかしげることになりました。笑

    臨床のことばは声に出してつぶやかれる語りであるとし、「語り」における〈意味〉と〈声〉について考察されている部分も興味深く読みました。

    また、「理解する」ことの果てしなさや、「ケアする」ことの相互性、力を与え合う関係性についての考察にも引き込まれました。

    この本も繰り返し読む一冊になりそうです。

  • いくつもの新しい気付きがありました。再確認した内容もありました。ここで語られていることばをからだに染み込ませていきたいと思います。特に印象に残った一節をそのまま抜き出します。鷲田先生の文章から(P.191)。「まず、分かる、理解するというのは、感情の一致、意見に一致をみるということではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。言いかえると、他人の想いにふれて、それをじぶんの理解の枠におさめようとしないということ。そのことでひとは他者としての他者の存在にはじめて接することになる。・・・ということは、他者の理解においては、同じ想いになることではなく、じぶんにはとても了解しがたいその想いを、否定するのではなくそれでも了解しようとおもうこと、つまり、その分かろうとする姿勢にこそ他者はときに応えるということである。そして相手には、そのなんとか分かりたいという気持ちそのものが、かろうじて、しかしたしかに、伝わるのだ。つまり、ことばを受けとってくれたという感触のほうが、主張を受け入れてくれたということよりも意味が大きい。言っていることが認められたというよりも、言ったことばが、たとえまちがっていても、しかしとりあえずそのまま受け入れられた、それがそれとして肯定されたという感触が大切なのだとおもう。」

  • やさしい言葉で書かれた、深く染み入る内容の本です。

  • 本棚から出てきた。河合さんの文章は読みやすさと変な説得力がある。対談もきっと力があるんだろうな。

    臨床の力,価値に遅ればせながら気づけた気がする。

    トイレの中でちまちまと読めなくなって一気に読む。

    今行き詰まっていることに多くの示唆を与えてくれた対談だった。研究,教育,プライベート,あらゆる場面で自分に欠けている(自覚できない)認識のフレームを示してもらえた。次に読むときもおそらく新たな気づきをもたらしてくれそうな予感がする。人間関係を切り離すと臨床ではなくなり,世の中は人間関係無しに語る(存在)することができないのであれば,臨床の知の特殊性と普遍性を避けて考えることは不可能と思った。

    「同じものを宛がっていると受け身になる」
    なぜ受け身になるのか,受け身の姿勢が継続するとどうなるか。
    思考のテーマとして面白かった。

  • 河合隼雄というひとはもしかするとあらゆる意味で異端だったのかもしれない。そう考えると鷲田先生はもっとも相応しい「後継者」である。
    「聴く」ということの怖ろしい深みと凄み。

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