- Amazon.co.jp ・本 (220ページ)
- / ISBN・EAN: 9784048735131
感想・レビュー・書評
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トルコのアジアとヨーロッパの空気が混ざった雰囲気がとてもよくでていて、さながら自分が本当に旅行しているのではないかと思うくらいその場の空気を感じられた。
古代を想い、未来を紡ぐ、そんな考古学のエネルギーが軸にあり、個性的で神秘的な出来事が起こるのだが、まとまっており読みやすい作品だった。
ある時間を共に過ごした友の顛末は静かに胸を打ち、涙なくしては読めなかった。 -
トルコを舞台に日常を繰り広げる青年のトルコ滞在記。彼の周囲の様々な国の人々、出会った街の風景や事象、それらを通して青年が思考する様はあたたかく、時に物悲しく、そしてどうしようもなく愛おしい。文化、歴史、人々のかぎりない連鎖と出会いが、ささやかだが確かなものとして、ここには描かれている。
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さらりと、読めてしまったのだ。
確かに好きになったし、良質だと思ったし、どこかに残りそうな気がしてたけれど、ごくごくさらりと。
けれどその夜、どうしても眠れずにベッドでうたたねしながら、ずっとトルコの黄沙色の夢に落ちていた。それは哀しくて、怪奇的で、死にそうに辛い夢だった。何度も何度も、彼らと出逢い、彼らの死に際に立ち会って、足掻いていた、ただ闇雲に。眩暈がとまらず、吐きそうなくらいにつらくて、妖しくて、まるで迷路を這いずり回っているような感覚で、翌朝疲労困憊して目が醒めた。
こんなにも残った物語は初めてです。もう二度と勘弁してほしいくらい。
ディオニソスが好き。そして綿貫は、なんか一皮剥けましたね。あいかわらず舫い杭で囚われびとをしているのかなあ。 -
百年前の日本人留学生村田君の土耳古(トルコ)滞在記。
世界大戦、友人達の死へと繋がっていくラストは悲しいけれど、異文化の中での穏やかな日常を描いた、ユーモアに包まれた作品。 -
古風な文体が読みづらくもあり、面白くもあり。
『f植物園の巣穴』のように摩訶不思議な世界に偏っていくのかと思いきや、むしろ逆の結末—現実に戻っていく感覚を辿る印象。 -
帰国した主人公が,大学の権力闘争に巻き込まれて「死ぬ程疲れ」ていくのが,切ない。あの遺跡の地に戻りたい,と思い詰めたトルコでは,戦争が勃発。輝くような日々は取り戻すことができません。
途中,あまりに淡々としていて,退屈しそうになりましたが,平凡に見える日がいかに得難いものか,最後に泣きました。 -
考古学の研究にトルコへ渡った村田氏のトルコ滞在記。
下宿先での宗派の違う同居人たちとの交友。
ちょっぴりミステリアスな異国の神との遭遇。
異文化との触れ合い。
考古学への情熱。
たんたんとした始まり、たんたんとした日常の中にある奥深い人の生。
全体的に優しさに溢れた物語。
オウムの絶妙な一言が要所要所に色を利かしてるのも読みどころ。
「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない…」
中でも一見情の薄そうな友人ディミトリスの台詞が、村田の心にも読んでいるこちらもハッとさせられる物語のテーマとも言える。
ラストの展開に「ああ梨木さんだぁ。」と、帰郷したかのようにホッとさせられるとこも好き。 -
小説を読んでこんなに涙が出たのはこの本が初めてだと思う。
暖かくて沁みてくる。
何度でも読み返してしまう。 -
「どうしようもなく日本人なのです。 」
19世紀末、トルコの招聘により考古学の研究のためスタンブールに滞在していた村田が、その下宿先であるディクソン夫人の屋敷で、国を超えた友と過ごした青春の日々の記録。その魂の交信は時として人知を超えたモノにまで及び…。
読後、本作品が著者の「家守綺譚」のスピンオフ(?)の物語らしいことを知り、「うわー読む順番まちがった?!」と一瞬思いましたが、単独で読んでも切なくもどこかほわんとした味わいのある読後感を得ました。
同じ歴史の研究者であるギリシア人ディミトリス、ドイツ人オットー、面倒見の良いイギリス人のディクソン夫人、気のいい使用人ムハンマド、忘れちゃならない彼に拾われてきたおしゃべりの鸚鵡に至るまで。
切なさの在り処はやはり、トルコという国のしかも東西文化の接点であるスタンブールと言う街を舞台にして語られる彼らとの友情と、彼らがそれぞれ別個の国を背負うゆえ翻弄されることになるその結末ゆえでしょう。
ムスリムの国でありながらもその地形の特殊性と経てきた歴史とによって、ヨーロッパとは常に無縁ではいられなかった土耳古(トルコ)、彼らの物語はやはりどうしてもここが舞台でなければならなかったのだと思います。
<「私は人間だ。およそ人間にかかわることで私に無縁な事は一つもない」>
人間愛とでもいうのでしょうか。本作品を貫くと思われるこの重要なモチーフの一方で、この異国にあればこそ浮かび上がってくる日本人ならではの縁もあります。
「山犬」の章で、村田が同じ日本人留学生の木下とエジプトから来土した貿易商・山田の知人、清水を迎えにゆき、日本人3人だけでの会話のくだりです。久しぶりで焼魚などを肴に日本酒を酌み交わしながら、国際情勢を語る3人は意気投合します。
いずれも今、異国の地で外から「日本」を見つめる3人は、民度が低くまだまだ近代国家としては一人前とは言い難い国を想い、ため息をついたり押し黙ったり、暗澹たる気持ちになったりするのです。たとえ窓の外にはモスクの尖塔がそびえ、朝な夕なにエザンの声高らかに響き渡ろうとも、今、この日本人だけ3人の醸し出す空気は「どうしようもなく日本」なのでした。
登場人物のメンタリティの違いによる場面の空気の描きわけが見事なのです。村田が帰国して舞台が日本に転換するところなどその空気感の違うこと、まるで夢の世界から現実に舞い戻ってきたかのよう。
でも、それは決して夢の世界での出来事などではありませんでした。エフェンディ村田に関わったすべての人の思いを背負って、あの鸚鵡は確かに彼の手に戻ったのですから。