訂正する力 (朝日新書)

著者 :
  • 朝日新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784022952387

作品紹介・あらすじ

ひとは誤ったことを訂正しながら生きていく。哲学の魅力を支える「時事」「理論」「実存」の三つの視点から、現代日本で「誤る」こと、「訂正」することの意味を問い、この国の自画像をアップデートする。デビュー30周年を飾る集大成『訂正可能性の哲学』を実践する決定版!聞き手・構成/辻田真佐憲 帯イラスト/ヨシタケシンスケ保守とリベラルの対話、成熟した国のありかたや老いの肯定、さらにはビジネスにおける組織論、日本の思想や歴史理解にも役立つ、隠れた力を解き明かす。それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力――過去と現在をつなげる力です。持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、読み替える力であり、「正しさ」を変えていく力でもあります。そして、分断とAIの時代にこそ、ひとが固有の「生」を肯定的に生きるために必要な力でもあるのです。(目次)第1章 なぜ「訂正する力」は必要か第2章 「じつは……だった」のダイナミズム第3章 親密な公共圏をつくる第4章 「喧騒のある国」を取り戻す日本には、まさにこの変化=訂正を嫌う文化があります。政治家は謝りません。官僚もまちがいを認めません。いちど決めた計画は変更しません。(…)とくにネットではこの傾向が顕著です。かつての自分の意見とわずかでも異なる意見を述べると、「以前の発言と矛盾する」と指摘され、集中砲火を浴びて炎上する。そういう事件が日常的に起きています。(…)そのような状況を根底から変える必要があります。そのための第一歩として必要なのが、まちがいを認めて改めるという「訂正する力」を取り戻すことです。(「はじめに」より)

感想・レビュー・書評

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  • 【感想】
    本書のテーマとなっている「訂正する力」とは何か。
    これは「歴史修正主義」という評判の悪い言葉と比較すればわかりやすいと思う。歴史修正とは、「アウシュビッツにはガス室はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」といった、おもに保守側による歴史の捏造を意味する言葉として使われている。この文脈での「修正」は、現実から目を逸らし、記憶をなくしていく行為のことだ。
    一方で、訂正する力は歴史修正主義とは異なるものである。過去を都合よく修正する、ということではなく、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力のことである。過去を忘却するための力ではなく、聞く力であり、持続する力、老いる力、記憶する力、読み替える力だ。過去の事実を受け止めつつ、「これからは方針を転換して、新たな形で対応していこう」と、柔軟なスタンスで物事に臨む力のことである。
    私たちは「訂正する力」を日常の会話で何度も発揮している。前後の流れからある言葉を選んでしまっていたけれど、相手の反応を見て、本当はこういう言葉が良かったのではないかと思い直す。自分がこういう意味で使った言葉が、違う風に受け取られてしまったため、適切な言葉を選び直す。対話をする上での言葉遣いを訂正していく能力を、私たちは無意識のうちに発揮している。
    しかし、それが「議論」の場となると、とたんに態度が変わってしまう。「変わる=ブレる=訂正する」という価値観を是とせず、「前言ったことと違うじゃないか」という批判を展開する。左派も右派もぶれないことをアイデンティティとしているため、議論が硬直してしまうのだ。

    その実例が、2023年6月に可決されたLGBT理解増進法をめぐる議論だ。左派は規定が不十分だと批判し、右派は法律そのものが必要ないと反発している。彼らのなかには、「キリスト教文化圏のほうがよほど性的マイノリティを差別していた。日本にはそんな差別はなかった」と主張するひともいた。
    しかし、双方ともどちらも的を射ていない。たしかに日本には性的マイノリティを受け入れる一定の伝統があり、それをすべて差別と呼ぶのはしっくりこない。とはいえ現在の基準でマイノリティの人権が十分に認められていたかといったら、それも違う。
    この議論の問題点は、LGBTという多様性をゼロかイチかで選択しようとしているところだ。性的マイノリティを一切認めないか、それとも今までの規範や伝統を全て壊して作り直すか。大切なのは、それぞれの国の文化のなかで、伝統も残しながら、それをどうアップデートして未来につなげていくかという発想のはずである。ところが日本では、「訂正する」という意識が希薄なため、それがすぐに、ゼロかイチか、過去を否定するか肯定するか、リセットするかなにも変えないかという対立の議論になってしまう。そうではなく、過去を認めつつも現状に合わせて柔軟にアップデートしていこう、という姿勢が必要なのである。

    本書の結びで筆者は、「訂正する力」を日本の「平和主義」の推進に役立てることを提案している。日本はWW2で多くの人々の命を脅かした。しかし、戦後の日本は平和主義を貫き、世界に向けてその概念を発信している。この「平和主義」というスタンスを、日本の持つ文化と結び付け、より広範に普及啓発していく。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくっていく、という試みである。

