ぼくらの戦争なんだぜ (朝日新書)

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  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022951571

作品紹介・あらすじ

◯戦場なんか知らなくても、ぼくたちはほんとうの「戦争」にふれられる。そう思って、この本を書いた。◯教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。         ◯古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、 戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。 太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。 戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、 その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。◯目次まえがき   第1章 戦争の教科書  1・ニッポンの教科書  あたらしいこくご  教科書なんかつまらないとずっと思っていた    教科書の中にある、もうひとつのことば、戦争のことば  ぼくたちの父や祖父は、子どもの頃、こんな教科書を読んでいた 2・ドイツの教科書、フランスの教科書  人の心を萎えさせるような、断固とした「声」  歴史をためらいがちに語る「声」3・その壁を越える日   植民地からの「声」  ぼくたちがたどり着く場所 第2章 「大きなことば」と「小さなことば」  戦争と記憶、庶民の戦争  『この世界の片隅に』の語り方   戦争なんか知らない  「大きなことば」と「小さなことば」  「大東亜」なことば  「ひとすぢのもの」    「小松菜つむ指の露深き黒土に濡れ」  「こつこつと歩いて行く」   ぼくたちは戦場へ行った  幻の詩集   加藤さんのことば  西村さんのことば  長島さんのことば   佐川さんのことば    風木さんのことば  最後に、山本さんのことば 第3章 ほんとうの戦争の話をしよう  1・正しい戦争の描き方   ほんとうの戦争の話をしよう  死の国にて 2・彼らの戦争なんだぜ   「遠い」ということ   統合失調症とされた作家たちのことば    すべてが「遠い」小説   『野火』がたどり着いた場所 第4章 ぼくらの戦争なんだぜ  その1・ごはんなんか食べてる場合じゃない   その2・女たちも戦争に行った   「平時」の思想   彼女は戦争に行った その3・ぼくたちが仮に「戦場」に行ったとして、     最後まで「正常」でいるためには   「私」は撃たない その4・戦場から遠く離れて   ふたつの「国」と「ことば」の間に生まれて   夢の世界をさまよって 第5章 「戦争小説家」太宰治   加害の国の作家   ずっと戦争だった   小さな二つの小説    「真の闇」の中を歩く   文学のために死んでください    純情多感の一清国留学生「周さん」のこと あとがき

感想・レビュー・書評

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  • 好きな作家の高橋源一郎が書いた本ということで読んでみた。平和を世界中の人々が望んでいるのに、何故愚かな戦争へと突き進むのか?
    ヒントを作家としての目線で書き綴ってくれている。
    平易な言葉で書いてあり、若い人に是非読んで欲しい作品だと感じた。

  • 新書のわりに分厚い。480ページもある。
    余談・独り言(!)・引用箇所の量もさることながら、やたらと著者の「問いかけ」にぶつかるのだ。
    それらに対してたまに自答されることはあっても(それがまたごもっともな回答だから正直自分には入る余地がなかった笑)、基本的には読者参加型の形式を取っていた。

    昨年のウクライナ侵攻を受け、各地で反対の声が上がった。
    しかし、正直なところ当時の自分はモヤっていた。胸はザワついたが、現地に知り合いが、身近に避難民がいるわけでもない自分が気軽に「戦争反対!」を叫んで良いものなのか。安全地帯の自分が反対を表明しても結局他人事みたいに虚しく響くだけでは…?それ以前に自分は戦時を生きてこなかったから、戦争が何なのかを知らない。

    戦後生まれの著者は、ご両親や親戚から戦時の話を聞いて、いや、彼の言葉を借りるなら「聞かされて」育った。
    それを煩わしく思い、また何の疑問も持たずに生きてきた結果、気づけば「語り部」は皆この世を去っていた。煩わしく思ったのは、それが著者自身が経験したわけではない「彼らの戦争」の物語だったから。ん?何だか自分と近しいような…
    したがって読書中は、本書の「問いかけ」一つひとつを咀嚼し、昨年の自問がちゃんと消化できていってるかを確かめていた。

    開戦・国民の戦意高揚のために、「言葉」がどれだけの役割を果たしてきたのかを5章にわたって考察。調査対象は教科書・詩・文学etc. (「彼らの戦争」という意識のままでいられるのかを検証しているようにも見える) その間「戦争反対」のスローガンは一旦脇に置いている。そんな感触だ。

