職業欄はエスパー (角川文庫 も 13-2)

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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784043625024

作品紹介・あらすじ

スプーン曲げの清田益章、UFOの秋山眞人、ダウジングの堤裕司。一世を風靡した彼らの現在を、ドキュメンタリーにしようと思った森達也。彼らの力は現実なのか、それとも……超オカルトノンフィクション。

感想・レビュー・書評

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  •  超能力者に取材したノンフィクション。
     超能力を信じるか、信じないかは別にして面白いですよ。メディアとかに食いつぶされて大変な思いをした人も多いと思うので、そのへんは何とも言えない思いもありますが。正直、私としてはあってもなくてもどっちでもいいんです。事によってはわからないということが面白いんです。

  • 「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」内の福岡伸一さんとの対談にて話題にあがっていたので手にとった。
    3人の超能力者を長年にわたり追いかけたドキュメンタリー。スプーン曲げの清田益章さん、大槻教授と対決していた秋山眞人さん、ダウジングの堤裕司さん。私自身は直接テレビで見た記憶がないので、あまりピンとこなかったのだけれど、当時は熱狂的ブームになっていたとのこと。
    超能力そのものというよりも、超能力者の人間としての背景に迫るノンフィクション。波乱万丈の物語がフィクションのようだった。

  •  タイトルは笑える。
     職業がエスパーとはどういうことだ。コメディなのか? と思わせて、その実、ものすごい重い題材を取り扱っている。
     書き手はドキュメンタリー映像監督。有名な作品はオウムを取り扱った「A」シリーズだそう。

     エスパーというものについて、当人以外、いや、もしくは親しい人がエスパーでもない限り、「あ、うんSFとかに出てくるアレだよね」となる。
     私は、信じる信じないでいうと、信じてない。
     著者も信じる信じないでいうと、そこははっきりとしない。信じるとは言い切れないというスタンスである。

     エスパーを職業とする彼らのドキュメンタリーを撮りたいとして、まず、企画書を作り、お金をもらってくる必要がある。
     その時、お金を出す人たちは問いかける「本当に信じているの?」と。ネタとしてエスパーを取り扱うのではなくて、職業をエスパーとしているただの人を主体とした場合、企画は通りにくい。その状況すらも著者は語る。
     語るとは何か。
     なぜ語るのか。

     エスパーという、日常ではあまり使わない職業を選んだ彼らに、周囲の人に、わざときつい言葉を投げて反応を見る。そしてそんな言葉を投げる自分に傷つく。しかし、傷つけても、傷ついてもみたいものがあるという姿勢がすごい。
     これも数ヶ月前に読んで、言葉が出てこなかったもの。

     再読したい。

  • ドキュメンタリーなの?と思わせるくらいの浮世離れ感。読みやすく、ところどころフィクションの小説かと錯覚してしまった。それくらい、出てくるキャラクターたちの個性も強くて。
    でも、これがドキュメンタリーなんだってことにこの作品の面白さ、深さがあるなぁと思います。

    「信じるか、信じないか、結局その質問にしかたどり着けない、自分はその程度」という作者の言葉がとても印象的でした。あなたは信じますかという問いを尋ねたい訳でもなく、そこに固執したいのでもないけれど、やっぱり聞かざるをえない。すごく正直な作者だと思った。

    そして私もやっぱり「えー嘘だろう」と思い続けてしまった。

    途中の作者の葛藤すら、面白かったです。

  • 人は見えないもの、わからないものに恐怖を抱く。
    そして頭ごなしに否定する。
    ということに、一石を投じようとする一冊です。
    現象そのものを肯定、否定せず、人を信じますというスタンスがこの本のキモでしょうね。

  • 森達也がテレビのドキュメンタリーの取材をきかっけとして長年追いかけてきた3人の「エスパー」- オールマイティな秋山眞人、ダウジングの堤裕司、スプーン曲げの清田益章 - についてのノンフィクション。ドキュメンタリーと言ってもいいのかもしれない。