    この提案は、かなり危険に感じてしまう。「日本は最初から平和を目指した国家だった」という主張は安易な歴史修正主義に思えるし、日本に侵略された国からしてみれば欺瞞に聞こえるだろう。
    しかし、魅力的ではある。世界から認知されている日本のアイデンティティが、アニメやゲーム、食といった「戦後日本」と、自然や歴史的建造物といった「古来日本」に分かれ、戦中のイメージが欠落しているとすれば、これを利用しない手はない。アメリカや中国のような政治/経済にパワーがある国と対照的に、日本の特色が非政治的な「文化」の範疇に収まるのであれば、それは平和的外交の道具となるはずだ。
    当然、一筋縄ではいかない。そして見ようによってはただの「ズル」だ。しかしそれを理解しつつ、ごまかしながら平和活動を持続していく。それが「訂正する力」であり、複雑化する世界の中で必要不可欠な態度ではないだろうか。

    ――しかし、訂正する力は人生の転機において重要だし、共同体の構成においても重要である。人間はリセットできず、社会はよりリセットできない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。
    ――日本はもともと文化の国だった。政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国だった。その伝統のうえに戦後日本がある。クールジャパンもある。だから日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではない。そもそもそういう伝統をもっているからこそ平和国家なのだ――。
    ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。

    ――――――――――――――――――――――――――――――
    【まとめ】
    0 まえがき
    小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要である。ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが「訂正する力」だ。

    老いるとは若い頃の過ちを「訂正」し続けるということ。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然である。老いるとは変化することであり、訂正すること。しかし、日本にはこの変化=訂正を嫌う文化がある。日本が前に進むために必要なのは、「訂正する力」を取り戻すことである。


    1 なぜ訂正する力が必要か
    ヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。ロックダウン後、あっという間にマスクを外し、「脱原発」や「二酸化炭素排出量の削減」を高らかに掲げたと思えば、ウクライナ戦争による天然ガスの不足で「やはり原発と石炭火力も必要だ」と言い出す。
    見ようによっては「ズル」だが、ここで大事なのは、彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることだ。ある意味でごまかしであるが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたであり、強さである。

    日本に閉塞感が満ちている理由は、「空気」に支配されているからだ。詳細に言えば、「ルールチェンジをしなければならない」という主張があったとき、「そういう主張をするひとが現れた」という別の新たな空気が生まれてしまうからだ。声を上げることは必然的に反発を伴う。むしろ反発がないと意味がない。ところが最近は、「声を上げると周りから変なひとだと言われる。それ自体が圧力だから、『変』と言われないようにしてほしい」という要求が上がるようになってきた。
    これを変えるには、いつの間にか本体の空気=ゲーム自体のかたちが変わっている、という状況をつくっていくことが大事になる。つまり脱構築である。

    訂正する力は、「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。だからそれは、ある観点では単なるルール違反である。
    しかし、その違反がとても大事なのだ。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからだ。
    むろん、ルールに違反するということは「ルール違反だ」と非難されるということである。みんなから賛同されるわけでもないし、問題提起がうまくいかなければ犯罪になることもある。けれども、そのことによってルールが変わるかもしれない。訂正する力は、そういうリスクを取って行うことでもある。

    言い換えれば、訂正する力は、「自分はこれで行く」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力のことでもある。そして批判を引き受ける力でもある。

    いまはみな「正しさ」をあまりに静的かつ固定的に捉えている思う。ポリティカル・コレクトネスのなかのコレクトネス(correctness)という言葉はコレクト(correct)という動詞の名詞形だが、これは本来は動詞的に捉えたほうがよいはず。コレクトは「校閲する」とか「まちがいを正す」とかを意味する動詞で、まさに本書の主題である「訂正」を意味する言葉である。
    つまり、ポリティカル・コレクトネスの「コレクト」というのは、本当は、固定した正しさがあるというわけではなく、正しい方向にむかってつねに「訂正しよう」という動きのことではないか。
    ポリティカル・コレクトネスとは、「昔の正しさはいまでは正しくない、だから訂正しよう」という反省のことなのだ。いまのこの正しさも、5年後にはまちがいになるかもしれないし、逆にいままちがっていることが正しいとなるかもしれない。そのような距離をもって考えることが大事である。現在の価値観だけを振りかざし、過去の発言や複雑な文脈をもった行為を一刀両断していく行為は、ポリティカル・コレクトネスの精神に反している。
    だれかの正しさに便乗し、答えが出たと安心してみんなで叩くというのは、むしろ本来の正しさと対極の態度なのである。