    とりわけ興味深かったのが、林芙美子の日中戦争従軍記。(ほんの数作とは言え、太宰治も戦争文学を書いていたのには驚いたけど)
    戦意高揚を扇動するような威勢の良い文章。中には「私は兵隊が好きだ」と呆れるほど断言しちゃっている詩もあって、『放浪記』と同じ作者とは到底思えない。
    しかし戦後発表された短編では、意識の様相がガラリと変わっている。「彼女の戦争」、自分が見た戦争は何だったのかが、これまた明快に言語化されていたのだ…

    ウクライナ侵攻で抱いたモヤモヤの正体も、高橋氏がちゃんと言語化してくれていた。
    想像を絶するような光景を目にした時、我々は「かわいそうに」といった感想よりも前にどう感じて良いのか分からなくなる。頭脳では理解していても感覚がそれに追いついていない。「遠い存在」であるが故にうまく反応することができない。でも「考えたくない」「気が重くなる」とは表立って言えない…
    そのうち政府高官が発するような「優等生の感想」しか言えなくなり、結局「彼らの戦争」として終結してしまう。

    本書では重大な答えが導き出されるわけではない。その代わり著者の「問いかけ」一つひとつが胸に残る。
    今回モヤモヤの正体を掴めだだけでも儲け物だったが、「問いかけ」はまだ山積みだ。

  • 「誰も戦争を教えられない」
    は?何言ってるの「ぼくらの戦争なんだぜ」。

    先の言葉は古市憲寿氏による著者のタイトルだ。まるでヒップホップのディスやビーフの応酬だが、高橋源一郎氏は、この古市氏の本を授業に用い絶賛したのだという。しかし、心中は、軽蔑している。戦争を自分ごととして捉えられず、戦争なんて知らなくて良いという古市氏を。一方で、戦争ではなく、平和にしがみつく事を根拠にせよという、新時代の発想にも、首肯すべきと唸る。

    本書は、小説トリッパーという雑誌の連載だったらしい。詩や小説などの戦争文学や各国の教科書を眺めながら、様々な形の戦争を考える。大岡昇平の『野火』は私も読んだ。向田邦子の『ごはん』は読んでいない。戦時の極限がシュルレアリスムのような朦朧とした景色を描き、頭がトリップする。まるで、あの暑い南国で死と隣り合わせになりながら、過度な緊張に疲労しきり働かぬ頭が見せる白昼夢が、戦時と今をシンクロさせるようだ。肌感覚がない、実感がないという意味では、古市憲寿も私も変わらない。戦争映画や戦争小説を娯楽化した時点で、罪なのだろうか。

    「ぼくらの戦争なんだぜ」は?何言ってるの。
    違う。集団の力学に巻き込まれ、強制された戦争であり、ぼくらの意思など意味をなさなかった。戦争に向き合う一人一人の自意識は遮蔽し、自分を押し殺した白昼夢であった。連鎖するのは、その夢でみた、怨嗟や悲劇。巡る。

    どんな物語でも、台本でも、ご都合に合わせて、好きに語れば良い。あなたの戦争は、わたしの戦争ではない。その物語を強制されるのは、みんなもう懲り懲りだから。だから、ぼく「ら」なんて、言うべきではないんだ。高橋源一郎は、分かっていて、問いかけたのだろうか。

    人間を鋳型にはめる教科書という装置と、文学の違いがそこにある。その対比を用いて戦争文学を問うたのが本書ならば、尚のこと。鋳型を否定する個々の戦争観を描いた文学こそ、ぼく「ら」という集団的体験を否定した所に成立する個人的体験なのだから。

    ー 関東軍が民間人を見殺しに、ソ連の追撃を免れるために橋を落とした。そのために家族を失った親戚が「長生きして、この国が滅亡するところを見たいね」

    ー ナチスに屈服したフランス南半分のヴィシー政権はユダヤ人虐殺に加担。フランスは戦勝国なのか敗戦国なのか、被害者か加害者かを問うフランスの教科書

  • 「ことば」の持つ大きな力。
    強い、人を支配する、人々を大きな目標に駆り立てるために使われる「ことば」。個人的な経験や記憶から導き出された「ことば」。「ことば」は人の心や体を動かしていく。