    スプーン曲げの清田氏は、一時はTVで頻繁に取上げられていたらしいが、自分の記憶にはほとんどない。ユリ・ゲラーの記憶もほとんどないので、ぎりぎり少し前の世代の記憶なのかもしれない。彼らがそんなに稼いでいたというのも驚いた。
    スプーン曲げ含めて自分はまったく信用しておらず、トリックに違いないと思っていた。これまで、ラスベガスでクローズアップマジックも見たし、アメリカでホームパーティに来ていたマジシャンが目の前でやってもらったマジックも見た。全くどうやっているのか分からないし、素晴らしい技だと思った。でもタネはあるというのが前提だ。マジックと超能力はタネの有無を前提とするのかの違いがある。

    森さんが何か嘘やごまかしをしているとは思えない。また、そこで感じているリアリティも本物だと思う。清田氏の実家で、両親を前にして聞いた幼き頃のエピソード(テレポテーションや宇宙人まで出てくる)の会話も、内容はある意味トンデモないのだが、妙なリアリティがある。3人のエスパーたちもこんなに長きの間、嘘をつくメリットもないだろうし、ダウジングの堤さんは性格なのか、あえてやる必要のないリスクも取っている(しかも時々外す)。この本を読んでいると人との付き合いの中で何かを判断するというのは難しいものだなと思う。

    超能力はあると断言できず、それでも彼らを信じることもできる。全く矛盾した感情を抱えて進む物語に引き込まれる。そして最後には能力があるかどうかで困惑などする必要などなく、「自分を信じ、他者を信じ、日々を送る彼らを僕も信じる。彼らの人格を信じる」と結論づける。彼らへのまなざしは信頼に溢れている。「彼らとの付き合いは今後も続く。これには確信がある。被写体として興味が持続しているからじゃない。彼らを好きだからだ」となる。そしてその影響を受けて、自分も心の底からは信用していない本の中のエスパーたちに肩入れしてしまうのだ。そう感じてもらえないかもしれないが、面白かった。

  • 「少なくとも我々は嘘をついていない」という超能力者に対して、一体何が言えるのか。何も言えない。
    著者の視点にはいつも世界観が揺さぶられる。

  • 「……UFOを見たことがあるとか宇宙人に会ったことがあるとかって話をすると、みんな困ったなあって顔するんだよ。それは信じられませんってはっきり言う奴もいるよ。だけどさ、じゃあ聞くけど、おまえら本当に、UFOを見たいと思って夜空を見続けたことがあるのかよ?
    俺は見ているよ。毎晩何時間も見ていた時期があるよ。否定する奴に限って夜空を真剣に見てないんだよ。それで、あるわけないですよって笑うんだよな。だけどさ、本気にならなきゃ何も見えねえぜ。スプーン曲げも同じだよ。否定する奴に限って自分は本気で試してないんだよ。鼻唄歌いながら試したって曲がらないぜ。当たり前の話じゃないか。だからしっかり見てくれよ。たかがスプーン曲げだけどさ、俺とマリックさんとが同じはずがないんだよ。本当に真剣に見てくれさえすれば、そのくらいの違いには誰だって絶対気付くはずだぜ」(240-1)


    スプーン曲げ、UFO招来、ダウジングを職業として選び、世間一般に「超能力者」として認識されている3人を、数年来に渡って追いかけたドキュメント。

    真に世界への感覚を揺さぶられたとき、信じる、信じないという「強い態度決定」の狭間に、私たちは置き去りにされる。目の前に起こった事象になすがままに晒されるだけである場面というのは、確かに存在する(たとえば絶景を見ているとき、事件を目撃したとき)。
    しかし私たちは日常では他者に対し、非常に簡単に「信じるのか」「信じないのか」という、態度決定を迫る問いを投げかける。自身の世界の安寧を頑なに保持するために、まずは早々に態度を決めてしまうことで、出来した事象の理解可能な領域だけを残し、不確実性を捨象する。結果、いつの間にか本来の事象の全体に届きうるはずだった思考の、その手を伸ばしうる範囲自体を切り詰めてしまう。

    何も、価値判断の不純さを訴えるものではない。ただ、私たちはそのように思考することで、世界を成立させてきたし、きっとこれからもそうしていくだろうということだ。
    ただしそのことに少しでも感覚があるだけで、自身の世界の領野は遥かに広がるだろうし、世界への感覚それ自体も鋭敏になるだろう(最も、それによって痛みや苦しみを感じ、煩悶を抱えるシーンは確実に増えることになる)。