    2 じつは……だった
    訂正とは、自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、自分を見つめ直して試行錯誤することである。ひとは、新たな情報を得たときに、現在の認識を改めるだけでなく、「じつは……だった」というかたちで過去の定義に遡り、概念の歴史を頭のなかで書き換えることができる。
    訂正する力とは、あらゆるコミュニケーション、あらゆる対話の原点にある力である。そして、人間のコミュニケーションは本質的に「開放的」である。
    ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっている。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になる。
    裏返すと、これはルールにはつねに穴があるということでもある。「ルールを守らないひとがいて困る」という話ではない。じつは人間は、ルールを守っていても、何でも自由にできてしまう。ルールはいくらでも多様に解釈可能だからだ。
    民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということにある。「正しさ」もみんなで決めるものだ。だから、どんなルールをつくってもそれを悪用する人間は必ず出てくるし、既存の民主主義の常識を破る人間は必ず現れる。そういう構造になっているのだ。
    完璧に正しい市民を育て、完璧に正しい法制度をつくり、完璧に法が守られる社会をつくろうという発想には意味がない。むしろ、ルールが破られたとき、それにどう対処するかが民主主義の見せどころだ。この点において、訂正する力とは民主主義の力のことなのだとも言える。

    人間は「じつは……だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えて生きている。それは人生の転機においては必要になる力だ。長く続けてきた仕事を辞める、長いあいだ連れ添ってきたひとと別れる、そういうときに、多くのひとが、いままではまちがっていた、これからは新しい人生を送るんだと考える。リセットの考えかただ。
    けれども、いままでの仕事はたしかに苦しかった、いままでのひととは性格が合わなかった、でもそれは「じつは」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながっている、だから過去と切れるのはむしろ人生を続けるためなんだ、と考えたほうが前向きになれるのではないだろうか。それが訂正の考えかただ。
    いまはそんな訂正する力をネガティブな方向で使っているひとが多い。「じつはずっと騙されていた」「じつはずっと不幸だった」「じつはずっと被害者だった」という発見」はネットに溢れている。しかし、同じ力はポジティブにも使えるはずだ。

    社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。


    3 喧騒のある国を取り戻す
    訂正する力を使って、思想と文化をどのように批判的に継承していくべきか。
    丸山眞男は、「作為」と「自然」を対立させ、日本人は「つぎつぎになりゆくいきほひ」に巻き込まれるばかりで、作為性=主体性を発揮できない、そこが問題だと指摘した。ぼくはここで別の道、つまり「自然を作為する」という立場を提示しようと思う。変化を変化として許容しながら、それでも一貫性を保つ立場、つまり「訂正する力」による立場である。

    いま日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと思う。戦後日本の平和主義を受け継いだうえで、内実を変えて未来に引き継ぐ。そのために訂正する力を使う。
    軍備増強と平和外交は矛盾しないはずだ。いかなる政府も国民の感情を完全には無視できない。仮想敵国のなかに、日本人と会ったことのあるひと、日本のコンテンツを見ているひとを増やせば、それだけ日本を理不尽に侵略する可能性は減るはずだ。右派が軍備増強を唱え、左派が平和外交を主張する。例によってゼロかイチかの対立になっているが、本当は二者択一ではない。どっちもできる。
    目的は「日本を侵略したいと思わせない」こと。そのためには、一方でにらみを利かせながら、他方で日本のファンを増やせばいい。アニメやゲームをどんどん輸出し、世界中からどんどん観光客を招けばいい。それも一種のリアリズムだと思う。

    ぼくはここに平和主義の訂正のひとつの方向性があると考えている。戦後日本の平和主義を観光や文化戦略と結びつける。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくる。日本の文化的な豊かさを使えば、それを「平和」に結びつけることができるのではないか。

    平和とは喧騒があることだ。政治とは無関係な話題でも大騒ぎできることが平和である。平和とは戦争の欠如のこと。つまり政治の欠如である。政治とは関わらない、友と敵の対立に呑み込まれない活動をたくさん展開できる。それが平和の本質なのではないかと思う。

    日本はもともと文化の国だった。政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国だった。その伝統のうえに戦後日本がある。クールジャパンもある。だから日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではない。そもそもそういう伝統をもっているからこそ平和国家なのだ――。
    ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。

  • 東浩紀さんの『訂正する力』が10月13日に発売!デビュー30周年の集大成、発売早々重版となった話題の思想書『訂正可能性の哲学』の実践&応用編|株式会社朝日新聞出版のプレスリリース
    https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001810.000004702.html

    東浩紀突発#108 『訂正する力』がついに完成! – ゲンロンカフェ
    https://genron-cafe.jp/event/20231003/

    朝日新聞出版 最新刊行物:新書:訂正する力
    https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=24421
    ---------------------------
    帯がデカイのか!