     ニッポンの人たちは、どんなふうに「ことば」を使ったのだろう、とりわけ、「戦争」というような特別の期間には。
    そのことがわかれば、ぼくたちは、いま自分がどんな「ことば」を使っているのか、あるいは、使うべきなのか、あるいは、使わされているのかを知ることができる。

     髙橋さんはまず、たくさんの教科書を読む。戦時下の日本の教科書では、かたき討ちの話や良い日本人の定義や、国民としての覚悟など、どの教科書も、戦争に向かう言葉でうめられている。そして、次に読むのはドイツ、フランスの歴史の教科書の、ナチスへの長い記述だ。この教科書で、どんな授業が行われているのか。かなり驚かされた。
     高橋さんは、「学校」とは、「国家」が生まれたばかりの人間を「国民」という形に「鋳造」してゆく場所であり、そのためのもっとも大切な手段が「教科書」であると言う。そしてその本質が、もっとも濃く現れているのが「歴史教科書」だと言う。
     
     「歴史教科書」はその「国民」に、「あなたたちは、こういうものなのだ」と告げるために書かれている。あるいは、公に、ときにはひそやかに、『我々は」という「声」で語るのである。

     ぼくたちは、ぼくたち自身が責任をとれない場所に生まれるのだ。けれども、その後、ぼくたちは、やはり、その特定の空間で生きることについて、自分自身で責任をとるしかないのだ。

     学生時代に歴史の授業は、よく言われるように、昭和はもう時間が足りなくて駆け足で。自分で調べてみて初めて知ることがあまりにも多かった。自分は教科書にある、どんな声を聴いてきたのだろう。ドイツの教科書とは違う、短い記述の中で、どんな言葉が聴こえるのだろう。いろいろ考えているうち、家永裁判を改めて調べてみたくなった。

     日本の文学作品の中にある「声」も多くの記述から説明されていたが、これによって太宰治への見方がかなり変わった。

  • ロシアのウクライナ侵攻が始まり日本に住む自分達も様々な事を思う昨今。大きな過ちを犯した日本の歴史も、学校では教えられず、戦争を知らない世代だから、小説や映画等々から当時の様子を知るよりすべが無い。そんな状況下に置かれた時の自分が大きな流れに流されず、理性、知性を持って物事を思考する事は可能なのだろうか?

  • いい本に出合いました。
    今テレビに映る映像、どうすればいいんだろうと戸惑ってしまう。
    今流されていきます。
    「大きな声」の方へ。
    私はその中で「小さな声」に気づいているのでしょうか?
    教科書・戦争小説・戦争詩を読む。
    知らなかった(名前はよく知っていた。読んだこともある)作家の魂に気づかされました。
    著者もまた探っていく過程だそうです。
    世界中が戦争に向かっています。
    遠いところではなく、その兆しを見逃さないようにしたいです。
    今ここにあるそれを。

    ≪ 流されて 気づけば泥沼 立ち止まれ ≫

  • 『ぼくらの戦争なんだぜ』高橋源一郎著(朝日新書) 1320円 : 読売新聞オンライン
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20220912-OYT8T50093/

    高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』──戦争を伝える「ことば」から - 野上 暁|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
    https://webronza.asahi.com/culture/articles/2022101200002.html

    高橋源一郎さん新刊「ぼくらの戦争なんだぜ」インタビュー 戦争なんて関係ないあなたへ|好書好日
    https://book.asahi.com/article/14727722

    朝日新聞出版 最新刊行物:新書:ぼくらの戦争なんだぜ
    https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=23702

  • 〝ヨーロッパでは「第一次大戦に参加した最後の兵士」が亡くなった。そう遠くない先に「太平洋戦争に参加した最後の兵士」の死が伝えられるだろう...「あの戦争」を自分の経験として語ることの出来る人間がいなくなってしまう〟・・・古いニッポンの教科書と敗戦国ドイツ、戦勝国の中国、排日の韓国の教科書を読み比べる。大岡昇平の『野火』、林芙美子の従軍記、太宰治の作品に秘めた伝言、戦意高揚のための国策詩集、市井の兵士の手づくりの詩集を読み、「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれ、「次に始まった戦争」を考えるために。