    そのとき、世界や他者は相変わらず大きな不確実と未知を抱えたものとしてあらわれる。自身の態度決定によって切り詰められてしまう前のそれらの姿に、今までよりも少しだけ、近づくことが出来るようになるのかもしれない。


    長い期間の交流にも関わらず、被写体によって変化を被ることがなかった、ドキュメンタリーとしては失敗だったと述懐する著者の論調が、他の作品と比しても自己否定的であることが印象に残った。

  • 図書館で借りてきた本。

    森氏のこの手の本は結構好きだ。

    彼の書く本の構成は今まで読んできた中で言うと正直「ワンパターン」だ。映像としてのドキュメンタリーは見ていないのが残念だが、撮影対象とどう出会い、どう撮影し、その間にどう思い、物事を進めていくのか、考える過程が分かって面白い。おそらくわたしもカメラは抱えていないものの、対象物とどう出会って、どう向き合うか、と言うことを文章で書くとこうなるんだろうなあと思わせる。

    この本を読んで思ったのは「超能力者」は差別されているということだ。テレビで「スゴイ」ともてはやされても、結局は「科学的に証明されない」ということになり、ウソつき呼ばわりされる。そういう意味ではものすごいテレビの被害者なのだが、なぜそれでもここに出て来た3人はこんなに優しいんだろう、と思う。

    人が想像を絶することであればあるほど(例えば宇宙人と会ったとか)彼らは「テレビでは流さない方がいいよ」とか「しゃべりたくない」って言うんだよね。多分、これは周囲の人にいくらいっても信じてもらえなかった、という彼らの体験があって、それでそう言わせてしまうんだろうなあ、と思った。と同時に一方では「超能力者」と讃えながら、その実番組を作っている人はそれを「本物」とは認めない。認めると視聴者からの苦情の電話がかかってくるからだ。

    もちろんそれが真実かどうかはわたしも見たわけじゃないから分からないし、もし見たとしても(この著者のように)信じられない」かも知れない。

    「想像を絶する」ということを認めたくない人間がいる。おそらくわたしもそのうちの一人だろうし、そしてまた森氏も同じだ。だが、彼の書く文章から、彼が「信じるか信じないかは曖昧の間までいい」という結論を出しながらも、わたしは少し「信じてもいいんじゃないかな」と思い始めている。。

    それは多分、森氏が「信じていないですよ」と言ったあと、自分自身呆然とした、ということとおそらく似ているのではないかと思う。もしかしたら心では9分9厘信じている、のかも知れない。が、どうしても「信じている」とは言えない。そんな状態なんだろう。

    とにかくここに登場してくる3人の超能力者は、とても魅力のある人物だった。幸せになると超能力は鈍くなるそうだが、わたしは彼らの今後の幸せを願っている。

  • 本当に見たもの、感じたものが全て。
    追い込まれて一線を越えた先になにかある。
    星空を見ようと思う。

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著者プロフィール

森 達也(もり・たつや)
1956年、広島県呉市生まれ。映画監督、作家。テレビ番組制作会社を経て独立。98年、オウム真理教を描いたドキュメンタリー映画『A』を公開。2001年、続編『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。佐村河内守のゴーストライター問題を追った16年の映画『FAKE』、東京新聞の記者・望月衣塑子を密着取材した19年の映画『i-新聞記者ドキュメント-』が話題に。10年に刊行した『A3』で講談社ノンフィクション賞。著書に、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『ご臨終メディア』(集英社)、『死刑』(朝日出版社)、『東京スタンピード』(毎日新聞社)、『マジョガリガリ』(エフエム東京)、『神さまってなに?』(河出書房新社)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『フェイクニュースがあふれる世界に生きる君たちへ』(ミツイパブリッシング)、『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』(講談社現代新書)、『千代田区一番一号のラビリンス』(現代書館)、『増補版 悪役レスラーは笑う』(岩波現代文庫)など多数。

「2023年 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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