  • 正しさや価値観なんて、人それぞれだし、時が経てば変化もすることを前提に、臨機で対応していこうぜ。
    一言で言えばそういうことなのかもしれない。
    「訂正する力」と定義づけしてしまうからだと思うが、なかなか深いし難しい。
    弁証法のようなブラッシュアップや対話の重要性、ユニーク性による価値観の見直しなど、持続可能な日本を作っていくために大事なものを説いている。
    みんながそういう考えを持てれば素晴らしいと思う反面、一つの失敗で吊るし上げられちゃうんだから守りに入っちゃうよな、「にんげんだもの」とも思ってしまう。

  • 『訂正可能性の哲学』に続いて読了。こちらも素晴らしかった。訂正する力とは、成熟する力であり、決断する力であり、読み替える力であり、幻想をつくる力であり、考える力であり…と巧みに言い換えを重ねながら進んでいく語り口は、まずなんといっても社会や人間に対しての冷静な現状認識に裏打ちされていると感じた。冷静というか部分的には諦観とも取れるところもあるけれど、認識のありかが明確だから押し付けがましくないのに力強い。リベラルや保守、そして文系と理系などの整理と提言もわかりやすかったが、物語やアイデンティティ、意思などの個人の認識に関わる話も周辺の関連する議論との関連も含めてとても面白かった。いただいた視点を使って自分も自分なりに過去と現在を結び直してものごとを前に進めていくアクションをとっていきたい。

  • 着眼点が素晴らしいと思ったが、なんか難しかった。スラスラと読めるが難しい。伝統も残しながらアップデートして未来につなげるとか、交換不可能な固有な存在になれというのは、本当にそうだと思った。

    • りょうさん
      読もうかと迷っているのですが、抽象的な学びなだけあって、現実でアウトプットするのが難しくないですか?(汗)読んで満足してしまいそうで読もうか...
      読もうかと迷っているのですが、抽象的な学びなだけあって、現実でアウトプットするのが難しくないですか?(汗)読んで満足してしまいそうで読もうか迷ってます..
      2024/02/15
  • この本を読むと、ブレない考えの単純さが強調される。コロナ対策を例に、日本の試行錯誤の難しさを感じた。日本の失敗を許さない文化がイノベーションの障壁として描かれており、訂正する力の重要性に深く感銘を受けた。

  • 訂正する力、
    「それは過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力ーー過去と現在をつなげる力です。
    持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、読み替える力であり、『正しさ』を変えていく力でもあります」

    この「訂正する力」と、「不易流行」「アップデート」との違いって何だろう?
    と思いながら、読んでいた。

    あくまで私の感覚だけど、「不易流行」は本質の持つ重みが生きた言葉のように思っていて。
    「アップデート」は、基盤は変わらないものの、機能的な新しさが加わる、修正されてより便利になる言葉のような感じがする。

    筆者は「訂正」と「修正」の違いにも言及しているが、以前のバージョンを「誤り」と見做すのではなく、「新解釈」しながら現在に合わせていく、ようなイメージでいるのかもしれない。

    思えば自分自身の仕事には、「訂正」の持つ「間違い」感が割と重く付きまとう。
    なるべくなら「訂正」を出したくないような、否定的なイメージを持っている。

    けれど、善悪、正誤を決めつけず、ある意味では保留しながら時間をかけて、自分の考えを可変させていくことの意味はよく分かる。
    そして、それは時間的な合理性、分かりやすさを求める今の社会にとって、価値あるものだとも思う。

  • 読後、救われた気分になった。「こんなはずではなかった」「こうであるべきなのに」そうやって自分を追い詰めてしまう事が多かったが、確かに「じつは・・・だった」と捉えなおすと、前向きに考えることが出来る場面が多いことに気が付かされる。
    「ひとはだれでも交換不可能で、固有の存在」この記述に励まされた。

    改めて「訂正可能性の哲学」を、今度はじっくりと読み直したい。きっと、もっと発見がある。

    ありがとうございます。

  • 優しい言葉で読みやすかった
    確かに訂正する力って必要だよな〜とは思えたけど、それをどうやって実生活に落とし込むのかがピンと来なかった
    訂正する力に関する当事者意識があんまりわかなかった

  •  訂正する力とは何か?それは老いる力で、持続しながら変化する力でもある。世の中に絶対なものなどなく、日々変化し続ける。そんな中で人類はルールを作り統制していくのだが、必ずルールには穴があり、そこから綻びが出る。
     しかし我々は綻びに手を加えて直すことができる。その綻びから生まれるものもある。
     如何に自分をメタ認知し、訂正していけるか?考えていけるか。昨今のネガティヴケイパビリティに通じる話である。
     加速していく社会、時間は有限で、我々は為すべき仕事が多い。その目まぐるしい世界の変化に対して、速度を合わせることではなく、しっかりと思考しなければならないのだ。しんどいが。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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