  • 雑多な本。
    問いかけと投げ出しと思索の途中段階とが乱れている。
    だが、考えようとするとごたまぜにならざるを得ない事柄があるので、むしろ誠実な作りだと感じた。

    @ 以下コピペだが、【 】はメモを挿入。

    ◯戦場なんか知らなくても、ぼくたちはほんとうの「戦争」にふれられる。そう思って、この本を書いた。
    ◯教科書を読む。「戦争小説」を読む。戦争詩を読む。すると、考えたこともなかった景色が見えてくる。人びとを戦争に駆り立てることばの正体が見えてくる。
    ◯古いニッポンの教科書、世界の教科書を読み、戦争文学の極北『野火』、林芙美子の従軍記を読む。 太宰治が作品に埋めこんだ、秘密のサインを読む。戦意高揚のための国策詩集と、市井の兵士の手づくりの詩集、その超えられない断絶に橋をかける。「彼らの戦争」ではなく「ぼくらの戦争」にふれるために。

    ◯目次

    まえがき【たのしい知識】

    第1章 戦争の教科書

    1・ニッポンの教科書
    あたらしいこくご  教科書なんかつまらないとずっと思っていた 【鶴見俊輔】【本居宣長、賀茂真淵】   教科書の中にある、もうひとつのことば、戦争のことば【ルソー、ソクラテス、孔子】  ぼくたちの父や祖父は、子どもの頃、こんな教科書を読んでいた【山中恒】

    2・ドイツの教科書、フランスの教科書  
    人の心を萎えさせるような、断固とした「声」  歴史をためらいがちに語る「声」

    3・その壁を越える日
    植民地からの「声」【韓国】  ぼくたちがたどり着く場所

    第2章 「大きなことば」と「小さなことば」  

    戦争と記憶、庶民の戦争【母の「自伝」】  『この世界の片隅に』の語り方【こうの史代、片渕須直】   戦争なんか知らない【古市憲寿】  「大きなことば」と「小さなことば」  「大東亜」なことば【高村光太郎、安藤一郎、小野忠孝】  「ひとすぢのもの」 【長田恒雄、北園克衛、堀口大學】   「小松菜つむ指の露深き黒土に濡れ」【鈴木初江】  「こつこつと歩いて行く」【高村光太郎、瀧口修造】   ぼくたちは戦場へ行った  幻の詩集【山本和夫】   加藤さんのことば  西村さんのことば  長島さんのことば   佐川さんのことば    風木さんのことば  最後に、山本さんのことば

    第3章 ほんとうの戦争の話をしよう  

    1・正しい戦争の描き方
    ほんとうの戦争の話をしよう【大岡昇平「野火」】  死の国にて

    2・彼らの戦争なんだぜ
    「遠い」ということ   統合失調症とされた作家たちのことば【宮本忠雄、カフカ「変身」】    すべてが「遠い」小説【猫田道子「うわさのベーコン」】   『野火』がたどり着いた場所

    第4章 ぼくらの戦争なんだぜ  

    その1・ごはんなんか食べてる場合じゃない【向田邦子】 
     
    その2・女たちも戦争に行った
    「平時」の思想【鶴見俊輔】   彼女は戦争に行った【林芙美子】

    その3・ぼくたちが仮に「戦場」に行ったとして、最後まで「正常」でいるためには【古山高麗雄】
    「私」は撃たない

    その4・戦場から遠く離れて【後藤明生、金子光晴】
    ふたつの「国」と「ことば」の間に生まれて   夢の世界をさまよって【藤原てい、谷川雁】

    第5章 「戦争小説家」太宰治
    加害の国の作家【ドミートリー・ブィコフ】   ずっと戦争だった   小さな二つの小説    「真の闇」の中を歩く【十二月八日】   文学のために死んでください【散華】    純情多感の一清国留学生「周さん」のこと【惜別、魯迅】

    あとがき

  • 戦争について考えさせる。

    母親が満州からの引き揚げ者だったこと、大阪で祖母が父を連れて飛行機からの射撃の玉から命がらがら逃れたこと、広島原爆当時福山にいて被害者を見ていること。
    断片的にしか聞いていなかったが、今は聞くことが出来ない。
    人間の長い歴史にすれば、ほんの少し前のことだ。
    そして残念ながら、歴史は繰り返されるものだ。

