改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)
- KADOKAWA/角川学芸出版 (1982年1月16日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (332ページ)
- / ISBN・EAN: 9784041501016
感想・レビュー・書評
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国家は共同幻想であるとして、
フロイト読解による〈幻想〉から始め、その論理的延長によって、記紀の日本〈国家〉成立のうちに幻想を見つけ出そうとする。
個人的幻想から家族的幻想、共同体的幻想へと広がっていく流れになっている。
筆者にとっては〈幻想〉であるということが特別であることのように感じられているようだが、いまやあらゆるものが幻想であるとも言える(それは逆に、真実性を必要としなくても、すべてが現実であるとも言える)。そういう前提に立ってしまえば、〈幻想〉であるという主張のみでは有効性は持たない。すると、別の点に重要性が移行するだろう。おそらくそれは、幻想の軌跡がイコール歴史であるということではないか。とすれば、この書は一つの歴史書と言えるのではないか。
そういった意味で、この著作は「不可能性の時代の歴史書」の側面を持つかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
図書館で借りて駆け足で読んだけど、これは後日ちゃんと腰を据えて読み直すべき
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学生のときに読んだが、正直なところ、難解でほとんど理解できなかった
今後も処分せずに本棚に置いておき、再読しようかと思う
ばななさんの父親というのにも驚いた -
うーん。
自己幻想から、対幻想から共同幻想というものが、
大事なのはわかる、分かるんだけれども
原理として建てたいのは分かるんだけれども、
この著書では前半までは対幻想、後半は共同幻想を扱う。
その対象は、想像力しか及びえないところにむかっていくため、
それを原理としておくにいはきつい。
個人が、何らかの社会に属する時に
非物理的な空間を媒介としていることを、
吉本はなんとかつかもうとしている。
その理路の底板になっているのは、
ヘーゲルとフロイトだ。この出会い。
しかし、この本は、時間切れと言われてしまったように、
途中で終わる。
このモチーフは、『心的現象論』『母型論』へ受け継がれているんだろうな。
まだだ、まだあきらめない。 -
世界を認識する方法として全幻想領域の構造を解明する際に、自己幻想、対幻想、共同幻想という3つ軸で、各々の相互関係と内部構造をはっきりさせればよいというのは非常にシンプルで明解。特に対幻想の疎外から生まれる共同幻想、そして共同幻想と逆立する自己幻想という関連性にはとても納得。この切り口の鮮やかさに団塊世代が引き込まれたのもわかるような気がする。
文学でも政治でも経済でもない総合性と現在性の両面からアカデミズムに陥ることなく世界を検証していくという人は現在でもあまりいないような気がする。で、世に蔓延るのは合理性・経済性やら、人道・情緒・感情主義という偏ったポジションでしかモノを語れない大学の先生や政治家ばかり。吉本にはもっと活躍して欲しかったし、死後の再評価はもっとされてもいいような。
大学時代に買って、パラパラめくっただけでずっと放置していたのをやっと読んだのだが、これ程の内容とは想定外だった。最後の中上建次の「思想が文学を死滅させ解体させた」というのはややオーバーな気がするが、文学者はそこまで打ちのめされたんだろうか??? -
7/18 p.12迄
7/17 読み始め 国家という幻想…自然科学者にとっての素粒子のようなイメージ…これは解決策なのか
歴史的事実を根拠 -
約1ヶ月半格闘した末、ようやく読み終えることができた!
わたしの読書人生の中で最強の出会い、のうちのひとつでした。
今後とも読書にハゲむべし!! -
全体の流れ
・マルクスを通じて国家は幻想の共同体という考えを知った
・「共同観念」の世界を考えるのに「共同幻想」「対幻想」「自己幻 想」を軸にして考えることにする
・この方法を用いて日本における「個々の観念」が「共同観念」に侵されてしまう病理を解析していく
・その題材として「古事記」「遠野物語」を利用する。
文学や政治、経済を統合して観察する視点として「幻想領域」を規定する。
幻想領域は、以下の3つに分けられる。個人の軸となる「自己幻想」、それに対応する「対幻想」上位構造である「共同幻想」。
3つの幻想領域の相互関係がどうなっているかを考えることで、いろいろな領域を考えることができる。
本文では「古事記」と「遠野物語」を題材にして「初期国家」という「共同幻想」がどのように成立してきたか、そして「共同幻想」がどのように「自己幻想」を犯しはじめたか。 -
追悼の意味も込めて。
いやー面白難しいぜ(ワタル風)。
柳田國男やフロイトをテクストに、
「自己なる幻想」「対なる幻想」「共同なる幻想」という
3つの分類で論を展開している。
この本によると、
巫覡と異常者の位相の違いは、
自分で統御できるかどうかによる。
それは「異常」であることを、
共同体の中の幻想に架橋できるかどうかということである。
西洋は一神教的伝統で、
日本は多神教ないしは汎神教的伝統である、
という考えをでたらめだと切り捨て、
これは文化圏のある段階と位相を象徴していても、
それ自体はべつに宗教的風土の特質をあらわしておらず、
一神教的なものは自己幻想の、
多神教または汎神教的なものは共同幻想の象徴にすぎないということだけが重要、
っていうのは面白い。
また、
古事記にある、
アマテラスとスサノオの挿話から、
日本の国家が神話の時代より、
宗教的側面と政治的側面に、
権力が二分されていたという話も面白い。
そこから段々と、
政治的な権力の方が強くなっていくのが、
歴史的な見方になるのだろう。
「天つ罪・国つ罪」と
「倫理(宗教的側面)・法(政治的側面)」の関係は、
権力の二分制から歴史を俯瞰してみると、
アマテラスとスサノオ、
卑弥呼とその弟、
天皇と摂関、
天皇と幕府、
天皇と軍部、
という風に左が宗教的、
右が政治的なものになっていて、
言い換えれば「母性(姉)と父性(弟)」となる。
姉弟の交わりはタブーであるから、
日本がこの二分制を守ってきたのも、
もしかこのせいかもわからない。
それからもうひとつ、
実は天皇は母性の象徴なのではないか、
という仮説も立てられるような気がする。
なぞと、
激ムズだったけれど、
いろいろ面白い視点を得られて楽しかった。
ただ、
3つの幻想の区分けが曖昧なのが残念。 -
のちの歴史的名著となり得るのだろうか?難しい。