    教訓を得る、学習する。
    賢いホモサピエンスの頭脳であれば、容易いことのはずなのに。

    本書では、戦時中の作家の活動も伺えるが、基本は大きな流れに抗う人は少なかったようだ。
    そして現在。教科書の近現代の歴史の記述だが、日本と中国や韓国との内容対比が、心をざわつかせる。
    また、勇ましい政治家の言動も。

    大切なものは何か。
    少なくとも、本能的に戦力だけを充実させることではないだろう。

    気になったことば。
    教科書は、ただ、文字の書き方や社会で生きてゆくための知識を与えるものではない。もっと大切な仕事がある。それは、「そこ」あるいは「ここ」で共に生きてゆくために必要なものを教えることだ。そして、この場合「そこ」あるいは「ここ」は、わたしたちの「国」なのである。
    ぼくたちは、幼い頃から、個々に、懐かしいそのようなもの、「くに」に触れている。童話やお伽話や、母の膝枕で聞いた昔話だ。半分まどろみながら、耳から入ってくるそれらのことばは、いつの間にか、ぼくたちの感受性をつくり上げてきた。
    ぼくたちがなにかを感じる、なにかを懐かしいと思う、そのよりどころは、そんな、いまとなってははっきりとは思い出すことができない「ことば」たちなのだ。

    戦前の小一の教科書は、こんなことばで始まる。
    「ツヨイ コハ、ナキマセン。
    イタクテモ ガマンシマス。
    ツヨイ コハ、コハガリマセン。
    クライ トコロ デモヘイキ デス。
    ツヨイ コハ、イヂワルヲ シマセン。
    トモダチニ シンセツ デス。」

    そして、「私の家族」が紹介され、「ヨソノオバサン」が来たときの礼儀についての「ぶん」があり、突然、こんなページが現れる。
    「テキノタマガ、雨ノヤウニトンデ 来ル 中ヲ、日本グンハ、イキホイヨク ススミマシタ。テキノシロニ、日ノマルノ ハタガタカク」 ヒルガヘリマシタ。
    『バンザイ。バンザイ。バンザイ。』
    勇マシイ コエガヒビキワタリマシタ。」

    2年生の本には
    日本 ヨイ国、キヨイ 国。
    世界ニ一ツノ神ノ 国。
    日本 ヨイ国、強イ 国。
    世界ニカガヤクエライ国。」

    歴史を書くと言うことは、歴史を検証することてす。
    「歴史教科書」は、その「国民」に、「あなたたちは、こういうものなのだ」と告げるために書かれている。あるいは、公に、ときにはひそやかに、「我々は」と言う「声」で語るのです。
    歴史が重視されるのは、歴史が『過去についての省察」だけでなく、未来をどのように設計し、どのように生きていくかを提示する役割をもっているからです。そのためある歴史家は「すべての歴史は現代史だ」と言いました。歴史は皆さんのすぐそばにあり、皆さんの未来に立派な道しるべとなるでしょう」
    これは、検定版韓国の歴史教科書――高等学校韓国史からの抜粋だが、日本の歴史教科書では、第三者的に淡々と書かれているらしい。

    「戦争」は「正しい」のだろうか。
    「戦争」の、いちばん大きな「当事者」たち、たとえば、「国家」にとっては、「正しさ」を証明するために「戦争」が行われる。
    どんな戦争も「正しさ」の衝突だ。
    逆に言うなら、「正しさ」がどんなふうに現れるのかを知るためには、「戦争」で起こることを見ればいい。

    政治家の言葉は遠く感じる。彼らは質問に対して答えるつもりはなく、ただ自分の言いたいことをいう。彼らは、「ことば」というものを、絶対に相手を理解するためには使わない。目の前にいる人間を見ないでしゃべる。いや、見ているのに、見ていないのである。いや、ちがう。彼らの目には、なにも、つまりぼくたちのことなどなにも映ってはいないのだ。
    彼ら政治家たらのことばは、だから「遠い」。とても「遠い」。

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著者プロフィール

作家・元明治学院大学教授

「2020年 『弱さの研究ー弱さで読み解くコロナの時代』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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